すき、きらい、すき、 | ナノ





―――カチャン…ッ


部屋に響く陶器が割れる音。
不可解な胸騒ぎ。
自分の手から滑り落ち、一瞬前の姿とは変わってしまったそれを、俺はぼんやりと見つめていた。






らいであっても






「久谷様!大丈夫ですか、お怪我はっ?」
「…あ、ああ。俺はなんともない」



掛けられた声にはっとする。
たっと駆け寄ってきて怪我を確認するためにとられる手。男のものとは思えない白く細長い指が、丹念に確認するようにするりと手を撫でる。怪我がないとわかると、そいつは顔を上げて、よかったと花が綻ぶように笑った。



「や、それよりカップが…綺麗だったのに悪かったな」
「いいえ。久谷様にお怪我がないのならばそれで十分です」



そう言って、なんでもない風に笑う。けれど、確かにそれは美しいカップだった。
染みも傷もない真っ白なカップの縁と持ち手に、金色の装飾が施されたそれ。シンプルで、しかし気品のある美しさ。華美な装飾がなされずとも自らだけで輝くようなそれに、無償に惹かれた。よく見てみたくて手にとって、回してみようとしたところで―――それはするりと俺の手から抜け落ちたのだ。咄嗟に掴もうとした手は空を掴み、そしてすぐに無機質な音が部屋に響いた。
紅茶は飲み終わっていて、中身が入っていなかっただけましか。



「ああ、ですけれど、貴方に綺麗と言っていただけて嬉しいです。シンプルながらも気品があって美しくて…なんだか勿体なくて、私にはなかなか使えなかったんです。せっかく買ったのに宝の持ち腐れというか」
「いや、寧ろ価値のわかる人間に買ってもらえてよかったんじゃないか?というか本当に、そんな大切なものを…」
「いえ、結局私には使えなかっただろうから。この美しさがわかってくださる久谷様に、最後に使っていただけて本望ですよ」



なんというか、そんな買い被られても嬉しいというよりも戸惑ってしまう。いつの間にか例外という俺のことが好きな奴らが増えていたことと言い、自分を卑下するつもりはないが、正直よくわからない。

割れた破片を回収していくのを手伝いに、その隣に腰を屈める。
手に取る欠片はやはりどれも美しくて、やはり惜しいことをしたと思う。しかし持ち主さえ使うのを躊躇うなんて、罪なやつだな。
誰もが認める、余計なもののない真っ直ぐな美しさ。皆が手にしたいと思いながら、しかし手を伸ばすのを戸惑うような。
それは、まるで―――…



「って、」
「あっ!大丈夫ですか、今手当てを…!」



ふっと脳裏に過った漆黒。
瞬間、持ち上げた破片が指の上を滑った。



(…―――名前を、呼ばれた気がした)



指に綺麗な赤いラインが刻まれる。
つ、と真っ赤な雫が端から垂れるのを見ながら、わけもなくざわつく胸。ばたばたと戻ってきた男が俺の傷を手当てしようとしているのを、ぼんやりとどこか遠くから見つめているようで。



(大丈夫、だよな…?)



自分でもわからないどこかへと意識を飛ばしつつ、自分に言い聞かせるように心中で呟く。
なにが大丈夫なのか、大丈夫じゃないのか。理由もわからずただ無償にざわつく胸に、俺はぐっと眉を寄せた。






***






「それでは久谷様、ご武運お祈りしております」
「ご武運ってな…なんだそれ」
「なにってそりゃあ、ねぇ?」



意味深に笑いかけてくる視線から逃れるようにふいと顔を逸らす。背中から聞こえるくすくすという笑い声にがしがしと頭を掻いた。
すべて見透かされているような気がして居心地が悪い。こいつは頭が良くて駆け引きの塊のような会話が楽しくてよく誘っていたが、こうなるとそのスマートさが憎い。頭の回転が早すぎるやつは話し相手だからいいのであって、探られる相手としては最悪だ。



「今までとっても楽しかったですよ、ありがとうございました」
「ああ俺もだ。最後がお前でよかったよ」
「ふふ、それは光栄です。お体が寂しくなりましたら慰めてさしあげてもいいですよ、もちろん貸しですが」
「いや、それは遠慮させてもらう、お前だけには借りは作らん」



薄幸そうな綺麗な顔でえげつないことを言う男に顔をしかめる。こいつには本当に、隙を見せられないというか。


しかし、最後だ。
これで本当に最後。今手に持っているスマホはもうなにも登録されていないただの箱となる。かけられる番号もない無用の長物。

思いがけず人数が多かった上、セフレ解消に苦労した相手も少なくなかったため、予想以上に時間がかかってしまった。
しかし、ようやくここまできた。これでやっと、桐生に会いに行ける。たとえあいつが俺のことをなんとも思っていなくとも、何人セフレがいようとも、これからたっぷり時間をかけて口説き落としてやればいい。誰になんと言われようと、なんと噂されようと、いくらでも追い掛けてやろうじゃねぇか。




「あ、そうだ、桐生様と言えば」
「ああ…?」
「…そんな怖い顔なさらないでください。そりゃあわかりますよ、貴方が思いを寄せる相手くらい。もちろん言い触らさないのでご安心を」



すっかり意識が桐生の方にいって浮かれていたところに投下された爆弾。さらに脅しに使うかもしれませんけど、と笑われて顔が引き攣った。こいつの場合、俺のことが好きだから俺を見ててわかったとかではなく、弱味を握ろうとしてたんじゃないかと本気で思えてしまうからシャレにならない。



「まあそれは冗談ですけど」
「…どうだか」
「ふふ。でも少なくとも、自分が貴方の特別になるのだと信じて疑わないような狂気的な方々よりは冷静に貴方を見ている自信はありますから」
「狂気的な方々、ね…」



誰もがこいつみたいなやつだったら楽なのにな。もちろんセフレとしての話だけだが。
もっともセフレだなんて、本気で想っているわけじゃない人間とセックスできる方が狂気的なのかもしれないが。終わりだと聞いて縋りついてくるあいつらの方がよっぽど正常かもな。



「…ああそう、それで、桐生様なのですが」
「なんだよ」
「少し、まずいかもしれませんよ?」
「は?」
「あの方は、最近、目に毒過ぎます」
「…はあ?」



深刻そうな顔をしてなにを言い出すのかと思えば、わけもわからず突拍子もないことで。なに言ってんだと眉を寄せれば、そいつはうーんと唸りつつ少し困ったように笑った。



「久谷様は最近の桐生様のご様子を?」
「いや」
「そうですか。そうですね…桐生様は、最近とても悩ましいというか、おかしな気にさせるような色気があるというか…今までもでしたが、今はさらに艶やかなんです」
「は…?」
「だから、色々とまずいんじゃないかと。久谷様もうかうかは…」



なにが言いたいのか主旨が掴めないまま、さっきからアホな返事しかできない。
そして俺への忠告がその口から出掛けた時―――俺のスマホが、高らかに鳴り響いた。



「っ、悪い」
「…いいえ。どうぞ」



持っていたもう空っぽのスマホではなくポケットから取り出したそれに表示されていたのは、この間無理矢理連絡先を渡されてからずっと連絡していなかった名前。今まで音沙汰がなかったというのに突然きた着信に、妙な胸騒ぎがする。さっきの胸騒ぎも彷彿とさせて嫌な予感がしながらも、指を滑らした機械から飛び出してきたのは酷く焦った声だった。



「はい」
『久谷様!?久谷様ですかっ!?』
「ああ俺だ。どうした、なにかあったのか」



俺の名前を呼ぶのは、あいつの今まで聞いたことのないような切羽詰まった声だった。騒ぐ胸を抑え込みつつ発した声は、予想以上に感情を抑えた低いものとなる。スマホを握る力が無意識に強くなった。



『久谷様!桐生様がっ、桐生様が連れ去られました…!』
「はっ?どういう、」
『生徒二人が桐生様をどこかに!ごめんなさい、僕遠くて追い掛けられなくて…!』
「―――っ」



どくりと大きく脈打つ心臓。
まさか、そんな、そんなはずがない。第一あいつはする側であってされる側じゃないはずだ。基本タチだったはずなんだ。だから大丈夫。きっとなにかの見間違えに決まってる。そうじゃなきゃ。そうじゃなきゃ、いったいなんだって言うんだ。

その自分への問いには答えようとしない頭。ざっと血の気が引くのを誤魔化すように、大丈夫、大丈夫だと自分に言い聞かせながら口を開いた。



「…や、けど、それは桐生のセフレだろ」
『違います!桐生様は抵抗なさってました!それに…っ』



どくんどくんと心臓がうるさい。カラカラに乾いた喉が、唾を飲み込む音をたてた。



『それにっ!桐生様にセフレなんて、一人もいません…!!』



喉から絞り出すように吐かれた言葉。
その言葉が耳に届くと共に、俺は走り出していた。






*end*




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