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悠然と流れる大河、ヴォルガ。静かなるドンと並び、ルーシ人にとっての母体となる河。
その最下流に、石造りの宮殿都市がある。
タタールが都、サライ。別名を、黄金のオルド。
それはつまり、ルーシの再統一は破れ、泡沫に帰した事を直接に意味していた。



宮廷の尖塔で、少年は大地を見ていた。
ヴォルガ川の見果てぬ対岸から強風が吹きつけ、水平線はまだ暗かったが微かに壮麗な朝日の予兆が薄い雲を染めている。

意味などない。
大河ヴォルガを下る旅は、少年の足ではひどく遠く、辛かった。しかし、それは彼に課された使命であった。
間違いようもなく、絶対で違うことなど出来ない事実。
いまやルーシ人の全ては、タタールの庇護下にあった。

旅路の厳しい試練に過敏となった神経は、与えられた休息を拒否する。
意味などない。
眠れぬ夜の時を、費やす手段が他に思い浮かばなかっただけだ。
宮廷は、覚束ないような淀んだ空気を孕んでいる。冷たい石造りのあいだにろうそくの弱い焔が揺れて、いっそう覚束なさを際立たせていて、不快な湿度を感じさせた。
虚像。ここに、ホントウは何一つ存在していないのだ。意味などない。


あらゆる民の収入から、10分の1の税を支払うこと。
万を越す大軍を率いた、神を信じぬ男は、暗い色の瞳でそう、要求した。それしか、要求しなかった。
寛容なのだ、と誰かが言った。これからは、タタールがルーシの守護者となるだろう、と。
税金の支払いを約束する限り、内政には干渉しないのは、果たして「寛容」か。安っぽい猫なで声で媚びるように政治的忠誠の意志を表明することが正しいのか。
意味などない。考えた所で、分かるはずもない。


倦怠を覚えていた。もともと凍えた気候は嫌いだ。手足が痺れ感覚がなくなる。
粗織のコートは、身を切るような冷たい風には勝ち目なんてない。
それこそ自分と、異邦の支配者ほど、違う。


偉大なるルーシの正統なる継承者。キエフルーシ。
ごめんね、と泣きながら謝った姉の姿が、脳裏に焼きついている。
タタールに占領されたキエフには、何が残ったのか。
答えは、頭蓋骨と廃墟と、虚無だけだ。
気高く優しかった姉は、どこにも居なかった。
ルーシの再統一は破れ、少年は孤独だった。

冬の風が頬を冷やして、冷えた歯を鳴らして、少年は夢の終わりを自覚した。
寂しかったわけじゃなくて、ただ空虚だった。
だれも、いない。ぼくは、ひとり、だ。



戻ろう、と思い切って、後ろを振り向いた。
意味はない。願ってなんかいない。振り返ったら、姉も妹もいて、またみんなで暮らせるのだ、と、そんな夢みたいなことを、願ってなんかいない。
心中で言い訳をして、石の床をぼんやりと見ながら低頭して足を踏み出した。
だから、気配の感じない姿に、一瞬反応が遅れた。
口が渇き、鼓動が早くなる。


闇色の支配者は、夜明けの色に溶け込むように髪をなびかせて、静かに立っていた。







(何してんだろう…僕…)

石造りの、贅の限りを尽くした部屋に、白い湯気が立ちのぼる。
コートもマフラーも、暖かい湯を吸って、皮膚に張り付いているが、不快ではない。
じんじんと、足の先から指先まで、血が巡り感覚が戻る。ひどく、暖かい。

首根っこを掴むように、放り出されたのは湯船だった。
ハーンの湯浴みのための部屋らしかった。

一つに纏めた黒髪を解いているのを、はじめてみたと、少年はぼんやり考えていた。
色こそは違えど、まっすぐできらきらしていて、妹の髪を思い出した。
触れたい、と思ったのは妹に似ていたからで、それだけでそれいがいに理由なんてないと、心の中で言い訳する。

(何がしたいんだろう…この人…)

不思議そうに見上げる少年に、男は手に木製の桶で湯をすくって掛けた。
敵になれる存在など、この世にはない、といった横柄な態度で。


口と目に入った湯を手で拭って、男を盗み見て、そして少年は気がついた事に驚く。
怖いと、思っていた。
今でも怖いと、思う。
けれど、この無口な実力者を、不思議と嫌いだと考えたことは無かった。
大きくて恐ろしい人。けれど、不快ではない人。
濡れたような視界に大きな手が写って、オニキスの精悍な眼が鋭利な色がその向こうに見えた。
頬が温かい。触れられた髪から侵略されるように、熱が波及する。


「――…すきなんか、じゃない」
「知っている」

声は、浴室に思ったよりも響いて驚いた。返答が来た事にさらに驚いて、殴られないことに一層驚いた。

白銀の髪に指を通してから離れる手を大きな目で追って、たどたどしく手を伸ばしかけて、それから、はたと気がついて、少年は腕を下ろした。
濡れた黒髪に手が届かない。身長が随分と足りない。
今度は少し寂しくなって、不貞腐れた子供宜しく唇を尖らせた。

(せかいでいちばん大きくなって、ぬかしてやるんだから)


くたっと着衣のまま湯船にへたり込んで、少年は小さな窓から明けゆく空を同色の瞳で睨んだ。
震えも寒さも、一人ぼっちの痛みも、消えていることにまだ気がついていなかった。







仮タイトル:タタール的駄々っ子の躾け方(笑)
モンゴル人に風呂に入る習慣があるのか、とか、サライに尖塔あるわけない、とかはツッコんじゃいけない所です。

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