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1812年6月、フランス帝国ナポレオン一世率いるフランスとその同盟国から動員された軍隊は、大陸封鎖令を裏切りイギリスとの貿易を再開させた事を理由に、ネマン河を渡りロシア侵攻を始める。
フランス側の軍勢は当時、ヨーロッパ史上最大規模の60万人 。
迎え撃つロシア軍は有志の義勇兵を含めて20万人。
兵力の差は歴然。
装備面においてもフランス側が有利で、勝敗ははじめから決しているように思われた。

同年8月26日、退却し続けるロシア軍を追って、モスクワの西112キロメートルに位置するボロディノにおいて、両軍が正面衝突。
あわせて7万人以上の死者を出し、ロシア軍はさらに撤退を余儀なくされる。
ロシア軍が退却する先には、聖都モスクワが位置していた。

そして、9月14日。
フランス軍がモスクワに入城する。






モスクワは、ロシアの祖であった。
「タタールのくびき」という厳しい時代を経て、モスクワ大公国から始まり大国ロシアへと登りつめたこの国の、紛れもなく心臓部分である。
皇帝が住む都の座こそはサンクトペテルブルクに譲り渡したものの、未だにサンクトペテルブルクと並び「両首都」と称されるこの町は、伝統的に教会が多く、「40の40倍」の協会があると形容されている。
中でも、クレムリン内のウスペンスキー聖堂は、帝政ロシア皇帝が即位の儀、戴冠式を挙げる場所である。
ここは、未だ、ロシアがロシアたる所以を示す聖地。



美しく荘厳なイコノスタス、崇高な多数のイコン。
壁や柱を埋め尽くすは圧倒されるほど格調高く古雅なフレスコ画。
まさに宗教美術の至宝と言っても良いその空間に、カツカツと軍靴の足音が響く。
たった一人しか居ないはずの聖堂内は、まだ9月半ばにも関わらず、冷涼な空気が満ちていた。
クレムリン内において最大最古にして、帝政ロシアにおいても最も重要なこの教会は、酷く孤独で空虚な静寂を湛えている。



踏み入れたのは軍服の青年。
流れるブロンドの髪は、秋に実る黄金の麦畑。
蒼い瞳は、コバルトスピネルのように強く深い。

「―――…いるんだろう?」
聖堂内を眺めてしばらく逡巡してから、彼はゆっくりと口を開いた。



その声に誘われるように、ゆらりと陽炎のごとく人の影が現れた。

白銀のプラチナブロンドに、色素の薄い白磁の肌。
長身だが、大人とも子供とも異なる空気感を纏った粗末なコートの青年は、金の青年の呼びかけにふわりと、作り物めいた笑みを浮かべた。
光が届かない祭壇の最奥、柱の影。
黎明の空を映した紫水晶の瞳だけが、まるで闇夜に浮かぶ燐光のように、濃く色付いている。

「―…久しぶり、だね。」
銀の青年の、温度を感じさせない少し高めの声が聖堂内に反響する。



金の青年が言う。
「抵抗をやめて、和平交渉に応じてくれ。」
おまえに勝ち目はない、と。
留まる所を知らず、ひたすらに信じた道を行く朝の陽光のように、碧眼に気品のある閃光が奔る。

ここで、立ち止まるわけには行かない。
自由と平等と博愛。
頭上に翻るトリコロールの通り、
抑圧された民衆の救出と、悪しき支配者階級の作り上げた封建制度の破壊を胸に宿し、革命の灯火をフランスから世界へ!
そのために、歩みを止めるわけにはいかないのだ。
決して、
決して!





「――…”和平”ね。相変わらず、自分の主張を疑わないんだろうね。」

その声は、大聖堂という場所も相まって、いつぞや聞いたロシア正教の奉神礼における聖歌を彷彿とさせた。
厳かで神秘的だけれども、息が詰まりそうな、確かな重厚感。

「今でも解放軍のつもりなら、意識を改めた方がいいよ。きみは、立派な”侵略軍”だ。」
ふふ、と銀の青年が哂う。絶対零度の声音で。


自分を慕っていた純粋な少年。
真っ白い紙にインクが染み込むようにフランス文化を学んでいたあの頃から、ああ、随分と時が流れたのだと、金の青年は感じた。
もはや、あの頃のようにはいかないのだ。
自分も、彼も。



にこり、と、作り物の笑顔。
「”和平交渉”の答えだったよね」
静かな声に込めるは隠しもせぬ明確な敵意と苛立ち。
それでも、銀の青年は哂う。



ゴクリと、自分が唾を飲み込む音を金の青年は耳にした。

恐れている?
そんなはずはない!恐れる事はない。
そうだ、何も恐れる事などないはずだ。
あのお方は我がフランスの頂点に君臨する限り、恐れることなどありはしないはずだ!
事実、聖都モスクワはわがフランス軍の掌中に収まっているではないか。
戦況は圧倒的にこちらが有利ではないか。

だが、心とは裏腹に口の中は酷く乾いていてた。




「祖国の恥に調印するくらいなら、髭を生やして農民と一緒にじゃがいもを食べる方がマシだよ。」



風が入らないはずの聖堂内の、光が灯されていない銀のシャンデリアが、かすかに揺れた気がした。
一瞬のうちに、見えるもの全てに見えない変質が起こったような、知っているはずの場所が、まるで見知らぬ場所のように感じられる、奇妙な感覚。

まさか。
人口にして27万人の市民を持つ大都市、戦闘に巻きもまれぬよう、大多数が疎開したが、それでも一万人以上の市民が息衝いている聖都を、
確かに、想像よりもずっと酷く簡単に入城できてしまった事実に驚きはしたが、
それは古き偉大なる聖都を戦火から遠ざけるためではないのか。
降伏を、平和への道を模索するためにではないのか。
まさか―…!


「―――…モスクワを、捨てるつもりなのか…?」



恐れる事などないはずだ。
だが、これはいったいなんだというのだ。

理解ができない。
そうだ、これは未知への畏怖だ。
そうだろう?
ボロディノで7万人以上の死者を出したあの戦闘は何の為だったのだ!
首都防衛のためではなかったのか!
歴史ある古都を、そこにまだ住む人々を、生きたまま贄に捧げるというのか!


自分の居場所が、崩れ落ちる気がする。
壁と柱のあちらこちらに描かれた聖人や殉教者の肖像画が、一団となって視線で自分を責めているような錯覚に陥る。
理解が出来ない。




花がほころぶように、銀の青年は作り物でない、心底楽しそうな笑みを浮かべた。
自分を慕っていた頃と同じ、酷く純粋に笑み。
けれど、決定的に本質の違いがある。

「ねえ、今日は、凄く風が強いよね。」

そう言った銀の青年の菫色の瞳には、
酷く純粋な狂喜が浮かんでいた。





突如、神聖な静寂さを湛えた聖堂内に、まったく似つかわしくない轟音が響き渡った。

意識を外に向ける。
劈くような鐘の音。
あわただしく駆け抜ける足音。
飛び交うフランス語の悲鳴と怒号。ロシア語の歓喜の声。
何かが衝突し、破壊される音。

その中に混じって、自分の名を呼ぶ緊迫した声もかすかに聞こえる。
なにか、緊急事態が起こっているのは間違いないようだった。

まさか、ロシア軍が攻めてきたのか、慌てて視線を元に戻せば、銀の青年は、雪のような真っ白いマフラーを翻して、聖堂の奥に向かわんとしていた。



振り返った彼と、視線が絡み合う。
温度を感じない氷の視線、ふふ、と薄い笑みを浮かべた唇が、言葉を紡ぐ。
呪詛を唱えるように。

「モスクワが失われても、ロシアは失われない」






轟音が一際大きくなった。
行かなくては、と金の青年は考える。
今は、彼に構う暇はないのだ、と。
大丈夫だ、脅威なぞあるはずがない。
革命の息吹は、全世界に届けられるべきなのだから!
彼も、啓蒙思想には賛成していたではないか!
大丈夫だ、きっと。

コバルトスピネルの蒼い瞳に力強い夏の日差しのような光が灯る。




ウスペンスキー大聖堂の、分厚い扉に手をかける。
行こう、我が同胞の下へ。自由・平等・博愛を掲げた愛しきトリコロールに御許へ。
そこが、自分の唯一の居場所だ!
一刻も早く、あの場所へ!




しかし、
次の瞬間、彼の目に飛び込んだもの。
それは、一面地獄絵図のような、容赦なく苛烈な燃え広がる焔であった。


荘厳な聖なる都市モスクワは、火の海の中に沈んでいた。






街の数箇所から上がった火の手は、大陸性の乾いた空気と強風に煽られ、四日四晩燃え続け、5日目にようやく鎮火した時、モスクワの3分の2が灰燼に帰していた。

現地での食料調達に窮したフランス軍は、入城から36日後、撤退を余儀なくされるが、そこに追い討ちをかけたのは、ロシア軍と義勇軍、そして、零下20度にもなる冬将軍であった。
遠征当初の夏装備であったフランス軍は、寒さと飢えのため多くの兵士が命を落とし、同年12月ロシアから帰還した時の兵数は当初の120分の1、たったの5千人になっていた。

ナポレオンは単独で軍を離れ、パリに帰還したが、翌年10月ライプツィヒで破れ、エルバ島に流されたのである。




補足説明&あとがき



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