煉獄杏寿朗と政略結婚 | ナノ
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 ――人生の転機というものは、なんの前触れもなく突然やってくるものだった。
 その人がわたしの住む、およそ彼女に似つかわしくないぼろ家を訪れたのは春も半ばのよく晴れた日だった。淡い空色を背景に、艶やかな髪が揺れる。ほのかの香る花の香りに胸が苦しくなった。長い睫毛に大きな瞳、ちいさなくちびるに通った鼻筋。どこからどう見てもうつくしい∴ネ外のなにものでもなく、思わず息をのむ。
 こんな場所に何か用だろうか。自分で言うのもなんだが、この家は人なんか住めたものじゃない外観だし、中だって相応にぼろっちい。ひとなんか招いたことだって今の今までなかったのだ。だから、そんなこの世の美しさを一身に背負ったようなひとが、こんな場所に用があるなんて霞ほども思っていなかった。汲んできた水が歩くたび桶の縁で跳ね返り、手を濡らす。じ、とわたしの家を見つめるそのひとの横を俯きながら通った。
「すみません」
 凛とした声は、そのひとによく似合っていた。想像通りというか、想像よりもずっと綺麗というか。ともかく極上の音には違いなかった。
「は、はい」
 呼ばれるとは思ってもみなかったわたしは、その声を肩に受けぴんと姿勢をただした。恐る恐る振り返り、真正面からそのひとをみつめる。やっぱり、きれいなひとだった。でも、そのうつくしさを表現するにはわたしの持つ言葉ではあまりにも貧弱すぎると思った。
「産屋敷耀哉の名代で参りました。産屋敷あまねと申します」
「うぶやしき、あまね様」
「当主……産屋敷耀哉様はご存知でしょうか」
 黒々としたつややかな瞳は、吸い込まれそうに大きい。その口から発せられた名前には聞き覚えがないと首を振ろうとしたとき、記憶の奥底をかすめた懐かしい声は父のものだった。
「うぶやしき……って、あの、きさつたい? の」
 わたしが六つのときに死んだ父の職業はきさつたい≠セったそうな。あまり覚えてはいない上に、わたしはきさつたい≠ェどのような漢字を書くのかも知らなかった。ただ、母からは「お父様は日ノ本を守ってくださっているの」とだけは再三聞かされていた。
「はい。なまえさん」
「は、はい!」
 大げさなくらい大きな声が出て、同時に伸ばした姿勢で桶の水がまた跳ねる。
「鬼殺隊士とご婚約なさる気はありますでしょうか」
「は、はいぃ?」
 ごく真面目な顔をしてあまね様は言った。なにを言っているのだと顔を見返してみても、彼女はわたしの返事を待っているようでそれ以上はなにも言わなかった。
「え、っと、婚約って」
「果ては夫婦に、という関係になる気はございますか?」
「な、なぜ……?」
 至極もっともなわたしの返答にあまねさんは丁寧に答えてくれた。
 事の顛末は実に簡単なことだった。
 そのいち、働いている隊士のうちのひとりが無理な縁談話をしつこく持ちかけられているので断るための理由がほしい。
 そのに、わたしへの見返りは衣食住の完全補償 以上。
 なんて単純なのだろう。それはそれとしても、こうもいきなり来られて、顔も知らないひとと結婚をしろだなんて、わたしはもちろん、むこうのひとだって困ることだろう。とはいえ、あまね様の出した条件の衣食住の完全補償はあまりにも魅力的だった。当然その日暮らしていくのがやっとなわたしは、住む場所だって山奥だし、お金なんてないも同然だった。日々食べるものには困るし、正直着るものにすら困っている。そんななか舞い降りた美味しすぎる話に、よだれを垂らして飛びつくなと言う方が無理な話なのだ。それでも、結婚というふた文字がわたしの本能を食い止めた。
「もちろん、すぐにとは言いません。一度、互いに顔を合わせていただいて構いません」
「あ、会えるんですか?」
「もちろん」
 頭が沸騰しそうだった。あまりにも高度な話をしているのにあまね様の表情はひくりとも変わらず、ただ風のように凛とそこにあった。
 
 
 次の日、迎えにきたという黒ずくめのひと――名前を隠というらしい――に背負われて、わたしはえんばしらてい≠ニいう場所に連れていかれた。地面に降ろされ、目隠しを取られた先にあったのはずいぶんと立派で大きなお屋敷で、見上げるだけで首が痛くなりそうだった。こんな、おおきなお屋敷に住んでいるんだ。そう考えたらあまりにも場違いな気がして、足がすくんだ。逃げ出したい。とっさにそう思って、でも逃げ道なんかはわからないし、隠のひとももういない。進む以外の道は残されていなかった。
 仮の旦那様と相見えることになったわたしは、屋敷に足を踏み入れた途端控えていたひとにかっさらわれるようにして部屋に連れ込まれた。あれよあれよという間に髪を整えられ、着物を着せられ、軽く化粧まで施された。再度鏡に映った自分があまりにもふだんと違いすぎて、これはこれでいいのだろうか、と疑問に思った。
「炎柱様がお待ちです」
「は、は、はい」
 えんばしら、ってなんだろうか。そんな疑問を口に出せるはずも時間もなく、案内される背中をぼうっと見つめた。歩き始めてよっつめの部屋の前で前を歩いていたひとが足を止めた。
「お連れいたしました」
「ああ、入ってくれ」
 溌剌とした声のあと、ややあって襖が開けられる。いぐさのにおいが鼻をつく。畳の上に折り目正しく正座したひとを見たとたん、わたしは、ほんとうに息が止まってしまうかと思った。
「……!」
「どうぞ……?」
 歩くのも忘れてしまうほどの衝撃。ようやく浅く呼吸を取り戻し、のろのろと彼の向かい側まで歩いて行った。机を挟んで座り込むと、おひさまの心地よいかおりがあたりに漂っていることに気がついた。あのときと、同じだった。
「きみ、は」
「は、はじめまして。お初にお目にかかります、なまえと申します」
「そうか! 俺は煉獄杏寿朗だ!」
 れんごく、きょうじゅろう。頭の中でなぞった名前はなつかしさと、さびしさに巻かれていく。はじめまして、では本当はないのだけれど、きっとかれは覚えていないだろうから、そんなことをいうまでもないだろう。
「え、っと、」
 なにを言おうか。なにから言うべきか。考えあぐねて正座した膝頭ばかりを見つめていたわたしに、煉獄様は溌剌とした調子で言った。
「此度の縁談話を受けてくださらないだろうか!」
「え、っと、あの、は、はい」
 だいじょうぶ、です。と、あまりにも自信なさげで消え入りそうな声で言う。わたしの返事は意外だったのか、彼はおおきな目をさらに丸めて――このときわたしは彼の目玉がきょろっと落ちてしまわないか不安になった――わたしを見つめた。
「いいのか……?」
「は、はい。……お恥ずかしい話ですが、身内はおりません。家柄も決して良くありません。ここに来るまでは隙間風の激しいぼろ家で生活しておりました。……そんなのでよければ、その、どうぞお役に立ててくだされば幸いです」
 深々と頭を下げて、彼の動きを待った。やがて顔を上げるように言われ、その通りにお辞儀をといた。
 ぱちり。目が合う。
「俺は」
 ひどくやさしい声だった。
「――俺は始まりがどうであれ、きみのことをまっとうに愛することを誓おう」
 煉獄様はそういうと、底のない優しさをたたえた笑みを浮かべた。
灯火の淵