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1.すきじゃないから


 はじまりは、何の変哲もない穏やかな午後だった。
 静かな生徒会室。そこに本来いるべき役員はいなかったが、今は逆に珍しい客がいる。それは、普段ならばこの部屋へは寄り付きもしないはずの、風紀の長で。
 生徒会を毛嫌いしているはずの彼がここにいる理由。それは、ここにはいない生徒会役員たちにあった。
 わざわざ書類を持ってきてもらわなければならない、そうでもしなければすべての仕事を回すには困難な状況。生徒会がそんな状況であるため、彼はここにいるのだ。そんな状況を作り出した役員たちに対して、いつもならば怒りしか浮かばないところだが、しかし今日ばかりはそうではなかった。

「久谷(くたに)、いい加減それやめたらどうだ」

 仕事を終えた途端に出て行こうとしながらスマホを取り出した男に、この部屋の主である桐生(きりゅう)侑紀(ゆうき)は声を掛ける。すると、流れるようにするすると動いていた男の指が止まった。「それ」が何を指すかなど、この学園の人間であれば言わずと知れたことである。
 大袈裟にため息を吐いてみせた生徒会長へと、風紀委員長――久谷弘毅(こうき)の気だるげな視線が向けられた。不満たらたらな、今更、おまけによりによってお前がなにを、と言葉にせずとも伝わってくる眼差しに零れる苦笑。自然に見えるよう、逸る心臓に気づかれないよう細心の注意を払いながら、桐生は呆れたように肩を竦めた。

「仮にも風紀委員長が、セフレいっぱいってのはさすがにマズイだろ」
「……一人に絞るのは色々面倒くせえっての、お前もわかってんだろ。それとも俺に禁欲しろとでも言う気か? お前が」

 がしがしと頭をかきながら面倒くさそうに吐かれた言葉。予想通りの反応に、桐生は内心ほくそ笑む。
 学園のツートップが同じ穴の狢だった。だからこそ黙認されてきていたことだ。それがなにをとち狂ったことか、片翼だけが優等生面をし始めてしまったら、もう片翼にとっては面倒なことこの上ないのである。
 しかしそう思っているであろう久谷を裏切るように、桐生の口は綺麗な弧を描く。そうしてまるで狙いを定めるように、桐生は緩慢な動作で目を細めた。

「なあ久谷、俺としてみねえか?」
「……は?」
「処理はしたいがここで恋人はいらない。だけどセフレがこれ以上増えるのも体裁が悪い……だったら、俺としてみようぜ?」

 豪華絢爛な席に座り、見るからに高級な机へ行儀悪く頬杖をついて。そうしてうっそりと、婀娜っぽく笑ってみせる。すると、面倒くさそうに見ているだけだった久谷の目が値踏みをする目へと変わるのがわかった。
 煽るように、ぺろりと僅かに上唇を舐める。刹那、相対する瞳にちらりと灯る、欲情の色。

「……俺は受ける気はないぜ?」
「へえ。いいんじゃねえの」
「本気か?」
「俺にとっても都合がいいんだよ。お互い快楽主義で好きでもない。後腐れのない、いい条件だと思うがな」

 ――なあ、どうする?

 そう言ってゆるりと目を細め、微かに首を傾げてみせる。そうすれば、快楽主義者の風紀委員長が誘いに乗らないわけがないのだった。



 風紀委員長という役職に就きながら、自ら風紀を乱している筆頭と揶揄される男、久谷弘毅。そして同じく下半身が緩いと噂の桐生侑紀は、この学園において久谷と対を成す、生徒会長であった。
 桐生はその人生において、誰にも自分の体を触らせたことはなかった。この学園において散々性的対象として見られていたうえに、あまつさえ淫乱だ淫売だとありもしない噂を立てられてはいたが、実際のところは処女で童貞。性行為の経験など皆無。
 未経験なだけで、もちろん健全な男子高校生としてそういった行為に興味がないわけではない。しかし経験がないということを恥じることはなかった。なぜなら彼には、久谷弘毅という想い人がいたから。
 しかしかくいう久谷は、同性を性の対象には見られても、恋愛対象は完全にノーマルな人間だった。性欲を発散するためのセフレは学園内に大量にいる。しかし少しでも自分に恋心があるとわかった人間とは決して寝ない。それが、頑ななまでの久谷のポリシー。

 そう、だから、そもそも叶わない恋なのだ。

 それならば、情を交わすことができないならば、せめて熱だけでも交わしたい――そう思い始めるのは、自然の流れで。
 セフレだってなんだって構わなかった。なんだって、久谷に触れることができるのならば。そうすれば、この行き場をなくして燻っている恋心を少しでも昇華できる気がしたから。
 しかし今の二人の関係を考えると、それには少しばかりきっかけが必要だった。そして今日、久谷が絶好の台詞を吐いてくれた。
 それが、きっかけ。




 煽るがままに、まんまと釣れてくれた久谷を自室へと招き入れるのは簡単だった。初めて桐生の部屋へ入った久谷は、こんなときだけ風紀委員長らしく興味深げに周りを観察していたが、桐生がおもむろに制服を脱ぎ始めるとニヤリと笑ってベッドへと腰掛けた。お手並み拝見、とでもいうようにこちらを見ているだけの久谷を鼻で笑ってやってから、用意していたローションを手にぶちまける。

 ぎこちなくないか? 不馴れに見えないか? 手は震えてないか? 青褪めてはいないか?
 恐怖と不安に押し潰されそうになりながら、それでも顔だけには余裕を貼りつける。ここまで来たからには止まれない。止められない。

 ――大丈夫。このときのために何度も予行演習はしたし、覚悟だってとうに決めてある。この俺があれだけ準備して、にも関わらず出来ないなんて、そんなことありえないだろう?

「……ん、はあっ……」

 四つん這いになり、自分の後ろの穴にゆっくりと指を挿し入れる。その感覚に、くぐもった吐息が零れた。
 慣れない異物感が苦手で最初はいつも肌がどうしても粟立つが、ここさえ通過すればローションの力を借りてなんとかなることはわかっていた。もたもたして自分が怯む前にとすぐにもう一本追加して、中を解すように拡げるようにばらばらと動かす。すると先ほどよりも強くなった体内を無理矢理抉じ開けられる感覚に、体を支えている腕ががくがくと笑った。

「はっ、ぅ……ん……!」

 ぐっと目を瞑り思いきって中を撹拌すれば、粘膜を擦り上げられる感覚に思わずびくりと背がしなる。苦しいほどに強烈な異物感。独りでに零れる生理的な涙。まだ快感など少しも感じられない。けれど久谷が見ているというだけで、苦痛とは裏腹に体温が上がるように感じるから不思議だ。
 久谷がそうであると思っているなら――これが快感なのだと、思える気がした。
 支点にしていた腕がついに耐えられなくなり、がくりと折れる。体のコントロールが利かない情けない姿。しかしそれでもきっと、上半身が潰れて勝手に震えている体や、次々にシーツへと吸い込まれていく涙と声は、淫らなものとして映っている、はず。

「んんっ、ふぅ……っ」

 下世話な噂は知りつつもわざわざ否定しなかった。広まるようにと余裕な顔して笑ってやった。男同士のヤり方だって調べたのだ。淫乱なイメージを保つために。慣れているイメージを崩さないために。一人で慣らす練習だってした。使用済みのローションがなにを想起させるかなど、予想済み。
 なぜなら、久谷がセフレに選ぶタイプは有名で。桐生はそうならなければならないのだから。

 そう――自分から腰を振って、善がるような男に。

「っは、ぁ……く、んッ」
「……さすが桐生会長、エッロいねえ」
「っに、見てやがる! くた、に……もう……っ」

 やれることならなんだってした。
 本気が負担だというのなら、想いなど綺麗に隠しきってみせよう。性欲処理のためだけの行為だというのなら、淫売を演じきってみせよう。
 軽い男に見えるように。慣れているように見えるように。なにより気持ちいいと思ってもらえるように。ただそれだけを、考える。
 だけどこれ以上の行為を、桐生はまだ知らなかった。一人でできる段階には限界がある。文字でなら散々読んだけれど、しかし実際にはどうすればいいかなどわからない、から。
 好きにしてくれて構わない。だから久谷、頼むから、なあ、どうにかしてくれ――そう、シーツへと擦り付けていた涙濡れの顔を上げた時だった。

「くそっ、煽りすぎだ……っ」
「っ! え? っちょ、や、おま……っ!」
「……ん? どうし……?」
「ぁ、ぁ……っやめろって、いって……!」

 口から情けない声が迸った。滲む視界には、いつの間にか迫っていた想い人の姿。頬を伝う涙を舐められると、途端に大袈裟なまでに体が震えた。乱暴な勢いで仰向けに引き倒されて、耳に臍に落とされる口づけに、切ない痺れが脳髄を溶かしにかかる。もうわけがわからなくなりそうで、本当に溶けてしまいそうで、シーツに縫い止められた拳を白くなるまで握りしめた。
 嫌だ、やめてくれ。いらない。いらないんだ。
 久谷が気持ちよくなれば、本当にそれでよかった。なぜなら桐生は淫乱だから。そんなことしなくても、勝手に一人で感じるのだから。以前、誰かがそう言っていた。ずっとそういう目で見られてきた。その噂を久谷が知らないわけがなくて。
 だから前戯だとか、そういうものはいらない。ただ、久谷が突っ込めれば、本当にそれでいい、のに。

「もういいって、んっ!」
「……なんだ、触られ慣れてねぇのか?」
「っくそ! っふ、や、変だ……ぁ……!」
「……あんな一人でエロくなんのに、触られるの苦手ってなんだそれ……」

 体を撫でる大きな手に、囁かれる声に、かかる吐息に、落とされる口づけに。久谷から与えられるすべてに、体が勝手に反応してしまう。桐生はそれに、戸惑いの声を上げることしかできない。

(なんだよこれ、こんなの、こんなの知らない――……)

 自分を触っているのが久谷だと思うだけで、頭がおかしくなりそうだった。自分でやったときはこんな風ではなかった。それなのに、どうして。自分ばかり気持ちよくなってどうするのだ。
 これはきっと快感ではない、けれどこんなにも追い詰められる。与えられる未知の感覚とリンクしない身体に対する焦りで、桐生の頭の中はパニックだった。
 だって、こんなセックスで、あの久谷が満足するわけがないのだ。久谷が喜んでくれるわけがない。そう思うと、今にも生理的な涙は感情的なそれに代わりそうで。計画は完璧だったはずなのに。準備だって抜かりないはずだったのに。
 しかし、どうしたって抗えないのだ。触れられるたびに、久谷に触れられる喜びを、久谷が好きなのだということを、どうしようもなく思い知らされる。否応にも想いの深さを実感させられる。苦しすぎた。気持ちを昇華させるつもりだったのに、さらに深まってゆくばかりで。
 ああ、だけどきっと、久谷はこんな人間をセフレには選ばない。無駄な心配だったか――そう、思ったとき。

「……あーヤバイ、嵌まりそうだわ」
「っ、く、たに……?」
「なんだそのギャップ、煽るの上手すぎんだろ……」

 ふいに抱き竦められた体。はっと見上げたそこには、ギラギラと雄の顔でこちらを見つめる久谷がいて。その表情に、ぞくりと背中を電流が駆けた。

「いいぜ、専属契約、しようじゃねぇの……っ」
「……っ、くたに、」
「だがその代わり、契約中はそのエロい顔、誰にも見せるんじゃねえぞ……!」

 ニヤリと笑い「俺の面子を潰してくれるなよ」としかけられた、噛みつくようなキス。あっという間に呼吸を奪われて、縋るようにその身体にしがみつく。それに細められた目は、桐生を愉快そうに眺めるだけで。


 好きだと口にすることはできない。それでもこうして体を重ね、キスをすることならできる。それでよかった。それ以上など、なにも望まないから。
 朦朧としてゆく意識の片隅で、そう思う。
 ファーストキスは、甘くて苦い味がした。




     ****




「――う、委員長!」
「あ……? ん、なんだよ?」
「なんだよじゃないですよ! 人がさっきからずっと呼んでるっていうのに!」
「あー悪い、なんも聞いてなかった。なんだって?」
「まったく……ほら、この書類、生徒会行きですよ。大事なものなので委員長にお願いしなきゃなりません」

 そう言ってから「その方が逆に心配なのに」と嘆く部下、樋口(ひぐち)から書類を受け取り、とりあえずそれを丸めてスパンと叩いてやる。すると優秀な部下はぞんざいに扱われた紙を指して重要だなんだと涙目になったが、久谷はそれに興味など欠片もなかった。なぜなら今、彼の頭を占めていることなど一つだけだから。

 昨日も、これからだった。
 珍しく自ら届けにいった書類。一人しかいない生徒会室。艶やかな笑み。熱い吐息。濡れる瞳。
 誘う痴態――……

『くた、に……もうっ……』

 思い出すだけでドクリと心臓が脈打ち、ゾクリと背中に興奮が走る。あれから何度も思い出し、何度だってそれに欲情した。それほどに、あの天下の生徒会長様の濡れた瞳と声、そしてはしたなく強請る姿は、堪らないものがあった。

「あー……ヤりてえ」

 ぞくぞくとするあの甘美な征服欲が甦ってきて、思わず漏れる呟き。自分がどうしようもなく飢えていることに、苦笑を浮かべるしかない。
 まだあれから一日しか経っていない。いや、正確に言えば一日さえ経っていないのだ。昨日したばかりだというのに、欲求不満は解消されるどころか昨日より遥かに欲が募っていた。体裁を気にしての契約だったはずのに更にヤりたくなるなんて、見事なまでの本末転倒。さすがは、淫乱生徒会長といったところか。

「……委員長、あんた本当にヤることしか考えてないですよね」
「ん? あー……お前さ、俺が相手一人に絞ったらどう思う?」
「は? なんですか急に。無理でしょうそんなの」
「仮にだよ仮に。頭の堅い野郎だな」

 向けられる心底呆れた視線。こんな風に久谷にも遠慮のない言動をとれるのは、風紀委員の中でもこの男、樋口だけだった。しかし対する、久谷も無遠慮な視線を向けられたからといって怯むような人間ではない。
 視線を無視してスマホを弄っていると、無意識に電話帳を呼び出している指。画面にずらりと名前が並ぶ。しかし眺めたところで顔の浮かばない名前ばかりで、久谷はようやく自分が弄っているのがセフレ用のスマホであることに気づいた。いったいどれだけヤりたくなっているのだか。

「うーん、仮に……仮に、万が一にでもそんなことになれば、うん、素晴らしいことだと思いますよ」
「ヤる回数が増えたとしても?」
「え、まあ……相手が絞られればいいんじゃないですか?」
「ふーん、そういうもんか」

 どの名前を見てもピンと来ない。ただの文字の羅列と化している電話帳に、久谷は小さく息を吐く。今までどうやってこの中から相手を選んでいたのか思い出せなかった。手当たり次第だっただろうか。

「そりゃそうですよ。というか、好きな相手が出来たらセフレよりもヤりたくなるのは普通なんじゃないですか?」
「なんで」
「だから、恋人相手の方が体だけの関係の相手より、心が繋がってる分もっと欲情するでしょうって。セフレとかいたことないからよく知りませんけど」
「んー? いや別に恋人じゃねぇし。セフレを一人に絞るってだけだしな」
「は? いや、でもだって一人に絞るとか本命だとしか……」
「家がうるせえってだけだ。ま、嫌いじゃあねえけどな……男を好きにはならねえよ」

 何度往復したところでわからず、諦めて画面から目を離す。どうしたってどれも同じにしか見えなかった。逆立ちしたって名前だけじゃわからない。とはいえ、昨日からはわかる必要などなくなったのだけれど。
 セフレ用のそれを置いて、普段使いのスマホを取り出す。さっきの会話の流れに納得していないらしい樋口に一挙一動を観察するように見られているのはわかっていたが、そのまま気にせず電話をかけた。ちらりと視線をやれば、ムッとして資料に目を戻す部下に喉を震わす。

「こんな所でセフレに電話かけんなよ! っていうか人に話ふっといてこの人は……」

 ぶつぶつと小声で言ってるのを聞きながら、待つこと数コール。留守電に繋がろうかというところで途切れたそれに、久谷の口元が僅かに弧を描いた。

『……はい』
「おう俺だ。ははっ、いーい声だなあ」
『な、え、おまっ……!?』
「せっかく専属になったわけだし、昨日お前が寝てる間に登録させてもらったから」

 電話に出た掠れ声に、今度こそ隠しようもなくニヤリと笑みが浮かんだ。ぞくぞくと背中を駆け抜ける欲情。
 堪らない。この偉そうなくせにどこまでもエロい声を、散々に啼かせたい。

『どうしたんだよ、なにか用か』
「んーや、なんか声聞きたくて」
『……っは、なんだ、てっきりヤりてえのかと思ったぜ』

 挑発する、昨晩喘ぎすぎて掠れた声。あの豪勢な会長席に沈み、気怠げに笑いながら男を誘う姿が目に浮かぶ。

 ああ――ああ、堪らない。

「よくわかってんじゃん、今日は俺の部屋来るか?」
『……どこだっていい。好きにしろ』
「え、なに、じゃあ生徒会室がいいっつったら、会長様は了承してくれるわけ?」
『体裁気にしてんだろ、馬鹿かてめえは』
「はいはいすみませんねえ」

 ニヤニヤと軽口を叩いていると、がたりと勢いよく立ち上がる音。何事かとそちらに視線をやると、驚いたようにこちらを見ているアホ面が一人。喧しいという視線を送るも唖然として気づいていない彼から、興味を失くして視線を外した。
 しかし改めて考えると、生徒会室で、というのはなかなかに刺激的である。王様の居城で王様を組み敷くだなんて、まさに男のロマンそのものだった。あるいはこっちでというのも悪くなさそうだとほくそ笑みながら、久谷はちらりと時計に目をやった。

「よしじゃあ俺の部屋な。ちょうどお前に届けなきゃなんねえもんあるし」
『届けるもん?』
「あーなんか書類だ。届けにそっち行くからよ」
『わかった……待ってる』
「ん、じゃあな」

 プツリと通話を切って立ち上がる。
 さっき渡されたのも含めて生徒会長へ渡さなければならない書類をトントンと束ねていると、風紀委員長が署名する欄があることに初めて気づいて。しかし桐生と後でどうせ部屋で一緒になるのだから、彼がサインするときに一緒にすればいいと見ないふりをする。
 すでに下校時刻は過ぎていた。だからこそ他の委員は帰って久谷と樋口しか残っていないわけだが、そろそろ自分たちもお役御免でいいだろう。今日までにやるべきことはやったのだし、と久谷は一つ頷いて立ち上がった。

「じゃあ、お疲れ。俺、今日はもうここには帰んねえから。お前も早く帰れよ」
「ちょ、あの、い、委員長……! 今の、今の本当ですか!?」
「あ? 今のって?」
「今の電話! だって、だってあの会話のタイミングで相手を一人に絞るって! もしかしてその相手って、あの会長様なんですか!?」

 目を真ん丸くして驚きを表現する部下に、久谷は心底鬱陶しそうに顔を顰めた。わざわざ答えてやるのも面倒くさくて、無視して新規メールを作成する。そうしてセフレ解消の旨だけを書くと、一斉送信のボタンをタップした。
 送信しはじめたセフレ用のスマホをほいっと投げてやる。すると条件反射のようにキャッチした樋口に、久谷は口角を上げた。

「それ、メール全員に送れたら処分しといて」
「は? え、な、なんでですか」
「だってもう必要ねえし」

 いくら薄くて軽いものだといえど、わざわざ二台持ち歩くのは面倒くさい。それにきっと、今のメールを受けて、しばらくは鳴り止まないだろうから。それに応対するつもりはなかったから、煮るなり焼くなり好きにしてほしかった。

「ちょっと! 困りますよこんなの!」
「いーから。好きにしろよ、適当に……な? ほら、その電話帳使ってもいいぜ?」
「ばっ……!」

 その言葉にカッと目を見開き、思い切りぶんと投げたものを久谷はひょいと避ける。後ろでガシャンと音がしたので振り返ると、壁に当たって落ちたスマートフォンの無惨な姿が目に入った。

「うっわあ……」
「あっ! つ、つい……!」
「……まあ、確かに好きにしろっつったが、一応メール送れたのか確認してほしかったな……」
「うわ、うわ、すみませ……!」

 照れ隠しでスマホを投げられては堪らない。それ要らないっていうのが冗談だったらどうするつもりだったのだろうか。我ながらバイオレンスな部下を持ったものだな、と久谷は頬を引き攣らせた。
 壊れていてもいいけれど、メールは送れてますように。送れてなかったら、すべてはこのアホな部下のせいってことにしてこいつを献上してしまおう。それでいい。なんて適当なことを考えながら、久谷は風紀委員室を退室した。
 これからあの会長様がいったいどんな痴態を演じてくれるのか、楽しみで仕方なかった。せっかくの契約なのだから、楽しまなくては損だ。
 送信した直後から、不穏なバイブレーションを響かせ始めたスマートフォン。しかしとっととそれを部下に下げ渡してしまった久谷は気づかない。ただ上機嫌にこれからの情事に思いを馳せながら、彼は足取り軽く、自分の部屋を目指していた。




    ****




 カタカタと奏でられていた音がふいに止まった。部屋には他に音がなかったせいで、手が止まったのがすぐにわかってしまう。僅かな静寂。その秀麗な眉を少しだけ顰めた桐生は、しかしすぐに仕事を再開する。

「ね、かいちょー、お昼いかない?」

 そこへふいに掛けられた声に、桐生の体がビクリと揺れた。パソコンから上がった瞳がふわふわと揺れる金髪を捉え、彼にはわからないように小さく息を吐く。

「あー……俺はいいや。お前らだけで行っとけ」
「あら、いいの?」
「ああ。まだ腹減ってないし」
「んん、了解っ! じゃあお大事にねん」

 桐生の答えにぱちん、と綺麗にウィンクをして出ていくチャラ男に、不覚にも顔が赤くなる。隠していたつもりだったけれど、あの男にはバレバレなわけだったようだ。学園一のチャラ男の名前は伊達ではない。
 正直、舐めていたのだ。お世辞にも体が小さいわけではないし、それなりに鍛えてもいる。だから、まさか自分が動けなくなるわけがないと。そんなに柔な人間ではないと。
 だから、どうせ腰の痛みなんて大したことないだろうと――実際に、経験してみるまでは。



 あの日、初めて抱かれた日から、ほぼ毎日のように電話がかかってくるようになった。
 他愛もない話をして、軽口を叩きあって、少しだけ仕事の話をして。まるで友人のように話をする。今まではずっと、用事がなければ言葉さえ交わさない犬猿の仲だった。あの頃からしてみれば、信じられないくらい大きな進歩。普通に話せるだなんて、驚くくらい急速に二人の仲は近づいた。

(だけど――……)

 最後に必ず、誘われる。
 いや、あれはもう、誘われるというものでもない。セックスするというのは大前提。だから、ただ場所と時間を伝えられるだけ。そうしていつも、そこでようやく思い出す。彼は、ヤりたいから電話をしてきているのだということに。
 当然だった。なぜなら二人の関係は、セックスフレンドで。おまけにそうなろうと持ちかけたのは桐生自身。だけどそうでもしなければ、きっとまだ犬猿の仲だったのだ。今のように親しく話なんてできやしない。まして電話なんか、掛かってくるわけがない。

「あー……」

 がくり、机に項垂れる。なんの気なしに出した自分の声に、不満が滲んでいるのに気がついた。
 なにが不満だというのだ。これだけ話せるようになった。これだけ共にいる時間が増えた。それだけで、いいではないか。
 元々こうなることを望んでいたのだ。これを望んで持ち掛けた話のはずだった。それなのにどうして、それだけでは満足できない? これではまだ不満だと、それ以上の関係を望んでしまう?

(体の関係がなければ、友達でさえ、ないのにな)

 あの日から起こったことは、桐生にとっては良い変化ばかりだった。
 なんの前触れもなくふらりと気紛れのように生徒会室に帰ってきた会計は、罪滅ぼしのように仕事を片づけ始めた。なにがあったわけではない。ただ、ふと我に返ったらしい。それから彼に誘われて食堂へと赴けば、たまたまそこで鉢合わせた書記と庶務も、よろよろとしていた桐生の様子に慌てたように戻ってきてくれた。
 どうやら桐生がフラフラとしていたことで彼らは酷く罪悪感に駆られたようだった。しかし残念ながらそれは仕事過多による寝不足なわけではなく、慣れない行為に足腰が悲鳴を上げていただけなのだけれど。もちろんそんなことをわざわざ教えてやるわけもなく、今は二人とも、桐生のためにと働いてくれていた。
 とはいえ、これだけ久谷と連絡をとって暇さえあればセックスしているのだ。彼らとは一日の大半を一緒にいるため、真実がバレるのも時間の問題ではあった。現に、すでに会計にはバレてしまっているのだから。

「ねみい……」

 眠い。お腹が空いた。腰が痛い。心が寒い。
 心が寒い、なんて。ふと頭を過った思いに、桐生はため息を吐いた。役員が戻ってきていて、片想い相手と情を交わすことができている。こんなにも、満たされている。それなのにもっと欲しくなるなんて、自分でも呆れるほどに欲深い。
 とりあえず今の欲求で満たせるものを満たそうと、ゆるりと目を閉じる。ここのところ毎晩のように久谷に抱かれているし、そうでないときはこうしてどうにもならないことを考えてしまって眠れていない。せめて昼休みぐらい寝てもいいだろう。
 セックスのあとも死んだように寝てしまうのだが、隣の久谷に無意識のうちに緊張でもしているのか、それでは十分な休息は得られていなかった。

「あの絶倫め……」

 きっと専属契約≠ネんてものをする前は、毎晩取っ替え引っ替えセフレ達とお楽しみだったのだろう。それが、相手が桐生一人となったのだから、抱き潰されているといってもいいこの状態も仕方のないことかもしれなかった。それを思うと、相手が自分だけになったというのは桐生にとっては喜ばしいことだった。それに、腹が立つことに、連日連戦のくせに処女だったはずのそこが傷ついていないくらいには、彼は上手いのだ。
 と、思った瞬間、勝手にもぞりと腰が揺れた。さらにあれやこれやを思い出しそうになり、慌ててぶんぶんと頭を振る。
 毎晩すっからかんになるまで出させられ続け、挙げ句、空イキなんてものも覚えさせられた。そうして逃げ出したくなるほど、嫌というほど性欲は解消しているはずなのに、こんなことでおっ勃てるだなんて最悪ではないか。盛りのついた中学生でもあるまいに。

「これじゃあ本気でビッチじゃねえか……」

 口に出してしまってから、自分の言葉に自分で落ち込む。今までも散々噂されてはきたが、それはまったくの事実無根だったので別段気にはならなかった。しかし実際に自分に当てはまるかもしれない言葉だと思った瞬間、心の底から気持ち悪く感じる。
 そう思いながらも、だけど、と桐生は頭の中の自分に反論していた。
 だけど相手は不特定多数じゃない。相手は久谷限定だ。そこを譲る気は毛頭ないから。だから、初めても、それこそ男を好きになるなんて滅多にないだろうから、もしかしたら最後だって、彼かもしれないのだ。むしろそうであることを望んでいるわけで。
 だからビッチというわけではなく、むしろそう、一途なのだ――と、そこまで考えて、それこそ本気で気持ちが悪いことに気がついた。

(う、わ、なんだ今の。なしなし。今のなし)





(中略)





2.きらいであれば


 荒い息だけが部屋に響いていた。あえて喋らないようにしている相手に焦れたように、桐生は熱い吐息を吐き出した。

「はっ、あ……くそ、やっ」
「んなこと言って、期待してんだろ?」
「この悪趣味野郎が……!」

 視界を奪われ不安だろうに、あくまで減らず口を叩くのにニヤリと笑う。切なげに身悶えるその様子に、久谷は堪らず唇を舐めた。
 見えない中で触られることを期待しているのか、健気にぷくりと膨れている突起。触ってと強請っているかのように主張している小さな乳首に、そっと指を沿わせる。すると優しく触れたはずなのに、しなやかな筋肉に包まれた体は怯えたようにビクリと震えた。

「ひっ、あ、や、やだ、くたに……っ!」
「んな怯えんなって。ほら、ここはぷっくり勃ってきたぜ?」
「そこばっか、触んな!」
「ははっ、すげえ敏感」

 二人以外には誰もいない風紀委員室。
 日常的に使っている我城で、非日常的な行為に耽る。この風紀委員長席の上は久谷のお気に入りのスポットで、前にもここで他のセフレたちとヤったことはあった。しかし今自分の上に乗っているのがこの生徒会長だというだけでこんなにも背徳的に感じるのは、この男の麗しすぎる容姿ゆえか。お世辞にも女らしいとは言えない見た目は、しかしこうして男のモノを咥えて身悶え震えるとなると、見ていられないほどに扇情的で。この完璧すぎる男前が自ら男に跨がって腰を振って善がる姿は、あまりにも倒錯的すぎた。
 それになにせ、今は。

「も、これ外せえ……!」
「いいじゃねぇか、見えなくてお前もいつもより敏感になってんだろ」
「あ、やめ、あああっ」

 嫌がる桐生に無理やり目隠しをして、騎上位をさせているのだから。
 先ほどから乳首ばかりを弄って焦らしていた手で唐突に桐生のモノを撫でれば、彼は大袈裟に震えて仰け反った。逃げをうつ腰を捕まえて、先走りでどろどろのソレを無理やりぐちゅぐちゅと可愛がってやる。
 逃げようと自ら動いてしまったせいで中が擦れ、外からも遠慮のない刺激が与えられる。どちらともからの快感に均整のとれた綺麗な体ががくがくと震える。その様子に、久谷は熱い息を吐いた。

「あ、やめ、くそ、も、あ」
「ヤ、じゃねぇだろうが! おらっ」
「っひ! あ、あ、やああっ」

 久谷の肩に突いた腕を突っ張り、嫌だと首を振る素直じゃない男の腰を突き上げる。その途端、突っ張っていた腕が助けを求めるように縋ってきて、久谷の口元がにんまりと緩んだ。こんなに目に上手い肴を前にして、ニヤけるなという方が無理な話だった。
 じわりと濃く変色した目隠し。それがまた卑猥さを演出していたが、同時に涙を湛えた瞳を見られない口惜しさもあった。きっとあの下の瞳は、隠しようもなく快感に濡れていることだろう。その想像だけで昂ぶりながら、久谷は悲鳴のような矯声をあげる体を遠慮なく突き上げる。
 桐生とヤるのは、これだから困るのだ。いくらヤっても、もっともっとと更に渇いている気がして。満たされるはずの行為で、更に飢えている気がして。どう考えてもヤバイ奴にハマったよなあと思いつつもやめる気などさらさらない久谷は、乾いた唇をぺろりと舐めた。


 桐生会長の情事の噂は、何度か聞いたことがあった。
 曰く、ネコタチ拘らぬ快楽主義者。どちらであっても主導権は手放さない。
 だから、ネコの時は特に騎上位を好んだらしい。上に乗っかり、相手には触らせずに一方的に翻弄する。相手に翻弄されるなど有りえない。たとえボトムであったとしても、あくまでも王様であり続ける。そうでなければ桐生ではないとさえ言われる――そんな、男が。

 俺の上で、涙を流して啼いている。
 助けを求めて、俺だけに縋ってくる。

 こんなにも満たされることはない。こんなにも渇くこともない。
 やめろ、はなせと詰り、切なげに体を震わせながら、悔しそうに歯を食い縛る。そうしてあくまで王様であろうとするこの男の仮面を剥ぎ取り、すべてを晒け出させてやりたくなってしまう。自分だけに晒さ出させて、自分だけのものしたくなった。

 最初は面白い余興のようなもののつもりだった。自分に引けを取らない、むしろ男として上を行きかねない、そんな男を抱くのも、また一興。そんなお試しのような軽い気持ちで専属契約した久谷の予想とは裏腹に、桐生という男は、どうしようもなく男の独占欲を煽る男だった。久谷はそれに、まんまと嵌りこんでしまっていた。



「は、あ、うああっ」
「ココがいいんだよな?」
「や、ソコ、やめ、あ、ああ――ッ」

 熟知しているイイところをごりごりと擦り上げる。耐えられない、というようにくんと伸びる綺麗な首筋。無防備に晒され、ひくひくと震える綺麗な喉があまりにも美味しそうで、思わずがぶりと喰らいつく。途端、桐生は反射のようにびゅくっと僅かに白濁を吐き出した。

「はっ、はー……ふ、は…」
「ははっ……思わずイっちまったか」
「る、せえ……」

 可愛くないことを言いながら肩で荒く息をする桐生の顔がどうしても見たくなって、ついに目隠しを取ってやる。するとようやく布の奥から現れた瞳は、ぐずぐずと快楽に濡れ、赤く染まった目尻が酷く艶やかで。自分が想像していた比ではない、予想以上の表情に、久谷は唾を飲み込んだ。

「……お疲れのとこ悪いが、俺はまだイけてないからやめねえよ? 最後までちゃんと付き合ってくれるんだろうな?」
「……誰も、限界だなんて言ってねえ。てめえが俺に付き合うんだろ、調子に乗るな」
「っは、上等……!」

 ああ、これだから。それでもまだ、凛として立ち向かってくるものだから。だから、際限なく求めてしまうのだ。

 今まではこんなことはなかった。どんな人間が相手であろうと、適度に性欲が満たされればそれでよかった。それこそが正しくセフレだ。それ以上でも以下でもない存在であるべきなのに。
 だというのに、今はどうだ。もう、そんな悠長なことは言ってらいられなかった。どこまでも求めて、どこまでも求めさせたい。欲は渇きは、募るばかりで、一向に満たされる気配を見せてくれない。だからまるで、獣のようなセックスになってしまうのだ。
 自覚がありながらも、どう足掻いたって止められない性欲に苦笑しつつ、生意気な口を黙らせるべく腰の動きを再開する。途端、さっきの台詞を言ったのと同じ口が発する甘い啼き声に、久谷はどうしようもなく満たされるのを感じた。




「信じらんねえ。くっそ腰いてえんだが」
「そりゃお前が煽るからだろうが」
「つーかそもそもここでヤろうって言い出したのはてめえだろ! って、あ……」
「ん?」

 夕方から背徳の限りを尽くし、そろそろ警備員が回ってくるであろう時間。少し休んでどうにかこうにか動けるようになった桐生と共に、久谷は風紀委員室を出る。ぶつくさと文句を言う会長様にはいはいと答えながら施錠していたら、ふいに彼が微妙な声を出して。どうしたのかと顔を上げた久谷は、彼の視線の先へと目を動かす。そうしてその視界に写ったのは。

「久谷様……桐生様……」

 愕然とした表情で、こちらを見つめる一般生徒。
 いや、正確に言えば、彼はただの一般生徒ではなかった。なぜなら、彼の顔と名前を、久谷は確かに知っていたから。
 久谷が覚えている一般生など、ほとんどは風紀に頻繁に厄介になるFクラスの不良か、もしくは久谷を崇めるファンクラブの幹部くらいである。果たして彼は、後者であった。
 親衛隊を作ってはならないというルールのある風紀委員長の、ファンクラブという名のセフレ集団の仕切り役、だった男。つまりセフレ歴の一番長い人物というわけだった。とはいえ、久谷は先日そのセフレすべてを切ってしまっていたのだけれど。

「よお雨宮(あまみや)、久しぶりだな。こんな時間にどうしたんだ?」
「っあ、いえ、久谷様に久々にお会いできないかなーと、思ったんですけど」
「俺に?」
「あの……あ、えっと、久谷様が大丈夫なら、問題ないんです、はい」

 久谷の問いかけに焦ったようにしどろもどろする彼に、すぐになるほどと合点がいく。きっと彼は、今までのように久谷に抱いてもらえはしないかと、ここで待っていたのだろう。偶然を装ってここで待ち、あわよくば一緒に帰ってセックスをしよう、と。
 こちらのためのようなことを言っているが、突然のセフレ切りに我慢できなくなったのは彼、雨宮の方だ。そもそも執着もなにもない、ただセックスするためだけの集団だった。お互いそれを了承したうえでの関係だったはずだから、こんな事態が起こるなどあり得ないはずなのだけれど。
 つまりたとえ桐生だけで満足していなかったところで、どうせ終わっていた仲だったのだ。今よりももう少し持ったにせよ、結局は執着心が膨らみすぎている彼を傍に置くのは近いうちにやめていただろう。性欲を満たすためのセフレなのだ。面倒な事はごめんだった。

「会長様、だったのですね……」
「あっ、いや」
「ああ、俺のパートナーはもうこいつだけになったんだ。俺たちはこれから帰るし、お前もそろそろ帰れよ」
「ちょ、久谷!」

 わざとらしく桐生の肩を抱いて笑ってやる。嫌がってすぐに逃げられてしまったが、それだけでも効果は抜群だったようで、雨宮の顔面からみるみるうちに血の気が失せていった。

「っ、失礼します……!」
「あっ、おい!」

 逃げるように駆けだした小さな体。関係ないはずの桐生がそれに声を掛けていたが、久谷はそれを、自分でも驚くほど冷たく見つめていた。
 厄介事は避けられた。そのうえ少しだけ満たされた独占欲に、どこか優越感すらあった。一石二鳥だったなと機嫌よく隣を見た久谷だったが、しかし桐生はなぜか、どちらかというと不機嫌な表情をしていて。

「おい、どうした?」
「……あれでよかったのか?」
「は?」
「あの手のタイプは、簡単に引き下がれるようなタイプじゃないだろ。あんな煽るように追い返して、大丈夫だったのか?」
「あー……」

 桐生の言葉に、久谷は眉を寄せた。
 確かに彼は粘着質そうなタイプだった。今までの印象はそうではなかったはずだが、あれは彼の本性が鳴りを潜めていただけだったらしい。
 風紀委員長という立場上、そういう奴らと話さなければならない機会はよくあった。大抵は自分だけの正義を掲げ、誰かのためという大義名分を振りかざし、我を押し通そうとするやつら。そのような奴らには現実を突きつけたところで、逆に刺激を与えて激昂させてしまうことの方が多い。そこですんなり引き下がれるなら、もともと食い下がることはないのだから。
 それを考えると、確かに追い払い方を間違えたのかもしれない。そう思った瞬間、適当に一斉送信したメールが脳裏に思い出されてふと不安になった。久谷が僅かに眉を寄せると、しかし隣で桐生がふっと軽く息を吐く。そうしてどうでもよさそうに、一言呟いた。

「ま、大丈夫か」
「ん?」
「だって、あいつがなんかしようとしたって、対象は俺らだぜ? だったら大丈夫だろ」
「あー……まあ、確かに」

 気にも留めていないようにあっけらかんとして言われた言葉に、久谷も頷く。言われてみれば、確かにそうだった。復讐でも制裁でもしようとして、この学園において、久谷と桐生ほどやりにくい相手もいないだろう。やれるものならやってみろという話だった。
 そう納得して一つ頷くと、久谷はすぐに思考を投げ出し、隣にあった腰を抱いた。ぎくりとしてこちらを見る、当然まだダメージの回復しきっていない桐生。その引き攣った表情に口角を吊り上げる。
 さて帰ってもうワンラウンドと意気込む久谷の頭からは、さっきまでの懸念はもうすっかり消え去っていた。



    ****



 カチャカチャとキーボードを叩く音だけが響く生徒会室。ついこの間までならば、この時間もきっともっと賑やかだった。
 つい先日までは、少しずつ役員が帰ってきてくれて賑やかになっていく一方だったのだ。会計に書記、庶務、そしてついには副会長まで戻ってきて。しかしそれを突き離したのは自分だった。
 彼らが離れるだろうとわかっていて、それでも愚行をやめはしなかった。自分にとって、それは愚行などではなかったから。せっかく戻ってきてくれた彼らには悪いとは思いつつも、他の役員が早々に帰ってしまうのには、もう慣れてしまっていた。

「っし、帰るか……」

 本日のノルマを終え、のんびりと立ち上がる。今日も例に漏れず他の役員はもう先に終わらせ、待つ素振りも見せずに先に帰っていった。だから、今生徒会室にいるのは桐生一人だった。
 今までは噂だけだったはずなのに、彼らが生徒会を少し離れていた間に、会長があからさまにセフレと連絡を取るようになっていた。そのことに、他の役員、特に副会長が酷くお冠だった。会計だけは嫌悪感を抱いたりはしていないようだったが、「会長がいいなら俺もいいじゃん」と調子にのって、桐生の好感度の降下に一役買ってくれていた。まったくありがたい。

 当然のことといえば、当然だった。そもそも今までは、本当に噂だけで実際にセフレなどいなかったのだから。だから、連絡とっているところを見られなくて当然なのだ。しかしそれが今は、桐生の着信履歴は遠慮せずに電話を掛けてくる男の名前でいっぱい。毎日のように仕事中もなにも関係なく掛けてくるものだから、役員にバレないわけもなく、当然の如く印象は最悪。その場で律儀に毎回電話をとって見せつけるように駆け引きし、最終的に承諾する桐生も悪いのだけれど。
 副会長たちは、今までは親衛隊だったために桐生の気分次第で持ち掛けていたのが、今は相手が久谷になったせいであちらからも掛かるようになったらしい、と都合よく解釈してくれているようだった。確かに天下の生徒会長様に自ら持ち掛けるなど、風紀委員長ぐらいしかできないのは事実だけれど、よくそんなこと思いついたなと感心してしまったのは秘密だ。

 カバンに荷物をしまいつつ、着信を確認する。本日、履歴はなし。あれからほとんど欠けた日はないくらいには、連日抱かれ続けていた。しかし今日はどうやらヤらないらしい。珍しい日もあるものだ。スマホを片手に持ちながら、桐生はぐうっと背伸びをした。
 確かどこかの親衛隊がやらかしたとか副会長が言っているのを聞いた気がした。つまり、風紀委員はみなその後処理に追われているわけだ。いつも散々自分のことを抱き潰して偉そうに上から見下ろしてくる男の忙しそうな姿を想像し、笑ってやった。



 最近はもう、セフレだということを不満に思うのはやめた。
 この間、久谷のファンクラブとたまたま会ったときに思い知ったのだ。自分は彼と、なにも変わらないことを。セフレでいいと思っておきながら、その先を期待してしまう。独占欲など欠片もないように装いながら、久谷が自分だけのものにならないかと願ってしまう。
 きっと、彼もほんの少しだけ勘違いをしていたのだ。ファンクラブの中で、自分が一番久谷の側にいた時間が長いのだと。少しだけ、周りよりも優遇されていたのだと。
 だけどそれは、あくまでセフレの中だけの話で。自分がその域から出ていないのに気づけなかった。いや、気づこうとしなかった。

 ――きっと自分も、彼と一緒だ。

 他のセフレを切って、自分だけに絞ってくれている。それは自分から持ち掛けた話なのに、うっかりそれを忘れて勘違いしてしまいそうになる。自分だけを選んでくれたのだと、自分に都合のいいように考えてしまいそうになる。だから今、諦めておかないと。期待することをやめないと。それでもしておかなければ、いつか捨てられたときに、自分が雨宮のようなストーカー紛いのことをしないとは言い切れない。
 雨宮は、遠くない未来における自分の姿かもしれなかった。セフレだと割り切っていたつもりで、いざ切られたらなにをするかわからない。そんな無様な真似、するわけには絶対にいかない。それでも、そうとわかっていても、自分でもなにをするかわからない自分が怖かった。
 なんて、そんなことを真面目に考え思い込もうとしている時点で手遅れなのかもしれないけれど。それでも結局は足掻く自分が想像できて、くつくつと喉の奥で笑いながら扉を開けた。
 今日は久々にゆっくり眠れるのだ。ならば早く帰らない手はない。部屋に帰ったらなにをしようか。そんなことを考えつつ、足取り軽く部屋の外へと踏み出そうとした桐生は――しかし、そこで待ち伏せていた人物に、ぴたりと足を止めた。

「ああ会長様、お待ちしておりましたよ。おや、今日はお一人ですか?」

 こちらに向けてあどけない表情で笑うのは、桐生がつい今まで考えていた人物。どこか白々しい言葉選びをする雨宮は、先日久谷と共に会ったときの印象とはまったく別の人物のようで。
 しかし桐生にとって重要なのは、そんなことではない。桐生の目は、彼を待っていたもう一人の人物に釘付けだった。

「お久しぶりです、桐生様」
「に、しな……」
「ええ。お元気そうでなによりです」

 雨宮の隣で、嫋やかに笑むその人物。
 それは他でもない、桐生侑紀生徒会長親衛隊の、隊長殿だった。




(後略)




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