すき、きらい、すき、 | ナノ





『ほら、大丈夫だから…こっち来い』



へたり込み、荒い息を吐く俺の腕を掴んで力強く引き上げる力。
もう大丈夫だからと頭を撫でた手は、とても大きく、温かかった。






だけで






ふっと意識が浮上する。目を開けると見慣れた天井。時計を見ればまだ五時で、でもまた眠りにつく気にもなれずベッドから起き上がった。



懐かしい、夢を見た。
懐かしいと言ってもたった二年前のことで、しかしまだ十八年間しか生きていない俺にとっては人生の九分の一をも占めるその年月は、やはり長く感じられた。まだ子供時代なるものしか経験していない俺にとってその真偽は不明だが、特にこの時代は変化が著しいから一年が長く感じられるとも言うし。
あの時から、俺は少しでも成長しただろうか。なにか得られたものがあっただろうか。具体的ななにかを考えようとして、しかしそれも上手くいきそうになかったからやめた。あの時よりも強くなれたとか、自立できたとか、そんなことあり得なかったから。
まさか自分が、こんなにも簡単に逃げ出すようになるなんて―――他人につけ込むのが上手くなるなんて、あの時は欠片も思っていなかった。



「…変わっちまったなあ」



洗面所で、鏡に写る自分を見ながら、誰に言うでもなくぽつりと呟く。俺と同じ動きをするそれを見て、お前誰だよ、なんて中二臭い台詞は言えないけれど。
晒けだされた上半身のあちこちに散る赤い痕をつ、となぞる、自分だとは思えない鏡の中の男は、俺に合わせて瞬きをする。だから多分、その男は俺で。俺自身で。しばらく見つめ合ったあと、それから目を逸らすように、思いきり顔に水をかけた。



あれは高校一年の春、転校したての頃だった。
驚くほどに豪華な校舎と驚くほどに嫌味な生徒たち。そしてなにより彼らが脈々と受け継いでいるとち狂った因習のおかげで俺は、この学園のことが、ヘドが出るほど嫌いだった。
外見を騒がれるのも、家柄を褒め称えられるのも、暴露されていた編入試験の成績を賛美されるのも、こんなに不快なことだとは思っていなかった。人はこんなにも打算的になれるのかと―――当たり前のような顔をして取り入ろうとできるものなのかと。体か、金か、家柄か、はたまた今後の学園での地位か。なにかにしがみついてやろうという魂胆で近づいてくる人間ばかりで。それが当然で、寧ろそういう行動をとった方が将来的にのし上がっていくのだと、そんな屑みたいな考え方ばかりしている生徒たちばかりで。
まだ入学して一ヶ月ほどしか経っていなかったというのにこれ以上もないほど学園を嫌悪していた俺は、毎日のようにもう辞めてやるとしか考えていなかった。



『…え、お前こんなところでなにしてんだ?』



そんな時に俺を救ってくれたのは―――とても温かい手の持ち主だった。
打算的な生徒たちに追いかけられるのはいつものことだったが、あの日はいつもと少しだけ違って。おそらく体目当てだったんだろう、暗く狭い部屋へと押し込められそうになった俺は無我夢中で抵抗し、間一髪のところで逃げ出した。しかし途中で切れたエネルギーと逃げたという安堵感でへたり込んだ俺にかかったのは―――低く、優しく、甘やかな声。



『っ、近寄るな…!』
『ちょ、落ち着け、そんな威嚇すんじゃねぇよ』



反射的に身を引いた俺に、危害を加えるつもりはないとアピールした腕はその逞しい外見に違わず軽々と俺を引き上げた。大丈夫だと繰り返すその声は、酷く優しくて。必要以上には触れずに頭を撫でるその手は、酷く温かくて。



『久谷様ぁ〜?』
『ああ、今行く!…悪い、ここまでだ。大丈夫か?』



遠くで彼を呼ぶ声に、あっさりと離れていく手。
素直に名残惜しく思いながらも顔を上げれば、予想以上にキツく整った顔が俺を見ていて。そういえば今初めてまともに顔を見たなと思いながらももう大丈夫だと答えれば、切れ長の鋭い瞳が、ならよかったと、驚くほどに柔らかく笑った。
その瞬間、大嫌いだった学園が、あっという間に鮮やかに色づいて。

―――急に、信じてみたくなった。
こんな男がいるのなら、この学園も悪くないのではないのかと。俺が見ようとしなかっただけで、悪いところばかりではないのかもしれないと。
“くたにさま”は、俺の世界を一瞬で変えてくれたのだ。



まあ、その“くたにさま”が、まさか学園一の下半身男として名を馳せている男だったなんて、新参者の俺は知る由もなかったのだけど。
そしてこのあと当時の会長に見初められて入った生徒会と、よりによってあいつの所属していた風紀委員会が対立しているだなんて、これっぽっちも思っていなかったのだ。




「…そうだ、書類…」



昨日帰りがけに会計に渡されて、しかしそのあとすぐに仁科のところに行ったから帰ってきても確認する気にはなれず、後回しにしていた書類のことを思い出す。授業の前にちゃちゃっと終わらせるつもりだったが、今なら時間もあるし、ちょうどいいから済ませてしまおうか。
身支度を適当に済ませてリビングへと戻る。なぜか床に散らばっている書類をすべて取り上げて揃えていると、ひらりと中から落ちてきたメモ。そこに書かれた、「首筋のキスマークがとってもセクシー☆」という会計からのメッセージに苦笑する。そういえば昨日は仁科に抱かれて帰ってきた直後にこれを見てしまって、笑い飛ばせる余裕もなく怒りを込めて床に叩きつけたんだっけ。



最近は、仁科に抱かれることでさえ、罪悪感だらけだった。
あいつは俺のことばかり考えてくれるから。俺の望む通りにしてくれるから。そんなことをしてもらえる価値など俺にはないというのに、仁科はどうしようもなく、俺を甘やかした。
このままでは自分がダメになりそうで、仁科までダメにしてしまいそうで、酷く苦しくて。だけどどうすればいいかわからない。無償で与えられる優しさを、拒否できるだけの強さが、俺にはなくて。
うじうじと女々しく悩むのはらしくない。らしくないのはわかっているが、久谷との思い出を振り切ることも、仁科との今を振り切ることも、俺にはまだ、できそうもなかった。



『―――久谷様が、セフレを完全に切っているそうですよ』



あの言葉だって、仁科がどんな意図で言ったのか、俺は未だにわかっていない。
あの後から次第にその噂も囁かれ始めて、理由は久谷に本命ができたからだとも言われていた。ただその本命を久谷は誰にも漏らさず、その分好き勝手に色々な憶測が飛んでいる。もちろん久谷の本命候補のリストに並ぶセフレたちの名前の中には、俺の名前はなかったけれど。当たり前だ、他の生徒にとってみれば、俺はあいつのセフレであったこともないのだから。
仁科はなにが言いたかったのだろう。久谷に本命ができたのだと、もう諦めろと言いたかったのだろうか。それとも俺のためにセフレを切り始めたとでも言いたかったのか。
仁科は優しい。だからきっと、久谷に本命ができたのならはっきり口にすると思う。もう見込みはない、諦めろと。だけど、だからと言って後者なんだとは考えられなくて。他にどんな意図があるのか、それが俺にはまだ見つけられない。

仁科はなにかを知っている気がする。俺が聞けばきっと答えてくれるとも思う。けれど俺は、それを聞くこともできずにいた。




「……ったくあんの野郎…」



仮の書類でパソコンから印刷しているにせよ、所々で入る手書きの落書きにチェックの手が止まる。しかも内容はあの男らしくセックスの話ばかり。おまけにすべて、要するに俺とヤろうという誘いで、欲望に忠実すぎるそれに思わず笑ってしまう。自分の悩みが馬鹿みたいに思えてきて、もう一度声をあげて笑った。



―――欲望に、忠実に。
本当に自分のことだけ考えていいのなら、俺はどうするだろうか。自分の欲に忠実になると、俺は誰を選ぶのか、選ばないのか。
久谷か、仁科か、それともそれ以外か。今でも一番好きなのは、もちろん久谷だ。久谷を追い掛けて、好きだと告げて、好きになってもらえる努力をする。きっとそれが、俺の本当の欲に忠実な選択なんだろう。
だけどそう思うのと同時に―――きっと一番俺が楽をできるのは、仁科なんだとも思う。そして久谷を選び、フラれる可能性を考えて、そんなつらい思いをするくらいなら、久谷に片想いしたまま仁科に愛されたいと、そう願う自分に吐き気がした。

結局は俺だって打算的なのだ。自分のことしか考えられないような人間なのだ。二年前のあの頃、自分自身が忌み嫌い、蔑んでいた人間に、いつのまにか変わってしまっていた。そんな自分がいることなど信じたくなかった。気づかずにいたかった。
けれど想い人以外からの赤い痕が残る体を写す鏡は、見て見ぬふりも許してくれずに現実を俺に突きつける。



「……俺は、どうすればいい…」



ぽつりと落ちた、自分自身への問い。
このままじゃ、逃げてばかりじゃダメなのはわかってる。俺はどうすればいい。俺はどうしたい。
他人になんか相談できるわけがなかった。それに相談したところで、自分でさえわからない自分の気持ちが他の人間にわかるとは思えなかった。




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