「幸せに、なってください」
仁科の言葉を背中に受けて、走り出した足。
もう逃げるわけにはいかない。しっかりと向き合わなければいけないんだ。
す
き、きらい、すき、
もう迷わないと決めた。もうこれ以上、自分の想いを見ないふりして偽るのを、本当の自分を隠すのをやめようと。
それは、やっぱりそう決心した今でも怖くて。
こうして痛みを怖がる臆病な自分を根本から変えることなんて、そう簡単にはできないけれど。
(それでも恐怖と戦うことなら―――そうして打ち勝つことなら、今の俺でもできるから)
ドアノブを掴んだ拳に一瞬ぎゅっと力を入れて、バンと扉を押し開ける。
開ける視界。すると目に飛び込んできた向こうから走ってくる人物に、俺は目を見開いた。
「久谷…っ」
「委員長!?」
俺が名前を呟くと同時に、仁科が俺を介抱し終わるのを待ってそこにいたのであろう風紀委員がすっとんきょうな声をあげた。しかし当の本人はそんな自分の責のある役職名には全く反応せずに、脇目も振らず一直線にこちらに向かってくる。
そのまま驚いて扉を開けたまま一瞬固まった俺を、久谷は走ってきた勢いのままにガバッと抱き締めた。
「桐生、桐生…っ」
「ちょ、おい久谷!?」
ぎゅううっと力任せに抱き締めてくる腕。耳元で俺の名を呼ぶ声。全身に感じる体温、荒い息。
そのすべてが理解できなくて、わけもわからず俺は目を白黒させることしかできなくて。成されるがままに呆然としていると、突然今度は後ろから襟を引っ張られて久谷から引き剥がされた。
「…なにをやってるんですか。さすがに腹が立ちます」
急に引っ張られてバランスを崩した俺を支えたのは仁科で。苛立ったような声音が耳元から目の前の相手に発せられた。
しかし仁科はそれ以上なにをするわけでもなく、パッと襟を離すと部屋の中に俺を置き去りにして部屋の外へと出てしまう。追い越し際に頑張って、と俺にだけ聞こえるように囁いて。
「こんな所で立ち話じゃなんでしょうから、中に入ったらどうですか?」
「ちょ、仁科、」
「あなたにはこの事件に関するお話があるので、風紀委員室まで案内してくださいね」
有無を言わせない物言いに、仁科から指名された風紀委員は長に目で確認をとる。指示を求められた久谷はこくりと頷き、悪い、頼んだとだけ言葉を発した。そしてこちらに来ようと歩き出した久谷に、仁科がすれ違い様になにかを囁く。
「―――」
「…ああ、わかってる」
それに短く答える久谷の表情はわからない。そのままくるりとこちらに背を向けて風紀委員と歩き出した仁科の姿は、久谷が閉めた扉に遮断されて見えなくなった。
いったい、なんなんだ。どういうことだ。
思わぬ流れ、そしてタイミングで二人きりになってしまったこの状況に、なんと切り出せばいいのかわからずに一瞬沈黙する。しかしそれをすぐに破ったのは久谷の方だった。
「…もう、動けるのか?」
「え?あー…ああ、もう平気だ」
聞かれてようやく、自分がついさっきまで何をされていたのかを思い出す。そういえばすっかり忘れていた。正直その後の、久谷に見られたことへのショックやら仁科との会話やら決心やらの方が俺にとっては大きすぎて、そこまで気を回す余裕がなかったというか。
そう、そうなんだ。
俺はあの時、はっきりと久谷を拒絶したはずだった。
あれだけ明確に拒絶をしたというのに、なぜこいつは、ここに戻ってきた?
「お前…なんでここに、」
「―――あいつに、聞いたんだ」
「え…?」
あいつ?あいつって誰のことだ。誰に、なにを聞いたって?
久谷には隠し事だとか、誤魔化しだとかが多すぎて。なにを知られたのかわからない。好きじゃないって嘘をついていたこと?ルールを破って独占しようとしたこと?そもそも俺が、こんな情けない人間なんだってこと?心当たりが多すぎてどれかわからず、それがどうしようもなく、怖くて。
そして、自分がいかに久谷に偽りの自分しか見せてこなかったかを、ここにきて改めて実感する。本当の自分など、見せたことが一度でもあったか。
だけど、すべてを打ち明けるって決めたんだ。すべてを見せるって決めたんだ。
俺は、俺で勝負する。
だから―――…
「久谷、俺は…っ」
「―――セフレがいないっていうのは、本当か?」
「え……」
遮られた言葉。投げ掛けられた問いに微かに頷く。俺の肯定に、久谷はなぜかぐっと拳を握った。
正直セフレがいないことがバレたなんて、そんなことは俺にとって些細なことだった。だって俺が犯した罪は、迷惑をかけた大きさはそんなものじゃ収まらないから。踏みにじってきた想いは、計り知れないから。
ただ一つわかったのは、久谷にこの事を話した人物のこと。真実を知っていて、かつ久谷に話すような奴は一人しかいない。
「…これは、お前にセフレがいないって知って、それを考えた上での行動だから」
「久谷?」
「だから、嫌だったら突き飛ばして殴ってくれて構わない」
「なにを言って―――…」
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