ある日の賑やかな出来事
「あーっ! 虫!」
そう叫ぶが早いか、ルカは手にしていた化粧品のカタログを丸め、タンスの後ろから這い出してきた虫に打ち下ろした。
べしっ、と紙を打ち付ける音が響く。虫が動かなくなったのを確認したのか、「クロア、ゴミ箱持ってきて」と手招きしてきた。
夕飯を終えた、穏やかな一時。
クロアは読んでいた本をテーブルに置き、言われた通りゴミ箱を片手にルカに歩み寄った。
彼女は手を使わずに器用に虫をカタログの上に乗せると、そのまま薄い冊子をぐしゃっとためらいなく丸めて、虫を包み込んで捨てる。
その行動からさすがに直接手で触れるのは嫌なのだろうということが分かるが、若い女性なら嫌がるであろう一連の作業を顔色ひとつ変えずにこなすそのたくましさに、クロアはある意味感嘆の息を吐いた。
「? どうかした?」
微妙な感情の変化に気付いたのか、ルカが上目遣いにこちらを見た。
「そういや、ルカは虫とか全然平気なんだよな」
ルカは、なんだそんなことか、といった表情を浮かべると、返事しながら手を洗いに洗面所へと向かって行った。
「だって、ミント区には虫なんてうじゃうじゃいたじゃない」
近くにみくりの森もあったし、と、水の音と共にやや遠くから聞こえるルカの声。
そう言われ、昔を思い出す。確かにミント区はあまり衛生環境が良くなかったから、害虫も益虫も頻繁に出た。
幼い頃の自分としては、虫取りが楽しかったのでそういう意味ではありがたい環境だったのだが、今考えれば恐ろしく煩わしいものだ。
そう言えばレイシャさんも虫は平気だったな、とぼんやりと思い出した。
あれこれ思考を巡らせている間に、ルカが居間へと戻ってくる。
「もちろん、小さい頃は気持ち悪かったけどね? 慣れてからは食卓に出るくるるく団子やトマトの方が怖かったよ。くるるく団子はほぼ毎日出てきたし……」
「レイシャさんは、無言で食べなさいって視線を送ってくるしな」
クロアは読んでいた本に視線を戻すが、いつかの食卓の光景が鮮明に脳裏に浮かび上がってきて、おかしくなった。
ルカはずーっと、まるで仇を見るような目で嫌いな食べ物を睨むのだ。あまりに冷戦状態が長引くので、仕方なくクロアが食べてあげたりして、レイシャに甘やかすのは良くないわよ、と注意されたのも懐かしい思い出だ。
「そういうことには、しっかりした人だったからね……」
ルカも昔を思い出しているのだろう。
伏し目がちなその表情はどこか遠くを見ているような感じがした。
昔――パスタリアのある方を眺めていた子供時代のルカの顔がダブって見えて、クロアはレイシャを話題に出したことを少し後悔した。
わだかまりを残したまま逝ってしまったレイシャ。普通に話に出すことが出来るようになるには、まだまだ時間が掛かりそうだ。
ルカの気を逸らすために、クロアは秘密にしようとしていたある秘密を、暴露してしまおうと思い立った。きっと食い付いてくるはずだ。
「でもさ、ようやく好き嫌い克服出来そうなんじゃないか?」
「え? なんで? くるるく団子とトマトは、今でも大嫌いだよ?」
頭上に疑問符を浮かべるルカに、クロアは少し得意げに微笑んだ。
「実は……今日の夕飯の玉子焼きには、トマトが入ってたんだ」
「え……」
「気付かなかったろ? 実はアレ、ペースト状にしたトマトが入って……」
「きゃ――――っ!!」
まるで悪漢に襲われたかのように、大声で叫び出すものだから、クロアは仰天して慌ててルカとの距離を詰めた。
「ちょ、ルカ! 近所に聞こえる!」
軽く手で口を塞ぐようにすると、ルカがキッと涙ぐんだ目でこちらを睨んできた。
「いきなりなんなんだよ?」
「クロアの馬鹿! 私がトマト嫌いなの知ってて、どうして入れるのー!?」
距離が近いのを良いことに、胸ぐらに半ば掴み掛かるかのようにして揺さぶってきた。
予想外の反応にさすがのクロアも思考が付いて行かず、されるがままになってしまっている。
「どうしてって……トマトは栄養豊富なんだぞ。それに何の違和感もなく食べられたんだから、むしろ喜べよ!」
「そういう問題じゃないのっ! もうっ、クロアの馬鹿ぁーっ!」
ルカが急に体重を預けてきて、クロアはバランスを崩して背中から床に倒れ込んだ。
「イテッ!」
その勢いのままルカに頭突きを喰らわされ、一瞬思考が奪われる。
痛みに思わず目を閉じ、再び瞼を開いた時には、拗ねたように頬を膨らませたルカが倒れた状態のまま自分を見下ろしていた。
「イテテ……。そんな怒らなくたって……」
「ごめんなさいが言えない子なんか、もう知らないんだから。白髪探してやるーっ」
わしゃっ、とクロアの髪をかき分け始めるルカ。その手が先程頭突きされた所に触れ、再び走る痛みに顔をしかめた。
「あ、あった! しかも2本も!」
遠回しに老けていると言われているようで恥ずかしくなった――が、クロアはとうとう堪え切れなくなって吹き出した。
「あー、あー! 反省してなーい!」
「いや、そんなつもりなんじゃなくて……ふっ、はははっ、腹痛ぇ」
「じゃあどういうつもりよー!」
抗議の声を上げるルカをなだめながら、必死に笑いを堪えるクロア。
ようやく笑いが止まった頃には、ルカは怒りを通り越して呆れさえ感じたのか、じと目でこちらを睨んでくるだけだった。
「虫が全然怖くないのに、まさかトマトにそんな過剰反応するなんてさ……。ごめん、怒ったか?」
「……次、ご飯に嫌いな食べ物入れたら口聞いてあげないからね」
「…………分かった」
「その間がすっごく気なるんだけど……」
拗ねてそっぽを向くルカを抱き締めると、誤魔化されないからね、と宣言された。
しかし、こうやって密着していると、喧嘩をしてもいつの間にか仲直り出来ていたりするので、クロアは腕の力を緩めなかった。
「……あ、そう言えば」
ぽつりと、ルカが呟いた。その声色が普段のルカのものだったので、クロアは腕を弛めて視線を合わせた。
「小さい頃さ、私が残したくるるく団子、クロアが食べてくれたことあったよね?」
「そうだな」
「……あのね、私思ったんだけど。あの時、結構頻繁にくるるく団子食べてたから――」
「それは、だから俺が女顔になったんじゃないか、って言いたいのか?」
図星だったのかどうかは分からないが、今度はルカが破顔する番だった。
*
Re:frainのちゃと様に捧げます!
ちゃと様宅のロアルカ落書き部屋の、2008年12月13日のコメントを拝見して、俺が2人を心から笑わせてやる!と心に誓って書き始めたネタ。
クロアを笑わせるのが難しくて、シチュエーションを決めるだけで1ヶ月以上かかりました……(笑
なんだかクロアもどきとルカもどきになっちゃった気もしますが……同棲しているうちに、このくらい打ち解けられると良いなぁ、と。
ががが願望ですみません。
第2のコンセプトは日常のありふれた事だったんですが、これはまあ上手くいったかな?
ちなみにあえて出していない虫の名前は……アレです←
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