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 頼むから――頼むから、置いていかないでくれ。

 大量の熱い粒と共に溢れ出したのは、もう音にさえなってはいないもので。
 声と言うには忍びない、意味を成さないか細い吐息。それは、小さく小さく、しかし確かに紡がれていた。拾い聞き取るものは、いないけれど。
 ふいに、俯いていた顔が弾かれたように上がる。
 溶けだしてしまいそうにふやけた瞳から、はらはらと零れ続けている雫。夏の空色のような澄んだ瞳は、しかしその儚さからは想像できない真剣みを帯びていた。そうして握り締めている手から微かに握り返されれば、涙の零れ落ちる勢いが増す。

「また、泣いてる」

 可笑しそうに紡がれた言葉。
 ベッドに横たわる最愛の人のその声音は、酷く優しく、溢れそうなほど目一杯の愛しさに満ちていて。その温かさに堪らなくなって、やはりどうしたって顔を歪めることしかできない。

「せっかくの美形が台無しだな」

 くつり、小さく喉を鳴らす音。困ったように、それでいてどこか嬉しそうに細められる目。
 示される愛情は溢れんばかりで、しかしそのすべてを伝えるには、今までよりもあまりにも表現の仕方が足りなくて。もはや彼にとってはそれを伝えることさえ、他のどこを動かすことさえ、困難であることを実感してしまう。
 だけど、それでも。それでもこうして答えてくれる。こうして笑って見つめてくれる。
 それで、それだけで、ただただ、幸せで。
 止まらない涙をそのままに、ゆるゆると首を振る。その拍子に、いつも彼が綺麗だと褒めてくれていたプラチナブロンドが乾いた音を立てて揺れた。

「怖くはないよ」

 告げられた言葉に、ビクリと勝手に肩が揺れる。しかしボロボロのこちらとは正反対に、相対する顔はその言葉通り酷く穏やかで。こちらがもどかしくなるほどに、苦しくなるほどに、もうすべてを受け入れてしまっているような穏やかな表情に、ようやく落ち着いてきた涙がまた零れ落ち始めた。
 視界がぼやけるのが嫌で、このかけがえのない瞬間が見えなくなってしまうのが嫌で、必死になって手の甲で拭う。しかし止めどなく溢れる滴は、まるで二人の間に隔たりを作るかのように、収まってくれる気配は見せなくて。見るなと言われているかのようで、言うことを聞かない自分の体が悔しくて、もどかしくて堪らない。

「怖くはないんだ、本当に」
「……っ」
「ただ、少しだけ心配なことがあるけど」

 そう言って苦笑する顔に手を伸ばし、痩せてしまった輪郭を優しくなぞる。
 きっと彼も――彼が、こうしたいだろうと思ったから。

「お前が、心配だよ」
「――」
「お前のことが、心配でたまらない」

 その言葉と共に、彼の目の端から涙が一筋流れ落ちる。それを見た瞬間、ひゅ、と喉が可笑しな音を立てた。
 きりきりと絞まった喉が、心臓が。熱くて、痛くて。
 気を緩めれば今すぐにでも吐いてしまいそうで、歯の根が合わない。しかしこのままではダメだと、少しでも、なにか一つでも伝えなくてはと、戦慄く唇を、ぎしぎしと軋ませながらどうにか開く。

「……心配なら、傍にいてくれ」
「……」
「置いていかないでくれ……」

 口にした傍から、その言葉は自分の首を絞めにかかる。
 潰れた喉から絞り出された声は、掠れ切った情けないもの。しかしようやく吐き出した言葉に返されるのは、困ったように笑う、聞き分けの悪い子供を見るよう表情で。その表情がすべてを語っていて、遣り切れなくてみっともなく嗚咽が漏れる。止める方法などわからなかったし、止める気にもなれなかった。

「ごめん……ごめんな」
「いやだ、なんで……っ」
「うん……でも、覚悟のうえだっただろ」

 慈愛に満ちた言葉を紡ぎながら、しかしその手で触れてはくれない。もはや自力では触れてはもらえないことが、すべてを表していた。
 だから代わりにこちらから触れる。手を握り、抱き締めて、口づける。どうしたって流れ出てくる涙が触れて、彼の頬が濡れた。それにくすりと笑ったのが伝わってくる。

「泣きすぎてそのうちに枯れそうだな」
「いいんだ……どうせもう、必要ないから」
「ダメだよ、お前にはまだ時間があるんだ。幸せすぎて泣きたくなることなんて、いっぱいあるよ」

 だからそのときのために、涙は残しておかなくちゃ。

「――ッ」

 彼の紡ぐ、未来へと向かうその言葉に、震えた。
 ずっとずっと考えないようにしていた。だってありえないことだったから。ありえてはならないことだったから。だから拒んで、避けて、逃げてきた。そんな未来を考えることさえ、頭を過ぎることさえ、嫌だったから。
 痩せてしまった手をキツく握り締めながら、拒絶するように首を振る。わかっているくせに、それでも真正面からぶつかってくる、真っ直ぐに見つめてくる瞳が酷く憎かった。

「っいやだ、そんな未来ありえない、そんなもの要らない」
「要るよ。お前は幸せになるんだ」
「むり、無理だ、そんなの、」
「無理じゃない。お前は幸せになれるよ。なってくれなきゃ困るんだ」
「っ、どうしてそんなこと……!」

 カッとなって語気が荒くなる。どうして自分の想いを誰よりも知っているはずの彼がそんなことを言うのか、さっぱり理解できなかった。理解したくもなかった。
 彼の言う未来に、いったいなんの価値があるというのか。どうして幸せになれるというのか。

 ――その未来に、お前はいないというのに。

 はっきりと、頭に過った言葉。その事実から逃げるように、拒絶するように、咄嗟に手を離そうとする。瞬間、それまで一方的に握っていただけだった手が、ほんの僅かに握り返されて。

「愛してる」

 ふいに紡がれた言葉に、は、と口から息だけが零れ落ちた。
 一瞬だけ握り返してくれた手は、すぐにするりと手の中から滑り落ちる。

「こんな風に悲しまないことが、幸せになってくれることが、なによりの俺の望みだよ」
「……っ」
「愛してる……愛しているよ。だからきっと、幸せになって」

 勝手なことを言うな、と。
 文句を言ってやりたかった。思い切り詰ってやりたかった。
 しかしもはや掠れた声でさえ出てこない。胸も喉も、みんな潰れてしまったかのように熱かった。

(お前がいなきゃ、幸せになんてなれないのに――……)

 音にならなかった想い。零れ落ちるのは言葉ではなく涙だけで。
 その想いは、願いは、誰に届くこともなく空気に溶けていく。
 遠い、冬のことだった。


(中略)



   2


 後ろから軽快に走ってくる音がする。最近、否が応にも聞き慣れてしまったその音に、東美は自然と振り返った。すると案の定その足音の持ち主のお目当ては東美だったようで、彼は目が合うとぱっと嬉しそうな顔をする。

「東美!」
「待ってやるから廊下は走るな」
「だってお前が見えたからさ」

 つい、嬉しくなっちゃって。
 そう言って笑う舘脇に、これはまた随分と懐かれたものだな、と内心苦く笑う。あっという間に追いついてきて当たり前のように隣を歩く男の顔をチラリと見てから、すぐに視線を外した。
 すると、ついと視線を動かした先で一般生と目があってしまって。そのせいで、その一般生が周囲の友人たちも含めて悲鳴を上げ始めてしまったので、仕方なく視線を戻す。すると今度はこちらを見ていた焦げ茶色の瞳にかち合って、上機嫌にその瞳が弧を描くのに小さく息を吐いた。
 どちらを向いても、視線、視線、視線。もうそれには慣れているけれど。それでも、こちらからの視線、は。

「人気者だな、書記様は」
「……なんでお前が嬉しそうなんだよ」
「だってそりゃあ、親友が好かれてるのは嬉しいし」
「いつの間に俺とお前は親友になったんだ」

 調子に乗っている言葉を一蹴するように呆れを隠さず毒を吐けば、ひどいな! と舘脇はわざとらしく喚いた。それきり無視しようと思っていたのに、そのあまりの大根ぶりに思わずジト目を向けてしまう。するとそれにさえ嬉しそうな顔をするものだから、もう手に負えない。どうにも負けたような気分になりながらこちらも大袈裟に呆れたようにため息を吐き、東御は今度こそ無視して歩みを進めた。

 舘脇が皇学園に転入してきたあの日から、一週間とちょっと。この特殊な学園に途中編入するという奇特なこの人物は、しかしたったの一週間の間に、驚くほどこの学園に馴染んでいた。
 ダークブラウンの髪と瞳。一年にしては珍しいピアスが似合う、端正な容姿に少し長めの髪も手伝って、一見チャラくさえ見える舘脇だったが、しかし彼はそこにさらに家柄と賢さも兼ね備えていた。容姿、家柄、学力の三拍子。つまり彼は当然の如くヒエラルキー上位であるのだけれど、しかし外部から来たこともあり、一般生が崇めようとしてもそんなことはお構いなしに誰とでも気さくに関わった。ただそれだけ。たったそれだけのことなのだけれど、しかしこの学園の生徒にとっては酷く珍しいことで。
 そしてなにより、舘脇の隣にいるのはいつだって、一年のエース、生徒会書記の東美蒼。
 話し掛けるのを躊躇するほどの美形である東美と、そんな雰囲気ものともせずに隣を陣取るイケメンの舘脇。二人が並んでいる画はそこだけが異彩を放っているようで、それでいてとてもしっくりとくるもので。
 舘脇本人の人気に加えて、圧倒的な隣の存在。そのことが、舘脇の人気に火を点けた。
 それまでずっと、絶対零度、難攻不落とまで言われてきた東美様が、一般生、しかも入ってきたばかりの転入生と普通に話をしている。そしてあまつさえ、ほんの少し、ほんの僅かだけれど、東美様が人間らしい表情さえしているのではあるまいか。ぽっと出の転入生に今まで誰にも辿り着けなかった位置に収まられたことに悔しさはあるものの、しかし東美の新たな表情を引き出してくれるとなると、話は別だった。高嶺の華過ぎる東美の自然な表情を拝めるというだけで、一般生たちは大喝采で。
 そんなわけで、馴染むというよりもむしろ生徒たちからの大歓迎でもって迎えられた舘脇は、この特殊な環境にもすんなり適応できたのである。


「授業でるの珍しいよな。今日は生徒会ないんだ?」
「あー、まあ今日は、うん」

 まさか他の生徒たちにそんなことを思われているとは露知らず、一緒に教室まで辿り着いた二人。正確には一緒に来た、ではなく舘脇が勝手にどこまでも着いてくる、なのだけれど、そんなことは外野には関係ない。二人一緒に教室に入ってきたのを見て、クラスメートたちが一気に色めき立った。
 その整いすぎているせいで冷たそうに見える外見から、東美は騒がれるのがあまり好きではないと一般生から思われていた。ゆえに、常ならば彼らは東美がクラスに来ても、羨望の眼差しと感嘆のため息と共に挨拶をするだけで我慢していたのだ。しかし今は、この学園においてそのステータスからは考えられないほど気さくな舘脇が隣にいる。それだけでは東美の雲上人さは揺るがずとも、どうやら話しかけにくさはかなり緩和されるらしい。そんなわけで、東美と舘脇の美しい並びにミーハーな生徒たちが我慢できるわけもなく、彼らはキャーキャーと黄色い声を上げた。
 だから、舘脇の疑問に答える前に東美の言葉が止まってしまっても仕方のないことで。クラスメートにそんな反応をされたことがあまりなかった東美は、教室が爆発したような声に驚いてビクッと正直に肩を揺らした。

「――……っ」
「みんな、お前が来るの心待ちにしてたんだよ」
「……」
「もちろん俺もね」

 驚いて口を開けなかった東美の隣で、なにも言っていないにも関わらず柔らかい声音で答えをくれたのは、当然のように舘脇で。
 だから、なんでお前がそんなに嬉しそうなんだよ。
 まるで心を読んだかのようにどこか嬉しそうな声音の彼の方を、思わず振り返る。そして一瞬だけじっと見つめた後、しかし東美はなにも言わずにさっさと自分の席へと向かった。舘脇の方もそれに対してこれといって気にした様子はなく、のんびりとその後を着いてくる。
 なんの話をしていたんだっけ、と思い出しながら、東美は何事もなかったように口を開いた。

「あー、今日はなにもないらしい。会長にデートに誘われたくらいだし」
「えっなにそれ、俺だって東美とデート行きたい」
「そもそもこの時期にこんなに忙しかったのが珍しいんだよ」
「えっ無視? 無視なの?」

 一番後ろの一番窓側。久しぶりに座った自分の席の感触は、ほとんど一週間ぶりだった。固い椅子の感触が生徒会室の無駄に高級で座り心地の良いものとはかけ離れていて、無性に帰ってきたな、という感傷が過る。
 そして後を追ってきていた舘脇はというと、当然のようにそこまで着いてくると、隣の席に慣れたようにトサリと腰を下ろして。それに驚いてぱちりと瞬けば、彼は面白そうにくつりと喉を鳴らした。

「ん、俺ここなの」
「えっでもお前、初日は一番前だったろ?」
「なんか転校してきたばっかだから、東美に色々教えてもらえって変えてくれたんだ。ま
当のお前は全然教室いなかったけど」

 そう言う舘脇の向こうで元々隣だったクラスメートが同意するようにこくこくと頷いているから、嘘ではないらしい。東美はもう一度その涼やかな瞳でぱちりと瞬き、それからふうん、と呟いて授業の準備を再開した。一日の準備としてまず時間割表を広げるところから始まるくらいには、何曜日に何の授業があるのかまだ把握できていない。なんだかよくわからない今更の席替えには、最早突っ込むことさえ諦めていた。どうせ突っ込んだところで正直これからも授業に出るのは不定期なわけで、そうなると舘脇と接触が多くなるのは結局教室以外なのだから、東美にとっては席順自体はあまり意味もない。
 まだ新学期が開始して一ヶ月も経たないというのに、ほとんど一週間も教室に来られてないなんて、ここまで忙しいのは異例のことだった。その原因は主にこの隣で楽しそうにしている男にあるのだけれど。とはいえ、舘脇にそれを直接言うつもりはなかった。発端は彼にしろ、すべては舘脇の転入当日までなにも生徒会に情報を回さなかった理事長が悪いのだから。運営はすべて任せきりのくせに肝心なことを言わない学園。挙げ句、放ったらかしていたそれについても結局は生徒会任せ。あまりにも無責任な学園への、禍々しい副会長の恨み言を今週何度聞かされたことか。

「隣の席が不登校で、俺寂しかったなあ」
「……飯は一緒に食ってたろ」
「でもそれだって俺が誘いに行かなきゃ一緒に食ってくれる気なかったろ?」

 本当に寂しそうにするものだから、思わず口から出たのは弁解するような言葉。しかしそれにさえ言葉を返されるものだからむっと眉を顰める。
 どうして俺がここで責められる。というかそもそも、なんでお前と一緒に食べなきゃならないんだ。
 せっかく下手に出たというのに、とカチンときて吐き出そうとした言葉。しかし焦げ茶色の人懐こい瞳とばっちり目があって、東美は思わず吐き出そうとしていた言葉を飲み込んで、口を噤んだ。
 口元を緩めながらのんびりとこちらの反応を待っているらしい表情に、こちらを心配して言ってくれているのだろう言葉。さらりと叩く軽口の裏でそんなものを全身に装備している舘脇に、あまりに辛辣な反応をぶつけられるほど鈍いわけではなくて。たった一週間で、俺のなにを知って、俺のなにを心配なんかしているんだと思いながら、それでも無碍にできるものでもない。再び言葉を探して僅かに口を開き掛けたまま少しだけ彼を見つめて、それから東美はついと視線を外した。

「そりゃあ、わざわざ混んでる時間帯に行きたいわけないだろ……んなことよりも、お前は俺以外に飯食える相手いないのかよ」
「え、いるよ? 俺、なんだったらお前より友達多い自信あるし」
「……だったらそいつらと食えよ。わざわざ毎日生徒会室まで迎えにきて、暇人にも程があるだろ」
「なんで? いいじゃん、俺が東美と食べたいんだから」

 机に行儀悪く頬杖をついて、ゆるりと目を細めて。徹底的に視線を向けないようにしているというのに、舘脇の視線は穴を開けようとしているかのように離れてくれない。
 よくはない。よくは、ないのだ。
 臆面もなく会いたいから会いに行くんだと宣う舘脇に対して、東美の方は、この忙しさにかこつけて舘脇を避けようとさえしていたのだから。忙しくてなかなか教室に、舘脇がいる場所に行けないことを、ラッキーだとさえ思っていたから。

(っていうのに、わざわざこいつは)

 そもそも相手の都合を考えるということをしないのか、お前は。なんて、思い切り自分の都合で避けていたのを棚に上げて思いはするけれど。しかしどうせそれを口にしたところで、当然のような顔をして、でも嬉しかったでしょ? だとか、俺行かなかったらどうせ飯抜いてただろ? だとか言われるのだ。駄々を捏ねる子供を見るような顔をしてそんなことを言われてしまえば、それをどう否定しようと、仕方ないなあお前は、で押し通されるだろう。こちらの負けは見えている。

「しかしこんなに会えないんなら俺も生徒会入ればよかったかなあ」

 あーあ、と残念そうに言葉を紡ぐ口惜しそうな声音と口調に、ずっと意識して逸らしていたはずの視線を思わず向けてしまった。特にこれといってなにかがあったわけではない。ただここにきて一番初めに知り合ったからって、なんだというのだ。お前は初めに見た生物を親鳥と認識する雛か。会って数日でここまで惹かれている理由は理解してはいるけれど、納得はしていなかった。
 そう思いながら振り向いた先、こちらは思い切り怪訝な顔をしていただろうに、しかし東美を迎えたのは至極嬉しそうな表情で。視線を向けられただけで喜んでいる男に嫌味を言う気も削がれてしまって、東美は小さく息を吐いた。

「一年は内部進学の人間じゃなきゃまず無理なんだよ。選挙制なうえに生徒会の結成自体は年明けだから、中等部にいる時点で高等部からも評価を受けなきゃならない。だから編入したててで生徒会に入るのは無理なんだ」
「へえ……すごいな、そんな状況で選ばれるなんて」
「別に。俺は会長に気に入られてただけだ」

 感心したように頷く舘脇へ瞬時に返した言葉。そるとそれに、なにそれ妬ける、とふざけた返事が返ってくる。しかし相手をする気はない東美は何事もなかったかのように、それに、と言葉を続けた。

「そもそもお前は生徒会には向いてねえ。書類をガチガチ処理するより体動かす方が向いてんだろ、風紀とかさ」
「えっ」

 何気なく口にした提案、のはずだったのだけれど。
 しかしそれに返されたのは、素っ頓狂な声で。いつもどこか格好つけて包容力のようなものを醸し出そうとしている舘脇にしては珍しいその反応に、東美はぱちりと瞬いた。
 なにか変なことでも言っただろうか。そう不思議に思いながら舘脇を見つめると、その疑問に答えるように、彼はなぜか恥ずかしそうに首の裏を掻いた。

「よく、わかったな」
「ん?」
「体動かす方が性に合ってるって。むしろ動くの嫌いそうって、よく言われるんだけど」
「え……」

 どこか気恥ずかしそうにそう告白する舘脇に、今度は東美が呆気にとられる番だった。
 書類が敵である生徒会と、荒事中心の風紀委員会。両翼とはよく言ったもので、正反対のタイプの活動をするこの二つは、間違えた方に入ると最も苦労する組織なのだ。だから、単純に適性を考えて言ったのだけれど。
 しかし言われてみれば確かに、少し軽そうなところとか、ヒョロいとは言わないまでもまだあまり筋肉のついていない体とか、日焼けしていない白い肌とか、まさに現代のゲームで育ってきました、という雰囲気に満ちていて。確かに外で駆け回っている姿よりも、室内でスマホを弄っている姿の方がずっと似合う。まして、風紀のように荒事、つまりケンカなんて縁遠い。
 そうか、普通に見たらそう思うな、と思った。そう納得している東美に向かって、舘脇は少しだけ肩を竦める。

「でもほんとは俺、頭よりも体動かす方が得意なんだ。というかまあ、勉強よりも、ケンカ?」
「へえ……」
「驚かないんだ? ふはっ、すごいな、面と向かって指摘されたの初めてだ」

 やっぱり照れ臭そうに、しかしどこか嬉しそうにする舘脇は、それまでの興味本位だけだった瞳に少しだけ違う色を灯す。それに気づいてしまった東美は、しまった、と逃げるように視線を逸らした。

「別に、こんだけしつこく絡まれれば嫌でも気づく」
「え、そうか?」
「そうだよ」

 逸らした流れで窓の外まで視線を持っていく。突き抜けるような空。珍しく雲ひとつなく、真っ青な気持ちのいい空に思わず釘付けになった。吸い込まれるように窓の外を見つめる後ろから、そういえばさ、と何気ない口調で声がかかる。

「俺も気づいたことがあるんだけど」
「ん?」
「東美さあ、俺の顔、実はめっちゃ好き?」

 じっと見つめてくること多いよな、それ癖なの?
 そう、本当に何気なく、次の授業なに? と同じような軽さで聞いてくるものだから。東美の目が、学園の誰も見たことがないほどに大きく見開かれた。

(――そうか、俺はそんなにも、見てたのか)

 無意識だったそれを指摘された東美のことを、幸いなことに今は空にしか見ていなかった。だから彼は何事もなかったようにゆるりといつもの表情に戻し、小さく息を吐く。そうして顔だけ振り返った。
 こちらを楽しげに見つめる舘脇に、東美もほんの少しだけ、ほんの僅かに口角を上げてみせる。

「自惚れるな、ばーか」

 そう言って目を細める東美の後ろで、綺麗な飛行機雲が描かれていった。


(中略)


   4


 忙しなく書類を捲る音だけが生徒会室に響いていた。しばらくその音だけを奏でながら一通り目を通すと、続いて勢いよくキーボードを叩き出す。すると今度は、カタカタとキーボードを叩く音だけが室内を満たした。本来であればいくつも音源があって一つの音だけで一杯になることのないはずのそこは、しかし最近は何時なんどきも、一種類の音しか発していなかった。

「ふー……」

 尋常ではないスピードで仕事をしていた東美が、ふいに顔を上げて細く息を吐いた。当然のように他の音はぱたりと止み、自分の息を吐く音しか聞こえなくなってしまう。それに気づいてしまったのを誤魔化すように、凝り固まった眉間を解すためにとぐりぐりと指で揉んでやる。
 この状況に、気が滅入らないわけではない。けれど、それで感傷的になって立ち止まってしまえるような性質でもなかった。人一倍適応能力の高い彼は、残念ながら、すでにこの状況には慣れてしまっていたから。

 東美が散々先輩たちに構われながら書記を務めていたあの頃から、二年。
 あれだけ賑やかだったはずの生徒会室は、今やそこにいるのは東美一人だけとなってしまっていた。

(今日はあとあの山だけか)

 残りの量を確認し、東美はほっと息を吐く。これならば早く終わらせて明日の分にも手をつけられそうだ。この調子でいけば、あと数日も経てば睡眠を削らずともなんとかなるようになるだろう。最初はどうしようかと思ったけれど、やってみるとなんとかなるものだな、と東美は小さく笑った。こんな時ばかりは、一年次にこき使ってくれた笹原に感謝したくなる。やり方は置いておいて、やればいつか終わるのだと、終わらない仕事などないのだと教えてくれたのは、間違いなく彼だった。

『蒼さ、お前三年になったら生徒会長になるって決まってっから。俺のお気に入りってことは、なれなかったら俺の顔に泥塗るってこと、肝に銘じとけよ』

 彼が卒業するときに、なんでもないように言われた言葉。当時は誰がそんな面倒くさい役割をわざわざやるかと思っていた。確かに思っていたはずなのに、まさかあの言葉が現実になろうとは。
 厚顔不遜な生徒会長に働かされていた一年のルーキーが、二年の月日を経て、今や彼自身が生徒会長となったのだ。最初の一年間、自分の後継者として彼を教育していた笹原の目論み通りになったわけである。それを電話で報告したときの予想以上に嬉しそうな声は、あまりにも彼らしくなく、今でも忘れられないくらいのもので。東美が思っていた以上に、笹原は自分のことを気に掛けてくれていたらしいと、あのときようやく気づいたのだ。

(こんな状態見られたら、なんて言われっかな)

 俺の顔に泥塗りやがって、と怒るだろうかと苦笑しながら、生徒会長以外の机が空席である生徒会室を見渡す。しかしきっと彼のことだから、いざこの状態に陥っている東美を見たとしたら原因を叩き潰しに行ってくれるだろう。好き勝手言ってくる裏側で、笹原が自分のことを弟のように可愛く思ってくれていたことは知っていた。
 当然だけれど、元からそこが空席だったわけではない。一ヶ月ほど前までは、すべての席が埋まり、役員全員で仕事を分担していたのだから。それこそ、メンバーは違えど東美が書記だった頃くらいには騒がしかったのだ。

(仲だって悪くはなかった、のに)

 慣れていたはずの思考がぐらりとマイナスに傾いていきそうになって、慌てて頭を小さく振った。余裕が出た途端に余計なことまで考え始めてしまう。それが今回はたまたま同じ場所で得た良い思い出だったせいで、不意を突かれたというか。しかし今は過去を振り返って立ち止まっている場合ではない。
 何年生きてるんだ、情けないな、と自嘲しながらパソコンに目を戻そうとする。しかしそれよりも先にガチャリと音を立てて扉が開いて。東美は反射的にぱっと視線を上げた。

「よっ、頑張ってるか?」
「……舘脇」

 期待するように上げてしまった視線の先、ノックもなく無断で中に入ってきた男は、東美を見てとても嬉しそうな顔をした。この二年間であまりにも見慣れてしまったその表情に、東美の方も思わずゆるりと眉を下げる。それを見て余計に嬉しそうな顔をするものだから、東美は今度こそパソコンへと視線を落とした。
 いくら疲れているとはいえ、期待と安堵を表情に出してしまうなんて、とんだ不覚だった。しかしやはり、舘脇が他と違っていまだに変わらないでいてくれていることが、今の東美にとって少なからず支えになっていることは、間違いなくて。本人には決して言えないけれど。

「これは風紀委員長殿。今日はなんの御用事で?」
「ん? ああ、ちょっと様子を見に」
「様子? 別にお前に見張られなくたって仕事くらい出来るさ」

 ふん、と鼻で息を吐きながら、口とは完全に切り離された指は次々と文章を打ち込んでいく。
 可愛くないことを言っている自覚はあった。むしろ敢えて言っているのだから。なぜならこれくらい突き放さないと、いやいくら突き放したところで、この男相手にはまるで効果がないから。舘脇の登場に期待も安堵もしていたのにどの口が、と言われるかもしれないけれど、それでもこれ以上距離を詰められるわけにはいかなかった。

「心配なんだよ」
「頼んでねえ」

 即答すれば、舘脇が困ったように笑ったのがなんとなくわかった。
 心配してくれているのは、わかっているつもりだ。しかし、ここで頼ってしまうとなし崩しになることも理解している。だから、頼るわけにはいかなかった。
 画面を見ながら指を動かす。前方からコツコツと近づいてくる音。頭は仕事の処理に集中しているはずなのに、意識が完全に舘脇に向いていることに苦笑いしたくなった。
 目の前までやってきた舘脇。書類に影が落ちたと思ったら、トン、と机に大きな手がつかれる。それに促されるように素直に顔を上げれば、その手がそっと、慈しむように目の下をなぞった。

「心配するのは当たり前だろ」
「放っとけよ。お前に心配される理由がねえ」
「……それを俺に言わせるのか」

 体温の高い手から逃げるように顔をそらす。それに小さく苦笑した舘脇は、くしゃりと頭を一撫ですると、思いのほか素直にするりと離れていった。

「好きなやつの心配くらい、させてくれよ」

 どうせお前は、なにもやらせてはくれないんだから。
 言いながら部屋の真ん中のソファに沈む舘脇を、東美の視線が追う。しかし舘脇がこちらを見る前に、パソコンへと意識を落とした。
 変わったな、と思うし、変わらないな、とも思う。一年の頃はヒョロリと細くてインドア派にしか見えなかった舘脇は、あの頃の顔面偏差値を保持したまま今はもうすっかり風紀委員然とした、しっかりとした体格になっている。あの頃の、生徒会長と風紀委員長にビビっていた気の弱さなど感じさせない。すべてはトレーニングと実戦の賜物だった。とはいえ、いまだに蓮見に対しては尊敬よりも畏怖の方が強いようだけれど。
 しかしどれだけ外見が変わろうと、東美への接し方は変わらない。相も変わらず彼はいつだって東美を気にかけて、懲りずに何度でも愛を告げる。それに対する東美の答えなど、やはり変わらず一つしかないというのに。
 そんな二人の関係の中で、最近一つ、大きな変化が起きた。その変化を起こした要因を思い浮かべながら、東美はふ、と一つ息を吐く。そうしてタイプは続けたまま、意識だけすべて舘脇の方へと集中させながら口を開いた。

「そういえば、あいつはいいのか? ほら、あの転入生くん」
「……東美」
「あー、名前忘れた。なんだっけ、あの毬藻眼鏡」

 咎めるような呼び掛けをスルーして、せっかく好きだと言ってくれた相手に向かって当てつけのように上げた話題。ありありと伝わってくる不満げな空気に視線を上げれば、案の定舘脇は苛立たしげに顔を顰めていた。

「あいつの話すんのやめろよ。わかってるだろ」
「いいじゃねえか。俺のこと、心配してくれてんだろ?」
「……」

 敢えて強調するように紡いだ言葉。この状況に置かれている自分を心配してくれているのならば、現状を作り出してくれた人物の話をしたってなんの問題もないはずだった。その元凶をどうにかしなければ根本的な解決には至らないのだから、むしろ積極的に取り上げるべき話題の、はずで。
 だというのに、舘脇は額にピキリと青筋を立てて、忌々しそうに息を吐く。対する東美もその表情の理由を正確に把握していた。むしろそれを狙っての発言だったわけで。だからこそ、苛立ちを顕わにしているのを前にしてその口許は僅かにゆるりと弧を描く。

「あいつ、とその取り巻きたち、今なにしてんの?」
「……俺が知るかよ」
「おいおい、風紀委員長様が知らないわけないだろうが。あいつらのせいで学園は大荒れなわけだし?」

 ――おまけにあの毬藻は、お前に執着してる。
 大袈裟な口調で、最大限に苛立ちを煽りにいってやる。皆まで口に出さないまでも、言わんとしていることが伝わっているのはわかっていた。その証拠に、ますます不機嫌そうに歪んでいく表情。それをのんびりと眺めながら、東美は口を開いた。

「こんなとこいないであいつのこと構いにいってやれよ」
「なんで俺がそんなこと」
「なんでって、お前に御執心な可愛い後輩じゃねえか」
「……俺はお前以外要らないって、何度言ったらわかってくれる?」

 苛々としたようにキツく睨まれる。言ってることとやってることが合ってねえよと思いながら、東美はきゅ、と唇を上げた。普段、必要以上に見せつけてくる包容力らしきものが消え去っていることなど気づいていないんだろう。こちらに向かって剣呑と目を細める男に、東美はわざとらしく首を傾げた。

「お前こそ、俺は無理だって何度言ったらわかんだよ」
「……東美」
「執着してもらって悪ぃけど、俺にとってはあの毬藻から嫉妬されんのが一番迷惑なんだ」
「東美やめろ」
「だからまあ――俺としては、お前には俺よりもあいつの事を構ってもらった方が嬉しいんだよなあ」
「東美!」

 ダンッ! と激しく机を叩く音。二人が黙ったことで、一瞬にして静寂が生徒会室を包み込んだ。
 応接用の高級な机なんだけどな、と思いながら舘脇の方を見る。机にその逞しくなった腕がつかれたまま、俯いていたその顔がゆらりと上がった。隠しもしない燃えるような瞳をぶつけられて、思わず怯みそうになる。簡単に怯んでやれるほど、年を食っていないわけではないけれど。
 憎悪とも嫉妬とも違う、ただ純粋な怒り。それを真正面から受け止めながら、東美は舘脇の言葉を待つ。そのまま数秒見つめ合うと、向こう側から外される視線。顔が背けられる直前、舘脇がぐ、と歯を噛み締めるのが見えた。

「悪い、でかい声出した」
「……」
「けど、さすがにないわ」

 ぽろり、と。零された言葉。言ったきり、再び口を閉ざしてしまう。
 その表情を見せまいと不自然なほどに背けられた顔は、決してこちらを見ようとはしない。それをじっと見つめていた東美は、視線を感じているだろうに頑なにこちらを見ようとしない顔に、仕方なく視線を逸らして大きく息を吐いた。

「舘脇、俺は」
「なあ」

 遮られた言葉。大人しく口を閉じると、舘脇が小さく唾を飲み込むのがわかった。

「お前のこと、名前で呼んでいいかな」

 問われたそれに、東美は咄嗟にぎゅ、と堪えるように眉を顰めた。やはり頑なにこちらを見ようとはしない顔。どんな表情でそう問うているのか、知りたいような、知りたくないような、自分でもどちらかわからないまま、東美はゆるく目を瞑った。そうして静かに息を吐く。

「――ダメだ」
「っ、」
「お前だけは、絶対にダメ」

 これで何度目の問いで、何度目の答えになるのだろう。
 何度聞かれても同じ答えだというのに。わかりきっている答えだろうに。それでも舘脇は、東美の答えに動揺したように肩を揺らした。

「――」

 変わらぬ答えにはなにも言わず、そのまま舘脇は扉へ向かっていく。カツカツと靴音が静かな室内に響く。ガチャリと扉を開けて、一歩足を出し――かけて、しかし不意に、なにかに引き留められるように歩みが止まった。
 そうしてゆっくりと振り返ってこちらを見た舘脇は、今にも泣き出しそうな、酷く情けない表情で。

「それでも俺は、お前が好きだよ」
「……」
「お前が……東美が、好きだ」

 言うだけ言って返事など端から求めていない顔は、東美がなにかを言う前にさっさと向き直ってしまって。今度こそゆっくりと閉まっていく扉。去っていく後ろ姿が扉に阻まれて見えなくなるまで、東美はその背中を見つめる。


「――……っ」


 そうしてついに閉まりきった瞬間、ふっと力なく首を垂れた。目を瞑り、深く深く、深呼吸をする。途端に震えだした手で、誰もいないその空間から隠れるように顔面を覆った。
 紡がれた言葉は、もう何度も、飽きるほどに聞いたもので。この二年間、しつこいくらいに聞かされ続けられてきたもので。
 しかしたとえ何度目であろうと、それに慣れることなどない。あまりにも真剣で真っ直ぐで、確かな熱を孕んだその言葉は。泣きそうで、それでも堪えるようなその表情は。いくら繰り返そうとも丁寧に丁寧に、何度だって心を深く抉っていく。

(……これでいい。これで、いいんだ)

 顔面を覆っていた手を、ぎゅうと握り込む。涙は出ない、けれど、嗚咽が漏れそうで歯を食い縛る。
 何度経験しようとも、この熱くせり上がる激情のようなものを上手くやり過ごす方法が、東美にはわからなかった。

 数秒とも数分ともわからぬ時が過ぎ、浅く息を吐いた東美は、ゆっくりと顔を上げる。その表情にはもう、先ほどの動揺はどこにも見られなかった。
 生徒会室には舘脇が出て行ってから誰も来ていないから、誰も見てはいない。おまけに今、舘脇以外にここへわざわざ訪問する人間はいない。それは断言できた。だから、ここでならどんな顔をしていたって、なにをしていたって、誰にも知られるわけがないのだけれど。
 それでも、いつまでも情けない姿でいるわけにはいかなかった。
 拒絶したのは自分だ。傷つけたのは自分だ。こうなっているのは自分の意志なのだ。これで潰れるわけにはいかないから。

(……ロスしちまったな)

 他の机の上に積まれている書類を見て、自分のやるべきことを思い出す。せっかく良いペースで進んでいたというのに、これでは昨日までと変わらないのではないか。いや、それでもこれから頑張ればなんとかさっきのペースまで戻せるだろう。
 とにかく進めよう、と落した視線の先。自分の机の上に乗った書類が、いつの間にかぐしゃぐしゃになっていて。いつの間に、こんなに握り締めていたのだろう。果たしてこれはまだ書類として受け取ってもらえる範囲だろうか。

「あーあ」

 せめてもと慎重に紙を伸ばしながら、気の抜けた声が出る。
 それは書類に対してか、舘脇に対してか、自分に対してか。なにに対しての思いなのか自分でもよくわからずに、東美は苦く笑ったのだった。



(後略)


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