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「ああ……なんと素晴らしい。なんと美しい……この世のものとは思えない」

 ギラついた目、吊り上がる唇、荒い息。隠す気もない、下卑た笑み。
 迫りくる無数の手に、情けなくも喉が震えた。整わない呼吸はさらに乱れ、不規則に無様な音を立てながら胸を喘がせるだけで。
「さあ、さあもっとよくそれを見せておくれ――私の黒曜石オブシディアン」
 恍惚として言葉を乗せた唇は、濁りきった欲でドロリと濡れている。動くこともままならない体へと容赦なく伸びてくる手にできる抵抗など、キツく目を閉じることくらいしかなくて。
 あからさまで醜い欲望の前に晒されるのがここまで屈辱的で恐ろしいことであるなんて、そんなこと、知りたくはなかった。



「――っ」

 一気に意識が浮上して、ビクッと体が勝手に跳ねた。動きを止めていた喉が、ひゅ、と掠れた音を立てて息を吸い込み、それからようやく目が覚めたのだと自覚する。それと同時に、つい今までのそれは夢だったことも理解して。ほっとして、恐らく一瞬だけ止まっていたらしい呼吸を整えようとした途端、逆に盛大に噎せ込んだ。

「げほっ、ぐ、はっ、げほっ」

 咳と共にせり上がってくる吐き気は、一波を堪えても何度も波のように押し寄せる。身を守るようにぎゅうと背中を丸め、それらをなんとか抑え込む。何度目かの波をどうにかやり過ごすと、ようやく喉の痙攣が収まって。固く握り締めていたシーツから手を放し、全身に入っていた力を抜いた。
 止まらない咳と吐き気によって生理的に滲んでいた涙を乱暴に拭う。自分の体の弱さを、ここまで憎く思ったことはなかった。

(……失敗だ、なにもかも)

 咳は収まれども整わない呼吸のまま見渡す部屋は、まるでなにも起こっていないかのように、なに一つ変わってはいない。泣きたくなるほど乱れた箇所のない煌びやかなそれらは、まるで壱希いつきを馬鹿にしているかのようだった。


 ほんの数ヶ月前まで、壱希は地球に位置する日本という国の高校生として、ごく普通の生活をしていた。ごく普通の世界の中の、ごく普通とは言い難い、限られた上流階級。そんな上流階級の子息ばかりが集まる学園で、その狭くも明確な格差の存在する世界を統治するトップ、生徒会長として悠々と。
 しかしそれが今は、地球ではないどこか――いや、そもそも世界さえ違いそうな、地球という星さえ存在しない、見たことも聞いたこともない世界にたった一人。気づけばここに飛ばされていたのだ。
 飛ばされた当初は、当然これが現実だとは信じなかった。やけにリアルな夢だなと感心したくらいで、突然飛ばされて、誰がそれが本当の出来事だと思おうか。もちろん当然のように理解の範疇を超えていたし、そんなちゃちなSF小説のような話が本当に自分の身に起こったのだとすぐに信じられるほど、頭はお花畑ではなかったから。それでも、壱希がどう思おうが、逃避しようが、現実は現実で。何時間、何日が経とうとも、夢からは醒めてくれないし、誰もネタばらしをしてはくれなかった。
 そうして何日と時間が経過してようやく、この非現実的な状況を受け入れなければならないことに気がついた。どうやらこれは現実らしいと――生きようとしければ、死んでしまうらしい、と。
 そうと気づいて、壱希は必死になった。右も左も、言葉さえわからず、味方など当然いないなかで、それでも生きていかなければならない。わけのわからないことに巻き込まれたからといって、それは仕方ないと生きていくのを諦められるほど、潔くはない。生きていくためには、どれだけ無様であろうと必死に足掻くしかなかった。
 そうしてこの世界に順応しようと必死になっている壱希の元に奴らが現れたのは、どうにか生きていけそうだと、ようやくそう思え始めた矢先だった。
 地球で生きていた頃には武器の一つとなっていた容姿が、仇となった。なんの地位もないどころか存在の証拠さえない、見目麗しい生き物――特にこちらの世界には存在しないとされる黒瞳は、収集癖を持つ金持ちたちの格好の餌食で。壱希を我が物にしようと、奴らは大群で押し寄せたのだ。

(――それでも寧ろあいつらに捕まった方が、いっそ楽だったのかもしれない、なんて)

 あんな夢を見てしまったせいで、思い出したくもないまでずるずると思い出してしまう。そうして、らしくもない考えに至ったときだった。

「イツキ」
「……っ!」
「起きた、のか?」

 掛けられた声に、慌ててバッと顔を上げる。反射的に睨み上げた先、扉の前でこちらを静かに見返すのは、嘘のように完璧な容姿をした男で。
 サラリと揺れる金髪に、見る者を惹きつける美しい翠眼。今は珍しく不機嫌そうに眉間に皺を寄せているその顔は、個々が主張する派手なパーツも美しく収まる端正な造りで。それに加えて、眩い宝石の散る絢爛な衣装を難なく着こなす均整の取れた体格。そんな、ただでさえその出で立ちだけで人間離れした人の畏怖を煽る存在だというのに、そんな出で立ちよりもなによりも、その風格こそが男の非凡さを物語っていた。
 しかしそれは、ある意味当然のことで。

「これは陛下、ご機嫌麗しく」

 なぜならこの男は、この国の最高権力者、ヴェール王なのだから。
 のそりと気怠く上半身を起こしながら、微塵も敬意を表さずに壱希は形式だけの言葉を紡ぐ。対するヴェールは眉間の皺をそのままに、壱希の横たわるベッドへと近づいてきた。
 元々の体の弱さも手伝って、追っ手を振り払い逃げることなどできなかった。しかしこのまま大人しく捕まって慰み者にされる未来に震えるなど、耐えられない。であるならば、このままここで舌を噛み切った方がマシだ――そう、半ばすべてを諦めた。そうして自決を図ろうとした壱希をあの場から助けたのが、この男だった。

(……助かったと、思ったのが間違いだった)

 欲に濡れた人間の前から拾い上げられたあの一瞬だけは、救われたのだと思ってしまった。しかし結局は同じだったのだ。ただこの男はあからさまではなかっただけで、珍しいものは自分だけの手にと望むのは皆同じ。ただの金持ちどもと違ってギラギラとして見えなかったのは、そもそも手に入れられないものなどない人種だったからで。誰の手に収まろうが、やることは、やらされることは、結局同じ。
 だから、逃げ出した。
 別に逃げ切れるなど思っていない。ただ、地球にいた頃から心臓の弱かった体が、向こうの最先端医療があえばこそ何不自由なく暮らしていたが、しかし医療の発達していないこちらに来て無理を重ねるにつれて緩やかに悪化してきているのには気づいていたから。だから今逃げ出せば、負荷を掛ければ、きっとあっという間だと。それも計算した上での脱走だった。
 そうして脱走を図ったのが数時間前。いや、あのあといったいどのくらい気を失っていたのかわからないから、数日経っているかもしれないけれど。

(結局、無様にも生きてるわけだが)

 きっとこれからこの男に、お仕置きと称して凌辱されるのだろう。いつも通り、散々に弄ばれる。
 捕まった当初になにをしようとしていたのか気づかれ、この王宮に連れてこられた時点で舌を噛むことは魔法で禁じられている。加えて、今までは王宮内であればある程度自由を許されてきたが、恐らくこれからは逃げ出すことは愚か、この部屋から出ることさえ許されなくなるかもしれなかった。そうなれば、どうあっても解放されることはない。どうあっても、この男から逃げ出すことはできなくなってしまう。ああそれとも、この衰弱しきった状態ならばこのまま抱き潰されれば、あるいは――そんな、愚かな考えが頭を過ったときだった。

「……っ」

 ふわりと体を覆ったのは、温かく逞しい熱に、包み込まれる感覚で。予想外すぎる展開に咄嗟に反応できず、目を見開いて固まった。動けずにいる壱希の背中に、ヴェールの大きな手がそっと添えられる。

「っ、なに……っ」
「少しだけだ、我慢していろ」
「っぁ、ぐ、う……」
「いいこだ」

 その掌から発せられたなにかに、壱希の肩が大きく揺れた。


(中略)


 村にいた頃はとにかく生きるのに必死だったし、言葉や文化を覚えるたびに、少しずつ自分がこの世界に馴染んでいけている気がしていた。質素で穏やかな生活の中で、少しずつでも直実に前に進んでいけていることに、馴染んでいけていることに、酷く感謝する毎日だった。それがとても充実していたし、とても幸せなことだった。
 だから気づいていなかったけれど、あのまま暮らしていたら、壱希はそのうち死んでいたのだ。前に進めていると感じていたのも、馴染めていると思っていたのも、そんなもの、表面だけのことで。

 ――根本である、この世界に拒絶されている。

 なんにだって対応できる実力も、必要以上の努力も惜しまない自負もあった。だからこそ、そのことに気づいた時、あまりの衝撃に愕然とするしかなかった。努力さえ受け付けないこの世界に、壱希はどうすることもできなくて。
 この男の隣にお前は相応しくないのだと――そう、世界から言われている気がした。

「また訓練に参加しようとしたんだろう? お前も懲りないな」
「魔力がないと無理だって追い返されたけどな」
「それこそいつものことだろう……なるほど。だからこんな物を盗んで逃走、と?」
「え、あっ! おいそれ返せ……!」

 どれだけ愛していると囁かれようと、どれだけ大切にされようと、この世界に受け入れてもらえている実感は沸かなかった。
 幸せも、愛も、確かに感じる。だけどそれだけではどうにもならないものも、確かにあって。
 それでもどうしてもそのことを信じたくない壱希は、どれだけ無駄だと思われようと、どれだけ滑稽だと笑われようと、こうして努力することで必死に誤魔化すしかないのだ。ここにいてもいいのだと、この世界に受け入れてもらえる可能性はあるのだと、どうしてもそう、信じたいから。
 いつの間にかポケットから取り上げられていたものをひらりと翳され、ぱっと手を伸ばす。しかしあっさりとかわされて、そのまま魔法でふわふわと手の届かないところまで飛ばされてしまって。
 ぽっかりと宙に浮かぶ宝石。たったそれだけのことなのに、魔法を使われると。それを当てつけのように感じてしまう自分が嫌だった。

「なにか当たって痛いと思ったら……なるほど、魔力増幅の魔石か」
「魔力チートなあんたには必要ない石ころだろ、返せよ」
「初めて見るが、綺麗な宝石だな……しかしこれは、元の魔力を増やすものだと聞いたことがある。魔力値がゼロだと意味がないんじゃないか?」
「……やってみなきゃわかんねえだろ」

 せっかくわざわざ二つ盗って逃げて、敢えて捕まって一つを衛兵に返すという小賢しい真似までしたというのに。あっさりと没収されてしまった宝石は、こちらの気も知らずに日に透けてきらりと美しく輝いている。
 噂を聞いたときから気にしないようにしていたことを指摘されて、ぐっと歯を食い縛る。恨みがましくギリギリと睨んでいると、しかし予想に反してふわりと滑るようにこちらにやってきたそれ。思わず、触れてもいいのかとヴェールを見上げた。

「お前が本当に望むのなら、構わない。ただ……これ以上お前が傷つくのを、私は見たくないんだ」
「……傷ついてなんかない」
「本当か?」
「可能性が万に一つでもあるんなら、試す前から諦めたくないんだ」

 そう言って、宙に浮かぶ宝石へとぐっと手を伸ばす。
 自分だってここにいてもいいという証がほしかった。ほんの僅かな可能性だっていい。せめて縋れる希望が欲しかった。
 石に、手が触れる――小さく息を飲んだ瞬間、壱希の手がそれに届く前に、大きな手がそれを掴んだ。

「……誇り高いお前はとてもいとおしいが」
「っ!」
「弱いお前も、私は受け止めたいよ」
「うっ、あああ!」

 そっと掌に落された魔石。
 ヴェールの強すぎる魔力に反応して淡く発光していたそれは、壱希の掌に乗った途端、あっという間に血のように赤黒く変色して。なにかを体内から強引に吸い込まれるような感覚に、堪えるように咄嗟に身を屈めた。ないものを探してなにかが身体の内側を荒らしているような、根こそぎなにかを奪い取ってぐちゃぐちゃにされるようなそれに眩暈がして、歯を食い縛る。

「ぐ、あああ……っ」

 放したいのに手から離れない。まるで獲物を放そうとしない捕食者のようなそれ。その感覚に耐え兼ねて、どうにかして逃れようと手を振り上げた瞬間、ふっと一瞬で消えた感覚。ガクリと脱力し荒い呼吸を繰り返していると、すっと目の前に差し出されたそれは、さっきまでの色が嘘のように、再び美しく輝いていて。

「魔石とはその名の通り、魔力を持った宝石だ。種類によって、回復を促進させるものや、剣や盾となるもの、そしてこの石のように魔力を増幅してくれるものもある」
「……っは、あ……」
「だがこいつらは、それらを与える代わりに対価を求める。魔力を欲しがるのだ。ほんの少しだけ、我々が生まれながらにして持っているものでも事足りるだけだが……」
「……っ」

 出そうとした声の代わりに嗚咽が零れそうになって、ぎゅっと歯を食い縛る。それ以上は聞きたくなかった。わかっている。わかっているのだ。それでも、諦めることなどできなくて。
 魔石を握っている手がそっと壱希の胸に触れた。そうしてそこからいつものようにポウ、と淡い光が身体の中に沁みわたってきて。体内の食い荒らされたなにかが、生命力が補われ、修復されていくのがわかる。目を瞑り、溢れ出しそうになる涙を、激情を止めようと、浅く息を繰り返す。

 この世界ではすべてが対価を求めるのだと知ったのは、持病の治癒が終わってすぐだった。
 食べ物や水や薬草、そして空気さえも、それを摂取する際に本当に微々たる量だが確かに魔力を奪ってゆく。筋肉を動かす時に体力を消費するのと同じくらいの、普通に暮らしていれば気にもならない程度の僅かな魔力を。
 普通であれば気にせず暮らせる対価であるそれ。しかし魔力が底をつき、その代わりである生命力へと対価が移った途端、森羅万象が牙を剥く。
 確かに村にいた頃、やけに体力が落ちたなと思っていたのだ。少し歩くだけで息は切れ、いくら眠ってもなかなか体力は回復しない。ただそれは、持病が悪化したせいだと思っていた。あまりにも大きな環境の変化や、持病にこちらの治癒だけでは対応できていないせいなのだと。
 まさか、そもそもの生命力を奪われていただなんて、いったい誰が思おうか。

「自然は優しい。あれでもそこまでお前に負担は掛けないだろう。だが魔石は我らが得ようとするものが大きいように、自然よりも遥かに大きな対価を欲する……生命力に換算すれば、根こそぎ奪っていくほどに」
「くっ……ぅ……」
「我々からしてみれば甘美な力をもたらす美しい宝石だが、お前にとっては……」



(後略)


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