花蜜に溺れる | ナノ

壱:踏み外した境界線は、溶けて消えてしまった

 その日は仕事終わり、いつものバーいつものメンバーで楽しく飲んでいた。九十九さんは楽しみにしているアニメが始まると早々に帰り、八神さんと海藤さんは何やら勝負をしにカジノへ行ってしまった。残った私と杉浦くんでカウンターに並び、私の飼ってる猫がお転婆すぎて昨日キャットタワーを破壊した話だとか、先日受けたおじいさんの散歩の付き添いの依頼が気付いたらゲートボールして井戸端会議に参加していたとか、そんななんとも他愛ない話をしていた。

「……ねぇ、月華ちゃん」

 このお店のマスターが作るマンハッタンが大好きで、更に大事にとっておいたチェリーをいざ口に含んだ瞬間だった。ふいに杉浦くんはどこか思い詰めたような低い声音で切り出した。何か悩み事だろうかと杉浦くんの方を向いて、じっと私を見つめるその瞳の美しさに思わず見入ってしまった。美形の流し目、その色気の破壊力といったら。

「なんでも屋ってことはさ……夜の相手もしてくれるの?」
「っんぐ、」

 その綺麗な形の唇から発せられたそれに、息を呑むのと同時に口に含んだチェリーをゴクリと種ごと飲み込んで、しまった。どうしよう。いや、もう飲んでしまったものはどうしようもない。喉に詰まらなくてよかった。

「びっ、くりして種飲んじゃったじゃん!」
「あははごめんごめん」

 マスターおかわり頂戴、と私の空になったグラスを差し出してくれた杉浦くんは本当にスマートだなぁと感心してしまった。彼の骨ばった大きな手の形から長い指の先まで綺麗で、神様は大変罪な仕事をなさったともうすでにふわふわとした頭でぼんやり考えていた。美人がいると酒が美味いっていうおじさま方の気持ちが少し分かる気がする。

「それで?」
「ん?」
「してくれるの?」
「んー……」

 確かに、私の屋号は”なんでも屋”である。便利屋で情報屋で極道のおじさまの御用聞きで、探偵のお手伝いで、色んな仕事やお店のシフトの穴埋めで。だからといって聞ける依頼にも限度がある。でもなぜ何でも屋を名乗るかといえば、うちの方針としてきた仕事は極力断らないをモットーにしており、その幅広い面白い依頼をこなして日々楽しく生きてるからだ。夜は夜でも、助っ人として働いたことがあるのはガールズバーとキャバクラとカジノぐらいだ。

「私はそっちの仕事経験ないからなぁ……あ、女の子の紹介はできるよ?」

 なんと言ってもここは神室町である。ツテだけはめちゃくちゃたくさんある。なんなら海藤さんにもうちがバックについてる子紹介してあげたら双方大変喜んでくれた。但し夜と言っても幅が広いので、希望のサービスと価格帯と女の子の好みと色々あるけれども。とりあえず候補でもあげてみようかとポケットから携帯を取り出したら、ぐい、と杉浦くんの手に押し戻されてしまった。

「それでも月華ちゃんがいい、って言ったら?」

 あれ、もしかしてこれって、と今になってはたと気付いてしまった。ずっとたられば話をされてると思って聞いていたのだけれど、本気の依頼をされているということだろうか。杉浦くんが、私に?いや、そんなまさか。真剣な面差しの美しい彼を改めて見てしまい、その造形のあまりの素晴らしさに、ぐらりと世界が傾いた気がした。

「私、ど素人だし、技術もないし、相手してもつまらないと思うよ?」
「月華ちゃんは一切何もしなくていいよ」

 いやきっと気のせいだろう。私がどんな依頼をどこまで受けられるかを尋ねられているだけだ。何をめでたい妄想しているのか。仕事だ仕事。これは仕事の話だ。ちょうど届いたおかわりのグラスを、誤魔化すようにぐいっと傾けた。さすがマスター。一切のブレなく変わらず美味しい。今度こそチェリーの種を出しながら、果肉の甘さを存分に味わって満足して、ふとひとつの疑問が浮かんできた。

「あれ、でもそれなら私、報酬をもらう必要ある?」

 夜の相手ということは、性的サービスの要求なのにそのサービスしなくていい、というのはどういうことだろう。首を傾げたら杉浦くんが目を見開いてぽかんとした表情をしていた。何か変なことを言っただろうか。気持ちよくほろ酔いだと思ってたけど、酔いが回って思考ができていないのか。

「……それ、本気で言ってる?」
「えっどういうこと?」
「まさか他の男にもそういうこと言ってないよね?」
「えええ言ってない言ってない!」

 だから素人だと言ってるでしょうと慌ててぶんぶんと首を横に振った。そもそも仕事で性的サービスの話をする事自体はじめてだ。そりゃこんな街なのでよくセクハラまがいの言動をされることはあるけれども。事務所で依頼を受け誰がやるか決めるのはうちの組員の仕事なので、私はそこで振り分けられた仕事をこなすだけだ。

「月華ちゃん酔ってる?」
「そんなことないよ?」

 ふわふわきもちのいい気分にはなっているけれど、意識ははっきりしている。呂律もちゃんと回ってる。どうやら何やら話が噛み合っていない気がする。マスターに助け舟をお願いしようかと思ったが、ちょうど反対側のカウンターのお客さんと何やら談笑していて楽しそうだ。逆に聞かれてなくてよかったのか。

「杉浦さん、一旦整理してもよろしい?」
「うん、どうぞ」
「仕事っていうのは、依頼と報酬、ギブアンドテイクだよね」
「そうだね」
「私が何もしないって、ギブするものがないのにテイクもらっちゃったらダメじゃない?」
「行動は取ってなくても、身体をギブしてるでしょ」
「ああそっか。なるほど」
「はぁ……」

 呆れたようにため息をついて自分のグラスをくるりと回し、中の氷をカランと鳴らして遊んでいる。その姿でさえ様になっているのはどうしたものか。

「うーん……でもそれでお金を貰っちゃうのはなぁ」

 夜の仕事に偏見があるわけではないし、知り合いの夜の仕事の子達もこんな私に仲良くしてくれている素敵な女性たちばっかりだ。そういうきちんとしたプロの人がいるのだからこそ、私みたいなのは失礼にあたらないだろうか。それは今まで受けてきた仕事とはなんだか違う気がする。現に彼女達を私は紹介できる立場である。

「じゃあさ、月華ちゃん。こうしようか」
「うん?」
「今金欠で自分どころか猫のご飯代が心配って言ってたでしょ。今度一緒にご飯食べに行って、それに使う時間と身体を僕にギブしてよ。それで猫のご飯とかキャットタワー買いに行って、テイクにするのはどう?それならちゃんとギブアンドテイクでしょ」
「ほう」

 金欠は八神さんと海藤さんがカジノに行くというので、一緒に行くのに気乗りせず適当に断る理由にしただけなのだが、キャットタワーが新しくなるのは安全面的にも衛生面的にも嬉しい。元々仕事仲間相手に正式な仕事以外でお金のやり取りするのは気がひけるが、そういう報酬の受け取り方ならいいのかもしれない。実際今日のお酒も八神探偵事務所を手伝った報酬だし。

「あれでもそれで杉浦くん的にはギブとテイク釣り合ってる?」
「猫用のベッドと玩具も追加する?」
「え、いいの!?」
「決まりだね。予定いつ空いてる?」

 実はこっそり買おうか悩んでいたかわいい猫用ベッドがあって、存在を思い出して反応してしまった。いや逆じゃないかと思ったがささっと携帯を取り出してスケジュールを確認する杉浦くんに、慌てて私もスケジュール管理アプリを起動した。ちょうど来週お互いに一日空いてる日があって、念の為前日の仕事が押すことを考慮して昼から会おうということになった。

「もうだいぶ遅いし、そろそろ帰ろっか」
「うん、……あっ!」

 八神さん達がいなくなってからも結構飲んでしまったので、置いて行ってくれたお金で足りるだろうかとカバンから財布を出そうとしたら、すでに立ち上がっていた杉浦くんにするりとカバンごと奪い取られてしまった。さすが元窃盗団。プロだ。と関心している場合でない。スタスタ歩いて行ってしまう彼に慌てて付いていき手を伸ばしたのに、その手も振り向きざまにしっかりと握って遮り、杉浦くんはにっこりと笑った。

「少しぐらい、かっこつけさせてよ」

 いえ、あなたの場合かっこつけなくてももう、元々、十二分にかっこいいです。あれよあれよと私の右手を左手で封じたまま、カードで決済を済ませてお店の外まで連れ出されてしまった。鮮やかだ。敵わない。

「杉浦くん、たった今話してたでしょ私のギブはどこいったのギブ」
「これがもうギブじゃない?」

 掴まれたままの手をぶんぶん振ってアピールしてみたが、ちょいっとその手を持ち上げられてそれだけでふらついてしまった。元々の力と体格の差がありすぎるというのもあるけど、思ったよりアルコールが足にきているかもしれない。

「手握るだけでいいなんて」
「一緒に飲んだのもギブでしょ。足りない?」
「全然足りない」
「んー……」

 手握るなんて赤ん坊にでもできる。赤ん坊は大酒飲みではないし私はきちんと働いている成人女だ。しかも今日一緒に飲んだのは私の仕事の報酬であってそれではギブではなくてテイクしかもらってないことにならないだろうか。あれ私にとってのギブでテイクで、八神さんからであって、杉浦くんにとっては?どういうことになるのだろうか。あれ、逆?ギブがテイクでテイクがギブ?そもそものギブアンドテイクってどっちがどっちになるんだっけ?合ってる?よく分からなくなってきたとぐるぐると思考を巡らせていたら、いつの間にか杉浦くんのその完璧すぎる美貌がゆっくりと目の前に迫ってきていて、

「……!!」

キス、された。あの、杉浦くんに。あの、きれいな形のくちびるが、私に。どくんと、心臓が大きく跳ねあがる。甘くて苦いアルコールの香りがした。

「っ、ん……っ!」

 くらり、と強いめまいがしてぎゅっと目を閉じて堪えた。無意識に下がろうとした後頭部を塞がれて、更にやわらかな感触が深くなる。ぞくりとしたものが体の中心を駆け抜けていった。私の震えを感じたのか、握られていた手が解放される代わりに腰を引き寄せられた。体が密着して、全身の痺れがひどくなる。行き場のない手で彼の服をなんとか掴んだ。力が入らない。身体中のざわざわがどんどん強くなって、なのに逃がさないとばかりに呼吸ごと食べられていて、胸が苦しい。

「っはぁ、……あっ……!」
「マンハッタンって、甘いね」

 小さな水音を立ててやっと解放されたと思ったら、酸素を求めて開いた下唇をゆっくりと舌でなぞられて、今度こそ体が大きく跳ね上がってしまった。腰を支えてもらってなければ、膝が崩折れて立っていられなかったと思う。

「これで足りた?」
「……えぇ、うん、……足りすぎ」
「僕の方がもらいすぎちゃったかな」

 いや、逆にやっぱり私があげるんじゃなくてもらってばかりなのでは……と言おうとしてやっぱり分からなくなった。どっちだ。いや、もう、いい。とにかく、とりあえず、考えるのはやめよう。そうしよう。どくどくとずっと鼓動ががうるさくて、なかなかおさまってくれない。

「ごちそうさまです」
「こちらこそ、ごちそうさまでした」

 奢ってくれたお礼をきちんと言わなければと口を開けば、杉浦くんは余裕綽々で、顔色ひとつ変えずに笑顔で答えた。対して私といえば全然呼吸も整わなくて、顔どころか耳や首やというかもう全身があつくて、その差がなんだか悔しかった。萎えた足を奮い立たせて、ぐいっと彼の体を押し返した。

「大丈夫?一人で歩ける?」
「歩けますー!」

 まだくらくらする。酔いが回ったのは完全に杉浦くんのせいだ。なんでそんなに手慣れているのか。いや寄ってくる女性は絶えないだろうけど。憎めないのがまたムカつく。イケメン狡い。彼の肩にひっかかったままのバッグを奪い返して、夜風を浴びようとツカツカと早足で駅に向かった。

「……嫌だった?」

 そっと呟くような声が後ろからして来て、振り返った彼は優しい笑顔のままだった。こういうところもまた、狡い。押したり引いたりが上手い。

「……だったら今頃全力であらゆる技かけて骨何本か折ってたよ」
「怖っ」

 私が子供の時から組長である父から何個、護身術や無事逃げられるためとして格闘技やら何やら習い事をしていたことやら。黒帯取るまで、なんなら組の若い者くらいは負かせられるまで施された地獄の特訓の日々を思い出してげんなりした。いまだに週何回かトレーニングもさせられている。大いに仕事の役に立ってるので感謝はしているけど。

「それじゃあ、来週、楽しみにしてるね」
「うん。送ってくれてありがとう」

 あっという間についた駅で杉浦くんと別れて、駅のホームに降り立ってからやっと、私は崩れ落ちて、その場で両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。強烈すぎて余韻が引かない。とにかく今すぐ帰って寝たい。すぐにやって来た電車に己を奮い立たせながら立ち上がり乗り込んで、ようやく帰路についた。






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