すき、きらい、すき、 | ナノ





「―――仁科を、仁科を呼んでくれ…!」



咄嗟に口にしていた名前。
あの時俺の言葉に目を見開いた、ショックを受けたような久谷の顔が忘れられない。あれは現実だったのか、それとも俺がどこかでそうであってほしいと思った故の目の錯覚だったのか。
そんなこと気にしている暇がないくらいには、俺は必死だった。






だからこそ






痛い、熱い、重い、冷たい、苦しい――…

頭が、頭が割れそうだ。
五感が、全ての感覚が、慢性的な痛みに悲鳴を上げる。意識の浮き沈みを繰り返すだけの浅い眠り。痛みと屈辱しか感じない中、ついに気を失ってから、すべてを拒絶し、すべてから逃避して、殻に閉じ籠っていた。
深くなんて、眠れるわけがなかった。しかし同時に、覚醒することも体は拒絶する。

そんな、夢か現かもわからないような眠りの中で何度目かに浮上した時―――俺の名を呼ぶ、誰かの声が、聞こえた気がした。



「―――!!」



重い重い目蓋を無理矢理なんとか持ち上げる。ゆっくりと開いた目に映る、被さるように覗き込んでくる影。
ひゅ、と喉が鳴った。
呼吸が止まる。

熱の籠もる頭にフラッシュバックする、先の光景。



『ははっ、本当に下のお口も上のお口も絶品だな淫乱会長様』



嘘だろう―――…あの狂った行為は、まだ終わってないというのか。
いつになったら解放されるんだ。この悪夢は、いったいいつになったら終わるというんだ。
信じたくなくて、もうなにもかもが限界で、体が、心が、悲鳴をあげた。



「っ、俺に触んじゃねぇ!!」
「ちょっ、おい!?」
「俺はてめぇらの玩具じゃねぇんだよ!!」



覆い被さってくる人影に、渾身の力でもって抵抗する。もう手枷も足枷ない今、俺を拘束するものはなにもない。だというのに抱き込まれるように押さえつけられれば、自分でも驚くほど簡単に身動きがとれなくなって。
それでも諦められずにもがいていれば、唐突にぽんと頭を撫でられて。あまりに予想外のそれに―――そしてどこか、懐かしさを覚えるその感覚に、びくりと体が小さく跳ねた。



「やめろ!触んな!近寄るな…!」
「大丈夫…桐生、もう大丈夫だから」
「や、離れろ!もう、もう嫌だ…!」
「落ち着け、大丈夫だから…」



なんなんだ。なんのつもりだ。なにが大丈夫だ。
その言葉が俺にとってどれだけ大切かなんて知らないくせに。それなのにどうして、よりによってその言葉を。その言葉は、久谷が俺に―――…
そう、思い至った瞬間、俺は全身の血の気が引いた気がした。



(―――まさか…まさか、そんな)



俺の頭を撫でる手の感触、紡がれる言葉、囁く声。
血の気が引き、冷静になったからこそわかってしまう。必死に否定しようとするも虚しく、すべてが導きだす答えは―――たった一人の人物で。

そしてやっとまともに認識できた男の顔は、確かに、久谷以外のなにものでもなく。



「…戻って、きたな」
「あ……え…?」
「ほら、もう大丈夫だ」
「え……なんで、くた、に…?」



そんな、嘘だ、嘘だろう。
しかしいくら頭で否定しようと、視界に写るのは、俺に向かって微かに微笑む久谷しかいない。こんな表情を間近で見ることなんて今まで一度もなかったから、そんなの寧ろ幻覚のような気さえしてくる。
けれど、目の前でほっとしたように笑い、優しく触れてくるその男は、確かに、久谷で。



「あ……や、いやだ…っ」
「おい、桐生?」
「や、見るな、いやだ、俺に近寄るんじゃねぇ…!」



これが夢でも幻覚でもなく、現実だと認めてしまった瞬間、ガタガタと震えだす体。心身ともに拒絶反応を起こし、吐き気さえしてくる。

信じられない。信じたくない。信じられるわけがない。
こんな、こんな惨めな姿の自分が、他でもない久谷の目に写っているということが。他の誰でもない、よりによって、一番見られたくはない相手。
こんなこと、許されるわけがないのに。



「近寄るな…痛っ!」
「っおい、大丈夫か!?」



鉛のように重い体を無理矢理引き擦って、できるだけ久谷から離れようと、自分の体から久谷を遠ざけようと後ずさる。しかし途端に悲鳴を上げた体に、全身を走った痛みに、思わず余計な声が出た。
痛みに顔をしかめた俺は―――しかし、間髪入れずに伸びてきた腕に、痛覚など忘れるほどぞっとした。



「っ、触るな…!」



パシッと躊躇なく跳ね上げた腕。荒げた声は鋭く、本気の拒絶を示す。
無理だ、無理なんだ。よりによってお前の瞳に俺のこんな姿が写っているなんて、お前の手に俺のこんな体が触れるなんて、耐えられない。お前には絶対に見られたくはなかったのに。触れられるわけにはいかなかったのに。



「―――仁科を、仁科を呼んでくれ…!」



助けになど、来てほしくなかった。
他でもないお前だからこそ、俺はその手を掴むことなどできないのだから。





*end*




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