煉獄杏寿朗と政略結婚 | ナノ
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 煉獄さんは忙しい。それはもう、師が大慌てする月なんかよりもきっと。朝は大抵日が昇ったら起床、鍛錬で汗を流し朝食を食べ――ちなみに朝食はとてもよく召し上がる。もりもりと――、雑談も半ばに出発してしまう。特徴的な裾の切り方をしている羽織を羽織って、まるで鳥が飛び立つように軽やかに、獅子が走り出すように勇ましく。太陽の光をたっぷり吸い込んだやわらかな髪が風に揺れるのを眺めながら、彼が今日も無事でありますようにと空に祈った。
 煉獄さんの帰りはまちまちだった。長期の任務に出かけることもあれば、その日中に帰ってくることもよくあった。帰りが遅い日――といってもだいたいが夜半過ぎの帰宅なのでわたしは先に眠ってしまっていた。そうっと布団のそばにしゃがみ込んだ煉獄さんの気配に目を覚ますと、彼は暗がりのなか少しだけ驚いたように笑みを浮かべた。
「起こしてしまったか」
「……ん、いいえ。……おかえりなさい、煉獄さん」
「ああ、ただいま」
 なんて事のないやりとりに、まどろみながら漠然と、ああ、しあわせだなあと思った。彼もそういうふうに思ってくれていたら、いいのに。夢に落ちる直前、そんなことを考えた。
 そうして、朝が来る。だんだんと身についてきた早起きとともに伸びをして、布団から起き上がった。朝食の準備に取り掛かろう。この屋敷にはいわゆる使用人の方がいるので、わたし自らやることはそう多くはなかった。それでも、仮だろうが偽物だろうが、夫となられたひとの食事くらいは手ずから作るのが道理というものだろう。わたしにできることなんて、そのくらいしかなかった。
「おはようございます」
「おはよう!」
 ぶん、ぶん。視界の隅を竹刀が勢いよく駆け下りていく。風を切る音というものは存外耳心地がよく、鍛錬をする煉獄さんはとてもかっこよかった。額に滲む汗も、真剣そのものの眼差しも、たぶんずっと見つめていても飽きないだろうと確信してしまうほどに。
「朝食のご用意をして参りますね」
「おおそうだ! なまえ」
「は、はい!」
 まさか呼び止められるとはおもわず、急停止した間抜けな姿勢のまま彼の方へ向き直った。からからとした笑顔を浮かべた煉獄さんが、背後の太陽にも負けぬ溌剌な声で「今日は非番だ! 街へ行こう!」と言った。
 
 
 街へ行く道を歩きながら、わたしは、このひとに非番と呼ばれる日があったことに驚いていた。非番の存在は当たり前といえば当たり前なのだが、どうにも毎日せわしなく働いているこのひとにそんなものがあったとは、と矢っ張り驚かずにはいられなかった。
「非番なんてあったんだ、って顔だな」
「え!? あ、す、すみません……」
「いや、良い。まあ俺は柱≠セからなあ。他のものよりかは少ないが、それでもこうしてなにもない休みはある。長い間ひとりにして悪かった」
「いえいえいえ、そんな。……でも、よろしかったんですか?」
 そんな忙しいひとの非番を、わたしなんかと街にいくといういわばくだらない予定に費やしてしまうのは、とても気がひける。もっと自分の羽を伸ばせるようなことや、街に行くにしてもひとりのほうがゆっくりできたのではないだろうか。もやもやとした黒いものが胸中を埋めていった。繋がれるわけでもない手がふたりのあいだを埋めるように揺れている。
「それはどういう?」
「あの、煉獄さんおひとりのほうがゆっくりできたのでは、と……」
「俺がなまえと出掛けたいんだが……なまえは迷惑だったか?」
「いいえ! とってもうれしいです」
 そんな、迷惑だなんて思うわけがなかった。こうして隣を、なにも考えずにただのんびりと歩けるだけでわたしは幸せなのに。そこまではさすがに言えず、口を閉じる。もう一度、しっかりと彼の目を見て「うれしいです」と言った。煉獄さんが「俺もきみと出掛けられて嬉しい」笑ってわたしの頭を撫で付けた。結った髪を崩さないよう、そうっと触れる手のひらに日照り以外の要因で顔が熱くなっていく。赤くなった顔を隠すために慌てて俯くと、頭上の重みがなくなった。かんたんに離れてしまった手に一抹のさびしさを覚え、かぶりを振った。
 初めて降り立った街はそこそこ賑わっていた。炎柱邸からほど近い街のようで、歩いてもそんなに時間はかからなかった。どこかで安売りをやっているのか、道行くひとは違わず大荷物だ。すれ違うたびひとの肩に押し戻されそうになるのをやっとこさ踏ん張って耐えていると、ふいに右手がおおきな温もりに包まれた。
「逸れるといけない」
「す、すみません……!」
 温もりの正体は煉獄さんの手のひらだった。今度こそ迷惑をかけてしまったと、先を行く広い背中を見ながら思った。婚約をしてからというもの、いいところを見せられていない。そもそもわたしにいいところなんてないに等しいのかもしれないけれど。それでも、とちいさく息を吐いた。
「あ」
「む、どうした」
「煉獄さん! さつまいも! やすいです!」
 ちらと視界の端を横切ったさつまいもの値段に、飛び上がってしまいそうなほどうれしくなった。お安いさつまいもを手に入れ、今日の夕飯はさつまいも祭りにしようと、もうすっかり出来上がってしまった構想にわたしはひとりでに笑う。繋がれた手を少しばかり引っ張るようにして、人の流れを横切って進んだ。なにをいうわけでもなく後をついてきてくれる煉獄さんに、心臓あたりがくすぐったくなる。
「みっつください!」
「はいよ!」
 風呂敷に包んださつまいも三本はそれなりに重たかった。腕に抱いて煉獄さんの方を振り返る。だいぶ安く買えましたね、と嬉々として報告した先の彼は目を丸めて驚いたような表情を浮かべていた。
「煉獄さん?」
「……すまない、これでは俺ばかりが喜んでしまうな」
「え?」
「行こう。君の欲しいものが知りたい」
 再び手を握りなおされ、優しい顔つきで微笑まれる。くんと手を引かれて、ぽかぽかした気持ちのまま彼の広い背中を眺めていた。
 煉獄さん、煉獄さん。わたしもすごくうれしいんです。いっぱいいっぱいよろこんでます。はしたないけれど、いまこうしている間にも飛び上がってしまいそうなほど、嬉しいんです。
 だからどうというわけではなかった。ただ、目についた呉服屋を横切ろうとしたときなんとなく、そういえば羽織もってないなあ、と思っただけだった。時間にしてわずか数秒もない。足を止めた気もなかった。それなのに、どういうわけか彼は気がついて目があった途端ほんとうに嬉しそうに笑った。
「呉服屋か!」
「あ、あの……!」
「入ろう! 遠慮はいらないぞ」
 遠慮をしているわけではなかった。そもそも店構えからして立派なそこに入ったところで、なにか買えるだけの所持金があるわけでもない。買えないものを見て欲しいという気持ちが募ってしまうほど、さびしいものはなかった。
「だ、大丈夫です……!」
「見ないのか?」
「み、見たところで買えませんし……その、」
 一般的にはきっと、女性のものをみたところで彼は何ら楽しくはないのだろう。だから、と言い募ろうとしたわたしのくちびるをやさしく翳された手が制した。
「俺が買う」
「え!?」
「さあいこう!」
 あの、だとか。でも、だとか。まるで聞く耳を持たない煉獄さんに、わたしの言葉は喉の奥でつまずいたままだった。
 店構え通りの内装だった。所狭しと並べられている反物はそのどれもが上等なものだと、一目見ただけでわかってしまう。手に取るのにも気後れをしたわたしを尻目に煉獄さんはあちこち見て回っては、わたしに向けて手を招いた。近寄ると「この布はどうだろうか」と至極楽しそうに自らが見繕った布を見せてくる。可愛らしい色のものから、大人っぽい柄のもの、珍しいものまで一通り眺めたあとで目についたのは、み空色の反物だった。無意識のうちに手を伸ばし、広げてみる。あざやかな色に散りばめられた紅葉の葉が印象的なそれは、どこか秋の空を思わせると同時に隣にいるひとが思い浮かんだ。
「それが気に入ったか?」
「……はい、とってもきれい」
「ならばそれにしよう!」
「は、」
「店主! この反物を彼女に合うように羽織にしてくれないか」
 よく通る声で言われた言葉に、わたしはきょとりと目を丸めた。このひとといると、驚きに事欠かないなどと考えている場合ではない。手の中のそれは所々金糸が織り込まれており、どこから見てもお高いものそれでしかなかった。慌てて大丈夫だといい寄ろうとしたのに、うれしそうでたのしそうな彼の横顔を見たらなにもいえなくなってしまった。
「お嬢さん、こちらへ」
「は、はいぃ……」
 こんな上等な反物で羽織なんて、きっと一生ないわ。生涯大切にしなくては。汚したらどうしよう。採寸されながら、そんなことを考えていた。
 採寸を終えて戻ると、煉獄さんは店主の奥さんと話していた。
「おまたせしました、煉獄さん」
 そばに駆け寄って頭を下げると、台の向こうにいた彼女が首を傾げた。顔を上げ、彼女を見やると、その視線はどこか値踏みをされているようで落ち着かない。しかし、それはすぐに跡形もなく消え去った。
「……さん?」
「ああ、すまない。まだ新婚でして」
 訝しむ奥さんに、煉獄さんが快活に笑った。そばにあったわたしの左手をやさしく掴むと、そのままほんのすこし引き寄せた。わずかに寄ったからだに、空気越しの温もりが伝わって喉を鳴らす。急に何を。そういうつもりで顔を上げた。
「こちらは妻≠ナす」
 にこやかに、かろやかに。煉獄さんが言った。奥さんも朗らかな顔をしながら「あらあら新婚さん。初々しいわねえ」と笑う。わたしばかりが置いてけぼりで、真っ赤に沸騰した顔を右左に向けていた。
微温火の逆襲