彦星は来ない

--------------
 覚醒の時が来た。自然、瞼が持ち上がり、意識せずとも習慣化した験担ぎをこの身が坦々と行っていく。未読メールを知らせるランプの点滅を視界の片隅に捉えながらのそれら一連の動作が常の1.5倍速で行われていることに、緑間は無自覚だ。
 二つ折りの携帯電話を手に取り、起き抜けには辛い光に目玉を貫かれることを厭わず、眩い画面を至近距離まで引き寄せる。動かす黒目の速さもまた1.5倍だ。
 『0:00 赤司征十郎』から始まり、受信ボックスに太文字の名前が連なっている。桃井さつき、黄瀬涼太、時間をあけて黒子テツヤ、紫原敦、青峰大輝。そして意外なことに部活の先輩の名前が三つ。仕事をする機会の少ない緑間の携帯電話からすれば、未だかつてない量の未読メールだった。

 しかし。

「……ない」

 誰かの声がした。それは、ほとんど吐息と変わらない呆然としたもの。自分の声だった。
 ない。ない。ない。ぐるぐると巡るその二文字が緑間の脳内を占めていく。ない。ない。……ない? 倍速の動きがぱたりと停止する。

 自分は一体誰の名前を期待していたのだろう。


 ■

「おっはよ〜真ちゃん」

 玄関扉の開閉音を耳敏く聞き取り、慣れた手つきで弄くっていた携帯電話をしまい込みながら、高尾が自転車のサドルから首だけで振り返り笑う。

「……ああ」

 緑間は小さく顎を引いて、かすれ声で返事した。玄関の前でこちらを待ち構えていた訳でもなく、格別なにかを企んだ風でもなく、高尾はそこにいた。さりげなく首を伸ばして覗き見たリアカーは、平生と変わらず空だ。

「おっ。それ、もしかして今日の……」
「ラッキーアイテムなのだよ」
「短冊! へえ。『おはあさ』も行事に乗っかったりするんだな〜」

 何がそこまで可笑しいのか、げらげらと腹を抱えて笑う高尾の声に、緑間は眉を潜める。じとりとしたこちらの視線を難なく受け止め、うっすらと涙の膜さえ張った深淵のような瞳が、いつものように弧を描く。

「なあ、それ、何てお願い事書いてんの?」

 からかうような目の色だ。緑間は眼鏡のブリッジを押し上げるふりして、見透かすようなその視線を避ける。

「何も書いてないのだよ」
「えー」

 疑う声色に気を悪くしながらも、ここで変に隠せば食い下がってくるのだろう。緑間はくすみの一つもない、うつくしい山吹色の和紙を突きつけてやる。

「ほんとだ……」
「ふん、こんなところで嘘をついてどうする」
「ちぇっ、つまんねーの」

 態とらしく唇を嘯かせる高尾の手から、破けないように、しかし素早く短冊を引き抜いた。風を切る腕の音は奪い取るようなそれだった。想像していたよりも不機嫌な仕種になってしまったことにはっとするものの、伏し目がちに窺った相手の顔は平静だ。高尾は気にも留めていないようだった。

「っしゃ。ジャンケンだ、緑間」

 照り付ける太陽にくっきりと映し出された影を踏みしめ、高尾が大仰に構えを取る。今日も暑くなりそうだ。



 常のように勝利を譲らなかった緑間を乗せ、高尾がのろのろペダルを漕ぐ。

「オレ、一回でいーから真ちゃんにジャンケンで勝てるようにお願いしよっかなー……」

 滲み出た汗でシャツを貼り付かせ薄く肌色を透かした背中が、ぶつくさと文句を垂れる。高尾はもし、万が一、億が一緑間に勝利していたならば、どうやらこの炎天下の中、今日の緑間に自転車を漕がせる気だったらしい。
 今日の緑間に。


 ■

 放課後、本日二度目のジャンケンである。グーの手を引き込めながら「今日は歩くぞ」と宣言すれば、チョキの手を携えたまま、高尾は目縁を丸め、しかし快くこちらの提案を呑んだ。

「珍しいな。何なに? オレと離れがたいの? これで家に着いたら今夜は帰りたくなーいって言うとか、そーゆー感じ? 真ちゃんってば大胆〜!」
「なっ……馬鹿なことを言うな!」
「うおっ、そんな怒んなよ〜。分かってるって。これ、重たいから遠慮してくれたんだろ」

 これ、のところで高尾が目線で示した方へ、緑間は改めて目をやる。高尾の腕が押す自転車に牽かれて転がるリアカーの角に引っ掛かり、ふたたまの西瓜がゆらゆら身体を揺すっている。
 帰り際、部室を出た途端待ち構えていた三人のOBから手渡された贈り物だ。なんでも木村先輩の家で大坪先輩と宮地先輩がお金を出しあって買ってくれたらしい。ちなみにこの暑い中持ってきたのはオレだからな、と木村先輩は苦笑いしながら自分の功績を述べていた。

「良いな〜。木村さん家のスイカだぜ? 絶対美味ぇよ」
「……そうだな」

 先輩方から緑間への突然の贈り物の訳を、高尾は尋ねない。
 緑間は言い知れぬ蟠りを胸に、歯切れ悪く返事する。手持ちぶさたに顔を伏せ、テーピングされた親指の先で短冊を撫でた。

「あ、そうだ。そう言えば今日、七夕だったな」

 それを見留めたのか、ぱっとトーンの上がった高尾の声に、知らず、緑間の背筋が伸びる。

「天の川見ながらのんびり歩いて帰るとか、なんか風流じゃね?」

 至極軽い口調で風流と言ってみせるところが高尾だった。並び歩く高尾は伸び上がるようにして顎を突き上げ、生ぬるい空気をほんの少しかき混ぜるだけの風にあわく髪をたなびかせている。

「ありゃ〜……ちょっと曇ってんね」

 薄明るい空を見上げる高尾につられ、緑間もまた空を仰いだ。夏の夜長だ。橙と紫と藍をない交ぜにした絶妙な襲(かさね)の色が、夜の帳となっている。

「でも、あれだよな。あの、星の集まってるところ。天の川」
「ああ」

 斑に散らばる叢雲の隙間、緑と青の中間色に黒色を伸ばしたような、突き抜ける宇宙の色。そこに散らばる無数の星々は、都会の明かりに負けてない。

「ところで、織姫と彦星ってどれ?」
「お前……」

 にゃははと誤魔化すように笑うこの男が趣を解するには、そもそもの時点で不可能だったようだ。

「だってうちの学校、地学の授業なんてねーだろ?」
「一般常識なのだよ」
「え〜、真ちゃんが星座占いに凝ってるからだろ」

 ため息を一つ。無意味な言い争いを打ち切る。
 立てた人差し指を勿体ぶって、のろく空に昇らせる。

「織姫と彦星と言う呼び名がそもそも違う。正しくは織女星と牽牛星だ」
「うん」

 こちらの視界を覗き込むようにして身を寄せてきた高尾の肩が、半袖から伸びる剥き出しの二の腕に触れた。
 緑間は動けない。下手に避ければ不審に思われてしまうような気がして、相手の薄いワイシャツ越しの体温を感じながら、自然と身体が強張るのを意識した。あつい、馬鹿者――この言葉は口に出しても良いものなのか悪いものなのか。分からないから緑間はごくりと喉の奥に絡んだ生暖かい唾と一緒にそれを飲み込んだ。

「織女星はこと座のα星、ベガ」

 平静を装って指先を滑らし、夜空をなぞって星座を唱える。

「ベガ」
「ああ。そして天の川を挟んであるのが、わし座のα星――」

 緑間ははっと息を呑む。暫し宙を泳いだ指先は、やがて力なく体側に落ちた。それを黙って見守っていた高尾だが、いつまでたっても動き出さないこちらをじきに訝しみ、戸惑った様子で小首を傾げる。

「えと、真ちゃん……?」
「……ないのだよ」

 そのとき、風に流れる雲がちょうど月にかかった。一つ明度の落ちた世界に佇む高尾を、緑間は静かに首を回して見下ろす。

「え?」
「雲に隠れている」
「マジか……」

 均一でない雲の厚いところで覆われてしまえば、どんなに煌めく川であってもひとたまりもなかった。横断する灰色に塞き止められた川の彼岸で、ベガはぽつんと途方に暮れたようにそこにある。

「曇ってたら二人は会えないんだっけ」
「そうだな」
「じゃあ、また一年間離ればなれかよ。織姫さま泣いちゃうんじゃねーの?」

 眉を潜めて空を見上げた高尾の黒目の中で、心細げに織姫が瞬くのが見えた。

「えーっと、確か彦星が船で天の川を渡って織姫に会いに行くんだよな。……けど確かに、これじゃあ前も見えないで、渡りきれないまま川の上をさ迷ってそうだな」
「……彦星は、本当に船に乗っているのか?」
「え?」

 高尾がこちらを振り向くのが分かった。しかし、緑間は皮肉な笑みに唇を歪めてベガを見やったまま、その視線に気づかないふりをした。

「何故、必ず来るなどと思い込んでしまったのだろうな」

 暗い川岸に立って、織姫は待つ。だが、いつまで経っても彦星の姿は見えない。そうしてはたと疑問を抱くのだ。果たして彦星は本当に自分に会いに来るのだろうか。平生会うことの叶わない彦星の様子や気持ちなど、織姫が知る由もない。今、雲の向こうで誰と何をしているかも知れないのだ。



 大きく手を振り、高尾が去っていく。チャリアカーと共に残された緑間は、伸びていた背筋から力が抜けるのを感じた。
 仰ぐ夜空に依然、彦星は見えない。


 ■


 どうして一番初めにメールが来るものだと決めつけていたのだろうか。
 どうしていつも以上にとびきりの笑顔を向けてくれると信じて疑っていなかったのだろう。
 どうして言葉をくれると当たり前のように思い込み、それが外れた今、自分勝手な憤りや哀しみや諦念に胸を重たくしているのか。

――もしかしたら奴は、知らないのかもしれない。
――もしかしたら奴は、忘れているのかもしれない。

 腹に渦巻く薄暗い感情に堪えきれず、無意識の内に悪あがきに救いを希求するも、

――奴が知らない訳がない。
――先輩方の行動を見て、思い出さない訳がない。

 いやに冷静な自分の脳みその一部が、無情にもそれらを打ち砕いていく。

 何故、高尾は今日という日に触れてこなかったのだろう。
 意識的な回避の意図は、つまり――――奴がそれを望んでいなかったからではないのか?



 深呼吸を一つ。鍵穴を回し、玄関の扉を引き開ける。

「――ただいま」
「あら、おかえり〜」

 間延びした母の声が出迎える。父の姿は見えない。既に食卓へとついているのだろう。ちょうど出来上がったところだと言う料理の匂いが、部屋の奥から漂ってくる。きっと今夜はご馳走だ。

「先輩方から西瓜をもらったのだよ」

 抱えたふたたまを目線で示せば、母はあらあらまあまあと頬を綻ばせた。

「良かったわねぇ、真ちゃん」
「ああ」

 まなじりを下げて唇を緩める。感情はいくらでも圧し殺せても、表情を作るのは苦手だ。
 どうかこの顔を崩すものが、情けない微笑みでなければ良い。


 ■

 23時53分。常ならばとっくに寝入っている時間だった。
 緑間は胃薬を口に流し込み、苦しく膨れた腹を撫で擦る。母は料理上手だ。しかし、如何せん張り切りすぎると口の数に見合わぬ量を用意してしまうきらいがある。毎年作りすぎないようにと言い聞かせてはいるものの、あまり効果は見られない。好意を無下にはできず、緑間は今年もまた胃袋の重さに眠りを妨げられていた。
 就寝時刻が遅くなれば、明日起きるのが辛くなる。万が一にも寝坊などしてしまえば、毎朝の人事に手を抜けない緑間にとって、文字通り死活問題だ。着々と頂上に上りつめていく時計の針に、緑間は憂いを覚える。
 習慣通りに眠気はあるのだ。眼鏡を折り畳んで机の上に置き、しょぼつく目を労るようにして目頭を揉む。

「……?」

 焦点の合わないぼやけた世界の中でぴかりぴかりと点滅する光を見つけた。訝しんで手を伸ばす。指先に触れた感触は携帯電話だ。光の点滅は依然として続いている。どうやらメールではなく電話らしい。
 時刻は深夜。非常識にも程がある。一言文句だけ言って切ってしまおうと決意し、受話ボタンを押しながら携帯電話を耳元に押し当てた。

『良かった! まだ寝てなかったんだな』

 こちらが声を発するよりも早く、聞こえてきたのは高尾の声。不意を衝かれた緑間は言葉を失った。

『いや〜よく考えたら真ちゃん、かなり早くに寝ちまうだろ? 出なかったらどうしようかと思って焦ったよ』
「……何の用だ」

 眼鏡を手早くつけ直し、壁に掛けられた時計を見やる。23時55分。7月7日はまだ、終わっていない。

『いや〜実は、真ちゃんに言い忘れてたことがあってさ』

 息をつめて、耳を澄ませた。携帯電話を無意識に握り直す。

『――今日の分の古典のノート、明日、見せてくんねぇ?』

 極度の緊張に硬直していた背中から、意図せず力が抜けた。それからたっぷり五秒間、聞かれた言葉を反芻する。

「……は?」
『いや〜5時間目ってやっぱ昼休みの後だし、眠くなんだろ? だからついつい夢の世界に旅立っちまったっつーかー…』

 噛み砕いた意味はどっしりと緑間の頭の上にのしかかってきた。緑間は思わずうなだれる。

「…………馬鹿者」

 肩を落としてため息をついた。時計の針は止まらない。刻々と近づいてくるタイムリミットに、いい加減諦めもつく。

『ありがとう、真ちゃん』

 しかも、どうしてだか蔑みの言葉は肯定として受け止められてしまうのだから、参った。朗らかな笑い声はどうにも憎めず、緑間は悔し紛れに舌打ちを鳴らす。

「……用はそれだけか。切るぞ」
『いや、待って』
「今度は何なのだよ……」
『あのさ真ちゃん、外』
「外?」

 カーテンの引かれた窓に億劫ながらも視線を投げた。立ち上がって深い藍色の布地を捲り、空を仰ぎ見る。明かりのない部屋の窓越しに外を眺めるのは容易かった。さざめくように輝く道の外れ、織女星は一人きりで拗ねたように光っている。

「ああ、牽牛星のことか? どうやらまだ来ていないようだな。全く、あの甲斐性なしめ」
『じゃなくて』

 高尾の潜めた笑い声が耳朶を擽った。

『下』
「下……?」

 反らせていた顎を引き下げ、足元を見る。自分の素足がフローリングを踏んでいた。何の変哲もない。
 訳が分からないまま首を戻しかけて――窓の外、下方に佇む影に気がついた。ひらりと動いた何かが揺らされた腕の動きだと気づいたときには既に、緑間は急いで窓を開け放っていた。

「高尾……!?」
「『やっほー、真ちゃん』」

 近所の迷惑を考えてか、張り上げられることなく告げられた気の抜ける挨拶は、遠くから幽けく、耳元からさやかに聞こえた。
 そこに立つ高尾は片脇の下に何かを抱え、闇夜に溶ける漆黒の髪を存外強い風にそよがせている。

『なあ、携帯置いて。構えて』
「は?」

 何故高尾がここにいるのかだとか、これは自分も下に降りた方が良いのかだとか、混乱と動揺とで右往左往に視線をさ迷わせていれば、高尾は更なる謎の言葉を寄越してくる。
 この調子では緑間が高尾の言う通りのアクションを起こすにはまだまだ時間がかかることを、高尾は悟ったのだろう。早急に事を起こさんとするかの如く、高尾は小脇に抱えていたもの――すなわちバスケットボールを両の手のひらに挟み込み、素早くトリプルスレットの姿勢となる。

「!」

 その眼光の鋭さは試合のとき、幾度となく緑間が貫かれてきたものと同じだった。それを見た瞬間、緑間は脊髄反射の如く、かろうじてベッドのある方向を意識しながら携帯電話を放り出し、シュートモーションに入った。

 見なくても分かる。高尾は口端をにやりとつり上げ、緑間の手元に照準を絞った。

「撃て、緑間!」

 常と変わらない、力強い軌道。鳥肌が立つ程に精密なパスが、緑間の手のひらに吸い込まれる。
 きりきりと引き締めていた全身のばねを、跳ね上げる。空を突き抜けたボールが風を切る。最高点の高さにまで登りつめたそれは、ちょうど目映い満月に重なった。

「あ……」

 そうして間もなく下り始めたボールの後ろに、一際輝くアルタイルを見る。


「――真ちゃん、誕生日おめでとう!」


 本当は一番に言いたかったのだけど、それじでは芸がないと、そうしてきっと誰かと被ってしまうと考え、一番最後に言うことにしたのだという高尾の言葉を緑間は呆然と聞いた。一瞬瞳を背後の部屋の中に流して見えた、壁の秒針は0をちょうどを通過する。

「まずはこれ、これからもぜってー最高のパスを送るっていう誓いな!」

 独特の音を立ててコンクリートの上を大きくバウンドしたバスケットボールを危なげなく受け止めた高尾が、それを両手で捧げるようにして高く掲げて見せた。

 急な運動の所為だろうか。顔が火照った。心臓の鼓動が煩い。程よく冷えた夜風が部屋の中に強く吹き込み、熱を持った身体をいたずらに擽る。

「……ふん、そんなことは誓わずとも当たり前なのだよ」

 緑間はすんと鼻を啜る。何が楽しいのか、大きく口唇を引き伸ばして笑う高尾の間の抜けた顔が、月光に潤むようにして浮かび上がっている。

 空ではきっと睦まじいめおとの星が、いっとう輝いている。

――「ヒーローは遅れてやってくる、なーんてな!」




[ 1/1 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



「#甘甘」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -