日もすっかり高くなった頃。夜勤を終えたクロアは、すっかり馴染んだ倦怠感を引きずりながら帰路に着いていた。

 今日は、仕事でラクシャクに行っていたルカが帰ってくる日だ。留守にしていたのはたった1週間程度だったのだが、クロアにとってその空白は、1ヶ月もの時間にさえ匹敵するように感じた。

 パスタリエでルカと一緒に暮らすようになってからというもの、色々今までの価値観が揺らぐことが幾度もあったのだが、それは不快に感じるどころか、何故か不思議と心地良くさえ感じてしまうのだった。

 他人によってもたらされる感情に鈍感だったクロアにとって、その感覚は新鮮で――とにかく、ルカと一緒に居ることが楽しいと感じている。

 ――もう、ルカは帰って来ているだろうか?

 おかえり、と笑顔で迎えてくれるルカの姿が頭に浮かぶ。
 その笑顔を見るだけで癒やされるものだから、クロアの歩みは自然と早くなっていく。

 期待を膨らませ、家へと辿り着き玄関を開けるが――予想に反して、ルカはまだ帰っていなかった。

 期待していた分、クロアは落胆した。





夜更かしは禁物





 ルカの乗った飛空挺がパスタリエに着いたのは、もうすっかり街が寝静まった頃だった。
 繁華街はまだ明かりが灯っているが、ルカが向かう住宅街はすっかり静寂に覆われている。
 子供のようなクロアの寝顔を頭に描きながら、ルカは僅かな街頭が辺りを照らす仄暗い道を走る。

 目指す家が見えてくると、普段なら暗くなっている時間帯なのに、窓にまだ明かりが点いていて仰天した。
 玄関の前まで来たものの、中に入ることを躊躇ってしまう。もしかしたら遅くなったことを怒ってるかも、と想像して怖くなる。

 決してやましいことなどなく、遅くなったのは空猫やノノとの女の子の話が、予定よりかなり長引いてしまったからなのだが――クロアが話の分かる人物と言えど、最近の彼はかなり心配性だから、怒る可能性は無いとは言えない。

 不安に苛まれつつも、夜中に外に居続けるのはさすがに怖いので、ルカは意を決して鍵を開けた。

「クロア〜……? た、ただいまー……」

 声量もやや控え目に、扉を開けると、クロアはやはり起きていた。
 床に座ってあぐらをかき、テーブルに肘を乗せて頬杖を突きながら、眠そうに目を擦っている。

「おかえり、ルカ。……随分遅かったな。最終便じゃないか?」

「うん、最終便だよ。遅くなってごめんね? 空猫達とつい長話しちゃって……」

 ルカは、あまり表情筋が動かないはずのクロアの眉間に、僅かにシワが刻まれているのを見逃さなかった。

 怒っている。もしくは、不審に思っている。そうでなくとも、あまり良い気分ではないはずだ。
 やましいことはない、が、緊張のあまり息苦しささえ感じてくる。

「あのー……クロア?」

「ん?」

「もしかして……怒ってる?」

 勇気を出して聞いてみると、クロアは少しぼーっと宙を見つめた後、

「いや、怒ってないけど?」

 と返事をした。

「う、嘘! 今の間は何!?」

 ルカは内心身の凍る思いだったが、対するクロアは、普段の彼からは想像もつかないゆったりした動作で再び目を擦った。

「そんなつもりじゃなかったんだけど……。ごめん、ちょっと眠くてさ……」

 そこでルカは、予定通りであればクロアが夜勤明けであることを思い出す。 横にならせたらすぐ眠りに落ちてしまいそうなクロアと夜勤明けというワードを結び付けると、あまりよろしくない予感が頭をよぎる。

「もしかして、クロア、帰ってきてから寝てない?」

「いや、一応寝た。でも何故かすぐに目が覚めちゃってな……」

「それでそのまま寝てないの? それって体に悪いよ?」

「明日は休みだから、多分大丈夫」

 当然といった風にさらりと答えたクロアだが、瞼が半分くらいしか開いていない顔で言われても、説得力は皆無だった。

「ホラ、先に寝ててよ。私はお化粧落としたり着替えたりしなきゃいけないから」

 そう言ってクロアの腕を引っ張り寝室に向かわせようとするが、何故だか今日の彼は聞き分けが悪い。「うん」と返事をするくせに、重い腰を上げようとしない。

「もぉ〜、クロア、良い子だから先に寝てよぉ〜」

 無理矢理立たせるのを諦めて、屈んでクロアと視線を合わせた。しかし、その瞳の色を窺う前にがっしりとした両腕に拘束されてしまう。

「ちょ、ちょ、ちょっと!?」

 そのまま、抱き締められる。
 久し振りの抱擁の恥ずかしさと戸惑いにバタバタと抵抗するが、残念ながら徒労に終わるのはいつものことだった。
 
 どうしようか頭を捻っていると、耳元でくつくつと音がし始めて、ルカは驚きでしばらく呼吸をすることを忘れた。

「クロア、笑ってる……?」

 おかしいくらい慎重に声を掛けている自分がいた。
 何警戒してるの、と自分自身に突っ込みを入れつつ、滅多にお目にかかれない状態にある恋人の様子を窺った。

 肩が小刻みに揺れ、笑い声特有の響きが耳朶を打つ。
 どうやら本当にクロアは笑っているようだった。
 クロアが声を上げて笑っているところなんて、幼少期に数回見たぐらいだ。

 何故笑ってるんだろうというところまで頭が回ったのは、ひとしきり驚いて、クロアが声を出して笑っている瞬間を独り占めしている喜びを噛み締めてからだった。

 どうするべきか、悩む。
 話し掛けたら笑うのを止めてしまいそうで勿体ない。しかし、好奇心には勝てない。

「な、なんで笑ってるの?」

 声を掛けても、クロアはまだ笑い続けていた。心配は杞憂に終わったようだ。
 顔を見せずに笑う姿は、込み上げる衝動を抑えているような風にも見える。

「俺って、本当にルカが好きなんだなぁって思って……」

 不意打ちだった。さっと頬が熱くなる。

「何でそうなるの!?」

「んー……」

 恥ずかしさを紛らわすために叫ぶが、クロアは濁すように呻いただけだ。

「都合の良いこと言って誤魔化すの禁止ーっ!」

「なかなか帰ってこないから心配したんだぞ、俺」

 ルカはぐっと詰まる。それを言われてしまうと弱い。
 黙り込んだのを見て抵抗を諦めたと判断したのか、背中に回された腕の力が少しだけ強くなった。

「心配、したんだ」

「……クロア、実は寝不足でハイになってるだけでしょ?」

「……んー」

 具体的なことは何も言わないクロア。結局、いつもルカはこうやって丸め込まれる。
 悔しくて頬を膨らませていたが、ハッと我に返って忘れていた本来の目的を思い出す。
 
「……って、そうじゃなくて! クロアは早くお部屋に行って寝なさーい! 離してーっ!」




 化粧を落として寝間着にも着替えたルカは、寝室から持ってきた掛け布団を抱えながら、リビングの床に転がっている大きな子供に視線をやった。
 結局、クロアはルカの側から離れたがらなかったので、そこら辺にあった服を布団代わりに掛けて眠らせたのだ。

 普段は自分より他人を優先するクロアが、駄々をこねるなんてそうあることではない。
 一緒に暮らすようになってからは割と色々なことを言い合うようになっていたが、お互いに相手を思い遣り過ぎているところが相変わらずあると、ルカは思っていたのだ。

 クロアがこんなに甘えてくるなんて――。

「何かあったのかな?」
 
 男の子のプライドか彼自身の優しさか、クロアが仕事のことをあまり口にしてこないので、次第に気にすることも少なくなってしまっていたのだが――もしかしたら、何か吐き出したかったのか、寄りかかるものが欲しかったのかもしれない。

 布団掛けてやりながら、ふわりと髪を撫でた。よしよしと、起こさないように何度も撫でてやる。
 至福の一時。当たり前だかされるがままのクロアが可愛くて、自然と頬が緩む。

 気が済むまで撫で続けたところで、ルカにも睡魔が訪れてきた。

 ――そろそろ、私も寝ようかな。
 床で寝ることになるなんて、思いもしなかった。朝起きたら体中が痛くなっていそうだ。
 自分も明日、暇を貰っておいて良かったなんて考えながら、クロアの隣に体を滑り込ませる。

 間近に見える、同棲を始めた頃より大人っぽくなった顔。

「遅くなってごめんね。明日、たくさんお話しようね……」

 ちょっとだけ、クロアの意外な一面を垣間見れた。
 いつか、声を出して笑うクロアをこの目に焼き付けたい。

 ――でも、そんなクロアはクロアらしくないかな?

 見慣れたクロアの微笑みを思い出そうとするが、それは具体的なビジョンとなる前に夢の世界へと沈んでいく。

 その日の2人の寝顔が、いつもよりほんの少し穏やかだったのは、夜空だけが知る秘密――。








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あることをしたくて失敗したブツ。
消すのも勿体ないのでアップしました。





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