すき、きらい、すき、 | ナノ





会議で話し合った内容のメモを見ながら必要事項を打ち込んでいく。
しかしエンターを押したところで、瞬間躊躇する手。



(―――なにしてんだ、アホらしい)



僅かな動揺を誤魔化すように、警備責任者の名前を打ち込んだ。






だなんて






あれから二週間。
俺が見事に避けているおかげであいつと直接接したのは数えるほどしかなかった。あまりに避けすぎでさすがに不自然かとも思ったが、セフレになる前までの関係を考えたらこれくらいして自然だったと思う。現に、あからさまに避けているにも関わらず、まだ誰にもそのことを突っ込まれたことはなかった。
今までが異常だっただけで、これが自然で、有るべき俺たちの姿だったのだ。


そして久谷との接触がなくなるのと反比例して、あいつとの接触が増えていった。当然だ、あいつと寝る代わりに久谷に俺の気持ちをバラさないでおくという交換条件なのだから。



『気持ちいいですか、桐生様』
『本当に、健気ですね…』



あいつは、俺をとことん優しく抱いた。痛みなどない、快楽しかない行為。ずっと耳元で甘く優しく囁きながら、許容量をオーバーするほどの快感を流し込まれ続けるそれ。もう流されるしかないのだと、流されても仕方ないのだと思えてしまうから、どうしようもなく、怖い。

だけど俺は、もう薄々、気づき始めていた。
自分がそれに甘えているのではないかということに。どこかで、こうなってよかったと、そう思っているのではないかということに。
あの時、俺はもうそろそろ限界を感じていたのだ。自分で言い出しておきながら、しかしもうそれだけでは足りなくなっていた自分に。肉体関係よりも先に進みたいと、前提を覆す願いばかりを考え始めた自分に。
少しでも近づければ、肉体だけでも関係が持てれば、それで満足できると思っていた。だけどその考えは甘かったのだ。
想いを昇華させるために持ち掛けた契約だったが、しかし、それは想いを深化させることにしかならなかった。



(そういうのが煩わしいっていうのが、あいつが敬遠する理由だってのに)



わかっていても止められない。割りきれずに求めてしまう。
そうやって執着されるのが嫌で、面倒くさくて、久谷は自分に恋愛感情を持つ相手とセックスをすることを拒んでいた。自分のことを本気で好きなやつとは寝ない、それがルール。それなのに、そこに嘘をついてルールを無視し、他の奴らを切らせてまで入り込んだのだ。そんなズルをした俺は、何人もの人間の我慢や想いや落胆を踏みにじって久谷を独り占めした俺は、絶対に気持ちを知られるわけにはいかなかった。
しかし、そうとわかっていても想いの深化は止まらない。どこか俺に執着するような言動を見せる久谷に淡い期待を抱いてしまう。これならいけるかもしれないと、どこかでそう思い、ルールを、自分が踏みにじったものを見ないふりしていつか自ら口にしてしまいそうな自分。そんな自分が、どうしようもなく、怖かった。

だからきっと―――圧倒的に俺が不利な条件を持ち掛けられたあの時、俺はどこかで安堵したのだ。
これでもう、想いばかりが募って苦しくなることも、いつか自ら真実を告げてしまいそうな自分に怯えることもない。悔しさと、切なさと、悲しさの中で、どこか冷静にそう思う自分がいたのは、確かだった。



(そしてそれをみんな、あいつらのせいにしたんだ俺は。被害者ぶって…あ、)



余計なことを考えていたせいでうっかり大切な内容を二、三個入れ忘れていたことに気づき、慌ててカーソルを戻す。そこに欠けていた文章を手早く打ち込むも、集中できていなかったのか他の部分にも打ち間違えが多々あることに気づいてしまい、チッと舌打ちをした。



―――すべて、あいつらのせいにした。
そう気づいたのは、いつだったか。あの男に、俺の親衛隊長に言われるがまま抱かれる内に気づいたその事実に、俺は愕然とした。俺は、逃げたのだ。今さら気づいた罪悪感から。そしてその罪悪感でさえ無視してしまいそうか自分から。
あいつらに脅されて、想い人から無理矢理引き離されて、無力にも組み敷かれている―――そう思った方が、自分を圧倒的な被害者にする方が、ずっとずっと楽だった。他にもいくらでも方法はあっただろう。それでも他の道を模索せずにただ従順に従ってきたのは、きっとそれが、俺にとって一番楽だったから。

それと同時に俺は、自分に罰を与えたかったのだ。
この罪悪感から逃れるため。ルールを無視して強引に割り込んだにも関わらず、結局逃げ出してしまった自分を戒めるため。ただ、自分に、罰を与えたかった。そうしていた方が、心が休まったから。ただの自己満足でしかなかったけれど、罰のように抱かれることで、なにかに許されるような気がしていたのだ。



(…あいつはそれに、気づいているのかもしれない)



健気だ、かわいそうだと囁きながら、甘く熱く俺を抱くあの男。
あいつは時折、切なそうな、哀れなものを見るような瞳で俺を見つめる。そうして必ずと言って良いほど、どんなに抵抗しても従うしかないのだと―――最終的には貴方は拒絶することはできないのだと、言い聞かせるように口にするのだ。そうすれば暴露したりしないと、甘い囁きの中に脅し文句を練り込めて。まるでこれは不可抗力なのだと、脅されているのだから仕方ないのだと、俺にそう言い聞かせるように。
だから、最近思うのだ。こいつは、俺の感情に気づいていながら、それでも俺のこの自分勝手な気持ちに合わせてくれているんじゃないかと。想う相手には、誰だって想いを重ねて抱き合いたいはずだ。しかしあいつは自分の気持ちを無視してまで、俺の贖罪に付き合ってくれているのではないかと―――…





「…いちょう、会長、会長!」
「っえ?あ、なんだ…?」



物思いに耽りすぎて、いつのまにか手を止めてぼうっとしていたらしい。掛けられた声に気づいて我に返り、慌てて顔を上げればそこには最近俺にお冠な人物が立っていた。
最近はほとんど話し掛けにさえも来なかったのに珍しい。久谷との縁が切れたことで俺の仕事スピードが戻った上、仕事中の電話が消えたおかげで、こいつの機嫌も回復したのかもしれない。



「なんだじゃないですよ、何度も呼んでいるのに」
「悪い、ちょっと考えごとしてて」
「貴方がですか?なんです、昨日の情事でも思い出していたのですか」



珍しく殊勝に謝ったというのに、ふん、と可愛げもなく返されて顔が引き攣った。昨日の情事だと?そんなもの、色んな意味で思い出したくもないというのに。
今考えていたことに関係することを指され、ある意味図星なその言葉になんて返していいか一瞬逡巡する。上手く誤魔化せる返し文句を探して僅かにできた間に、しかしなにを思ったのか、目の前の美形が少し困ったように笑った。



「…嘘ですよ。すみません、苛めすぎました」
「は?」
「調子が悪いことくらい、私にだってわかります。心配なんですよ」



ここしばらく仕事のスピードは馬鹿みたいに早いし、会議だって完璧に最短時間でこなすし、生徒会室で携帯を弄ることもない。完璧すぎて、貴方じゃないみたいですよ。
なんて、王子様だなんだと褒め称えられる爽やかな笑みで盛大な嫌味を言われ、俺の方も盛大に吹き出した。ああそうだ、こいつはこういう奴だった。こいつに悪いとか、殊勝になろうとした自分が馬鹿だった。



「ははっ、そりゃあありがたい。お優しいね、我が副会長殿は」
「これでも本気で心配してるんですけどね」
「もちろん伝わってるさ。でも、俺は別に平気だから」



だからあまり、深入りするな。
そう言外に滲ませて、俺は綺麗に笑ってみせた。俺の悩みは、こいつに心配してもらえるほどの価値はない。最近の仕事が完璧だったのだって、久谷と限りなく接触したくないがためだ。それらを知られたらきっと、汚らわしいと蔑まれるだけだから。



「…本当に、平気なのですね?」
「ああ、お前が言う通り俺は完璧。なんの問題もない」
「………」



そうだろう?と手を広げてみせる俺をしばらく険しい表情で見つめていた副会長は、やがてはーっと大きなため息を吐いた。お、なんだ、わかってくれたのか?深入りはせず、見て見ぬふりができる。いいね、理解のいい奴は嫌いじゃない。



「…なんの問題もないのなら、これをお願いしましょうかね」
「は?なにこれ」
「風紀委員会への、書類ですよ」
「は…?」



ばさりと机に置かれた書類に、言われた言葉に、思わず震えた声が出る。動揺を隠しきれていない声。どういうことだと端整な顔を見上げれば、そいつはふっと微笑んだ。



「私はこれから顧問との用事があるので、至急久谷委員長に届けて頂きたいのです」
「えっ、いや…」
「もう他の役員は帰ってしまったので、会長にしか頼めません。お願いできますよね?」
「―――っ」



こいつは、なにかを、知っているのか。
名指しで指名された人物。断ることのできない状況。
他人に、まさかあいつら以外にも知られているのかと、そう思った途端、全身に怯えが走る。一気に警戒を滲ませて身構えた俺に、しかし当の本人は再び困ったように笑った。



「そんなに警戒しないでください。別になにをしようってわけじゃありませんから」
「なに、がだよ」
「貴方が最近、どうして塞ぎこんでいて元気がないのか、そして最近貴方の生活にどんな変化があったのか、それを繋げられないほど私は馬鹿じゃありませんよ」
「………」



そんなに俺はわかりやすかったか?
自分ではひた隠しにしていたつもりだったのに、あまりにあっさりとそう言われて思わず頬に手を当てる。確かに少しだけさっきのように物思いに耽る時間は増えたかもしれない。しかしそれにしても、もう見限られたと思っていた奴にさえバレるなんて、よほど顔に出ていたのか、こいつがそういうのを見逃さない質なのか。後者であってほしいと願うところだ。



「物憂げな貴方は貴方らしくない。もっと偉そうにしていてください。目にも毒ですし」
「お前な」
「とにかくなにか後悔があるなら、未練があるなら、もう一度会ってみればいいのです」
「っ、そう簡単に…!」
「それでもどうしても嫌だと言うのなら、無理だと言うのなら、ただこれを持っていけばいい。貴方は生徒会長だ、職務を果たす責任がある。だから仕方なく、嫌でも届けなければならないのです、風紀の長に」



突きつけられる大きな白い封筒。俺を真っ直ぐに見つめる強い光を灯した瞳は、逸らされることなく俺の背中を押してくる。ゆるりと緩慢な動作で、しかし確かにそれを受け取ると、ふわりと微笑む端整な顔。



会いたい、会いたくない、会ってはいけない―――会わなきゃならない。
いつのまにか、あいつに関してはなんだって大義名分がなければ動けなくなっている自分に、俺は小さく苦く笑ったのだった。







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