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19と婚約

「ちょっと出てくる」

 そう言って赤木さんがいなくなって、もう三週間程になるだろうか。最初はタバコが切れたのだろうかと思ったけれど待てど暮らせど帰って来ない彼に違うんだと理解した。それなら面倒ごとに巻き込まれているのだろうと考えたけれどこれもきっと違う。どんな輩に絡まれたって赤木さんは強いから、きっとすぐに帰ってくる。それなら、なんだろう。
 今まで「ちょっと出てくる」といって帰って来なかった最長記録は一週間だったから、こんなに長く赤木さんと離れるのは経験がない。寂しくないと言ったら嘘になるけれど、心に積もる寂寥よりも心配の方が色が濃い。怪我をしていないだろうか。体調を崩してはいないだろうか。元気だろうか。わたしのことを。

「覚えて、るかな」

 いつもは二人で寝ている布団に一人きり。大きめの掛け布団を口元までかぶせて、ひっそりと呟いた言葉は思いの外大きくて心臓が跳ねる。覚えてるかな、忘れちゃったかな。わたしのこと、嫌いになっちゃったのかな。なにか、しちゃったのかな。答えの出ない問いがぐるぐると頭を埋め尽くして、パンクしてしまいそうだ。鉛筆で乱雑に線を引いた様な頭の中が頭痛を引き起こす。普段は赤木さんが寝ている方へ寝返りを打っても香るのはわたしの匂い。いやだな、さびしい。

「あいたい、なぁ」

 寝ぼけ声で囁いて、わたしは考えるのをやめる様にうっそり目を閉じた。


 もしかしたら、朝起きたらいつもの様に赤木さんが隣に寝ているかもしれない。もしかしたら、布団の横でタバコをふかしているかもしれない。そうして、寝ぼけ眼を擦るわたしにいつものように「おはよう」と言って笑うんだ。

「…………そんなわけ、ないよね」

 夢現で描いた幻想は目を開けた瞬間に崩れ落ちていく。虹彩を焼く朝日が痛くて目を細めた。どんなに目を凝らしても、耳を澄ましても赤木さんのカケラを探すことができない。そうして、彼を求めてなんど帰っていない事実に絶望したのだろうか。その度こうしてため息をつくのは、今日で何度目だろうか。会いたいと口に出して呟けば呟くほど、会いたい気持ちと寂寥は積もって行ってわたしを潰そうと目論みる。逃げたくとも、逃げられないその重しから目をそらすようにして勢いよく布団から飛び出した。
 今日はとびきり甘やかしてしまおう。よく三週間も堪えたね。きっと、もうすぐ帰ってくるよ。ほうら、今にもしれっと玄関ドアを開けて「ただいま」なんて言ってきそう。そう言ってきても今わたしが作っているお砂糖たっぷりフレンチトーストは一口だって分けてあげないんだから。

「……赤木さん、フレンチトーストなんて食べないし」

 むくむくと膨らんでいた気持ちが爪楊枝で刺されてぷしゅうと音を立てて萎んでいく。お砂糖を入れて、厚く切った食パンを浸す。徐々に薄く黄色くなっていく食パンに萎んだはずのわくわくが蘇ってきた。

「そうだよ、赤木さんが食べないから、赤木さんがいないときに、食べるんだよ」

 ぐ、とガッツポーズを換気扇に向かって掲げる。早く帰って来ない赤木さんが悪いんだ。もっとずっと早く帰ってきてくれたら。そうしたら、わたしも。

「好きなもの、作って待ってたのに」

 今日帰ってくるかもしれない、今日かもしれないと思い続けて彼の好物を作って待っていた日。その度彼が美味しいと言ってくれた料理を寂しく一人で口に運んで、食べきれずに捨ててしまう、そんな日が少なくはなかった。二週間目も半ばに差し掛かった頃、赤木さんが美味しいと言ってくれた料理も尽きてしまって、わたしはさらに泣きたくなった。まるで帰ってくるのを待つなと言われているように思えてしまったのだ。
 思い出してじんわり滲む涙にかぶりを振ってみないふりをした。いまは、目の前のフレンチトーストに集中してしまおう。そうしたら、今日は外に出て買い物に行こう。映画を見るのもいいかもしれない。駅前で、みたい映画のポスターを見たのも記憶に新しい。それから、あとは。必死に楽しいことを次から次へと思い浮かべる頭が酷く虚しくて、やっぱり涙が数粒溢れる。甘いはずのフレンチトーストは少しだけしょっぱかった。



 見たかった映画はあまり面白くなかった。前評判で聞いていたアクションも、恋愛も単調なもので何も響かない。こんなんなら部屋で寝ていればよかったとさえ思ってしまうほど。至高のラブストーリーと謳っていた割に最終的には浮気の末破局。女性側が捨てられてなんだかいまのわたしみたい。ああいやだ。まるで悲劇のヒロインじゃない。上映終了早々、エンドロールもそこそこに暗闇から抜け出した。
 映画の後は何をしようと思っていたんだっけ。往来で立ちど待てふと考える。映画を見て、それから。感想を言い合える人は居らず、見当違いだった映画の感想は全て自分の中で噛み砕いた。

「え〜? アカギさんて、面白い人ねぇ」

 その名前を聞いた途端、心臓が跳ねて体温が上がった。全身の血の巡りが良くなって、頬が上気する。赤木さんて、あの。ああ、どうしよう。帰っていただなんて。ようやく、彼と会うことができるなんて。そのどきどきとした思いを抱えながら声の方へと振り向いた。

「そうでもないと思うけど」
「そんなことないですよぉ、かっこいいし、素敵だわ」

 ――そうだったのか。そういう理由で。
 白髪の濃紺のシャツを身につけた、よく知った人。だいすきなひと。ずっと、だいすきでいたかったひと。上がった体温が一気に下がっていき、あまりの寒さに膝が震えた。泣き崩れたくなる足を必死で鼓舞して、はやくこの場から去ろうとする。一歩、また一歩と後ずさるとそれに比例して視界を歪める雫に嫌気が指す。泣き虫、と喧騒の中で誰かが呟いた気がした。そんなんだから、捨てられるのよ。泣き虫、意気地なし、面倒臭い女。わかってる。そんなこと。誰に言われるまでもないの、そんなこと世界で一番わたし自身が痛いくらい理解している。それでも、それでも。

「ずっと、そばにいたかったの」

 涙声が気づけばそうつぶやいていて、その声はわたしと彼を分断したトラックの音に掻き消された。大きな荷台が通り過ぎ去ったとき、そこにいたはずの彼らは忽然と姿を消していた。わたしと彼をいとも簡単に分断したトラックは何食わぬ顔で小さくなって、視界の端で右に曲がる。わたしも彼に背を向けて行く当てもなく走り出した。


 どれくらいそうしていたのだろうか。帰るのもなんだか違うような気がして、ただ当てもなく街を歩く。赤木さんから逃げた時には明るかった空はすっかり暗く、いまは太陽の代わりに半月が顔を出している。真っ黒い絵の具をぶちまけたような空の色に重たいため息が漏れた。

「……どこ、行こうかなあ」

 背の高い街灯に蛾が当たってばちんと音を立てる。足元に転がった蛾の感電死体に心臓が揺れた。ああ、わたしもこうやって簡単に死んでしまえたら。途端、喉の奥からせり上がってくる内容物に慌ててうずくまった。けほ、と何度か咳き込んでそれでも出てきてくれない物に数度えずいた。喉を焼く胃液が気持ち悪い。口に嫌に酸っぱいものが広がって、側溝に吐き出した。何か悪いものでも食べてしまったのだろうか。思い当たるものは何もなく、ああストレスなのかと一人納得した。

「――っ、ふふ」

 堪えきれずに思わず吹き出してしまう。こんなに弱かったなんて。彼と一緒にいた期間なんて、3年そこらで。わたしはいま18歳で。赤木さんと一緒にいなかった期間は15年。3週間なんて、瞬きをしたら通り過ぎて言ってしまうような短い期間。それなのに、耐えられないなんて笑えてしまう。呆れてしまう。たった3週間離れただけでこんなに彼の温もりが、声が、匂いが恋しいだなんて。こんなに、いつのまにか落ちていたなんて。恋はするものじゃなく、落ちるもの。恋は一人でするもので、愛は二人で育むもの。つまりわたしがこうしているのは、恋をしている証拠で。愛の証拠ではない。それもなかなかに面白い。好き合っていると思っていたのは自分だけ。こんなに好きなのも、愛しいのも、苦しいのもわたしだけ。全部、全部。

「…………ばかだなあ」

 口元を拭って、空を見た。変わらず浮かんでいる半月がわたしを笑っているようでひどく居心地が悪かった。

 帰ったわたしを迎えたのはもちろん赤木さんではなく、電気をつけずに出て行ったせいで真っ暗になった居間だった。一人きりの部屋にこうやって帰るのは何度目だろうか。シンとした室内が余計にわたしは一人なのだと思い知らせてくる。もういやだと頭を振っても追いかけてくる孤独はいつまでも足元に停滞していた。

「あかぎさんのばーか、あほ、かえってきてよ、ばか、ばーか、すき、だいすき」

 だいすきでした。あいしてました。きっとわたしの人生で一番あなたのことを。女は強いの。いつか映画の中で見たセリフを小さく呟いて、目についた赤木さんのものを回収して行く。置いて行った中身が一本残ったタバコの箱、黒い靴下、マフラー、お箸。赤木さんの痕跡全てを消してしまおう。あなたを忘れてしまおう。そうしたらきっとまた最初から何もかも元通りのはずだから。あなたを忘れたわたしはきっとわたしじゃなくなってしまっているだろうけど、もう知らない。手に持っている半透明のビニール袋に乱雑に投げていく中、ふと目についたもの。

「……つかれちゃったもん」

 最後に手に取った濃紺のシャツ。大きいそれはまだ仄かに彼の香りがした。掠れ気味で呟いた言葉が雫となって、濃紺をさらに濃く染め上げる。こんなに、こんなに好きなんだ。まだ。自分では忘れてしまおう、やめてしまおうと良い子ぶって言い聞かせていてもわたしはやっぱり正直で。顔に当てたシャツが呻き声を吸い込んで、拡散する。わんわんとスピーカーのように喚く声が耳をふさいで気持ちが悪い。右手からビニール袋が滑り落ちて、大きな音を立てた。
 好きじゃなくなるって、方法はどうするんだろう。好きな気持ちを失くすにはどうしたらいいんだろう。時間を巻き戻すには、彼と会っても平気でいるには、わたしが好きじゃなくなるには、一体どれだけの時間を要するのだろう。好きと言う気持ちが一本道だったとしたら、元いた場所へ戻れば良いのだろうか。今いた場所がどこかもわからないのに、一体どこがスタートでどこまで行けばゴールなのかわからないのに、それなのに元いた場所なんてどこにあるのだろうか。もしかしたら、今いるここがゴールなんじゃないのか、初めからスタートなんてしてなかったのかもしれない。
 ぐるぐると渦巻く思考の海に意識を投げる。喉元までせり上がってくる焦燥感と不安感。それらを吐き出すように息を大きく吐きだした途端足元がぐにゃりと歪んで、受け身も取れないまま四畳半の部屋に崩れ落ちた。


 夢の中の彼はひどく優しかった。それこそ気持ち悪いくらいわたしに尽くしてくれていた。夢の中のわたしもそれを享受していて、仲睦まじく笑いあっていて。ああ、幸せそう。そんな風に思って俯いた次の瞬間、足元が音を立てて崩れて行く。バランスを崩し、そのまま落ちた先でみたのはいつかの女性と赤木さんのキスシーン。心臓が握りつぶされているようだった。レモンを絞るように、両手でぎゅうぎゅうと締め付けられる心臓が絶え間なく全身に血液を送っている。首の薄い皮が、動脈の鼓動を教えてくれていた。目を逸らそうにも逸らせないほど彼らは綺麗で、たまらなく遠かった。

「ぃや、だ」

 どんなに手を伸ばしても、赤木さんはわたしから遠ざかって行く。磁石の同極同士がくっつけないように、弾かれるように彼はわたしから逃げて行く。追いかければ追いかけるほど、見えなくなって行く背中が怖かった。今手を掴まなければ一生会えないような、そんな気がして気がついたらわたしはこれでもかというくらい手を伸ばしていた。

「――っは、」

 猛烈な閉塞感。まるで喉に異物でも詰まったみたいに息ができなかった。目一杯開いた目から涙がこぼれ落ちる。視界いっぱいに映り込んだ茶色い天井とわたしの伸ばしかけの手。震えるそれが次第に降りていじめを覆った。手の甲に滲む涙と口からあふれた嗚咽。夢から覚めたわたしは、もう一生彼に会えないのだと、そう思った。
 ひとしきり嘆いて、涙を拭う。スッキリとした頭に入って来たのはわたしの布団で。

「っ、あかぎさん!?」

 わたしはあのまま床に倒れこんだはずなのだ。布団なんかに寝ているはずがない。だとすれば今わたしがこうして寝ているのは誰かが運んだということで。そしてこの家の鍵を持っているのはわたしと赤木さんだけで。慌てて布団から飛び出たせいでふらつく足元を無視して玄関を覗く。もし帰って来ているのなら、靴があるはず。淡い期待を抱いて覗き込んだ三和土にあったのはわたしのお気に入りの赤い靴だけだった。

「……かえって、きてるわけ、ないよね」

 先ほどまでの勢いが嘘のように脱力してしまいそのまま上がり框にへたり込む。肺の中のすべてを追い出すみたいに大きく息を吐いた途端、乾いたはずの涙が叩きに落ちて色を変えた。ぼたぼたとシミを作っていく様を他人事のように見つめていた。こうやって、泣くことになんの意味があるのだろう。意味なんかないのはわかっているのに、なんで涙は枯れないんだろう。水分を追い出してしまえば涙は枯れるのだろうか。それでも枯れなかったら、何をすればいいのだろうか。わからない。どうしてこんなにも好きになってしまったんだろう。こんなに恋が辛いのならしなきゃよかったとさえ思ってしまう。綺麗な思いが、醜いものに変わっていく。所詮は無償の愛なんて存在しなくて、心の中ではいつでも見返りを求めていた。無償のように見せかけて、愛を押し付けて、見返りを求めて、勝手に落ち込んで。なんて自分本位なのだろう。それでもそうするのが、わたしにとっての恋だった。
 どのくらいそうしていただろうか。泣きすぎて鉛のように重くなった頭が痛かった。晴れた瞼の奥にある目に映ったのは真っ白でふわふわな足。

「……ねこ……?」

 我が家の三和土で優雅に前足を舐める真っ白な猫と目があった。一体どこから入ったのだろうか。つい、と後ろを向けば開け放しの窓があった。

「おまえも、ひとりなの?」

 まっしろでふわふわな塊はわたしの声に呼応するように小さく鳴いた。首輪もなく、野良だろうか。こんなに綺麗なのに、誰のものでもない。心の奥が温まる美しさに息を呑む。そろりと手を伸ばすと、猫は気持ちよさそうにわたしの手にすり寄ってきた。あたたかい、そう呟いてゆるく手のひらを動かす。まっしろな子は、催促をするみたいに何度も鳴いてみせた。

「しげる、」

 まっしろな毛、透き通った黒い瞳、凛とした雰囲気。その全てが似ていた。わたしを置いて行ってしまった人に。涙声でそう呼ぶと腕の中から小さい鳴き声が放たれる。

「しげる、しげる」

 丸まった背中に顔を埋める。温もりが、心地いい。何度もなんども同じなを呟いて、小さな身体を抱きしめた。赤木さん、しげるさん、あかぎさん。

「だいすき、」

 終わらせることなんて、出来っこないんだ。きっとこの恋を終わらせることができる人は、世界にたった一人だけだ。

「にゃお」

 全てを見透かしたように、しげるが鳴いた。赤木さんしか、終わらせることのできない恋。赤木さんに会えない限り、永遠に終わらない想い。その事実に、嘔吐してしまいそうなほど歓喜した。だって、だって。

「わたしはまだ、思っていていいんだ。想うことを、ゆるされたんだ」

 ざらついた舌が頬の雫を舐めとる。

「は、はは、いいんだ、いいんだ、まだ、まだ好きでいていい、すきでいれる」

 苦しかった。何かに吐き出さないとぺしゃんこに潰れて消えてしまいそうだった。吐きそうだ。わたしを蝕む寂寥は吐き気を連れてやってきた。それは波が寄せるように、着実にせめて立てていく。寄せては返す波。吐いてはダメだ。吐いてしまったらきっとわたしは死んでしまう。重荷に耐え切れず、なけなしの矜持が跡形もなく崩れ去ってしまう。それだけは、どうしてもだめなんだ。
 いつだったか、赤木さんに言われた言葉が鮮明な音声になって頭の中を駆け抜けた。

「俺は好きだよ、あんたのそういうとこ」

 どんな文脈だったかも思い出せない。わたしのどこが好きなんだろう。それすらわからないのに、なんであなたの声はこんなにも優しく再生されるのだろう。何もかもがわからない。腕の中で震えたしげるがわたしを見つめる。

「しげる、おまえは、どうしてわたしの家にきたの」

 一人にしてくれればよかったのに。鼻筋を撫でながらそう呟けば、訳がわからないと言った風のしげるが大きく「にゃお」と鳴く。開け放しの窓から入ってきた生暖かい風が、春の始まりを終わりを告げていた。


 昨日はあのまま玄関で寝てしまったらしく、起きたら全身が痛かった。相変わらず赤木さんのいない部屋に絶望して、室内にとどまっている寂寥に嘆息する。気分転換をしようにも朝から何も手につかない。まるで自分を見失ってしまったかのように、やりたいことなんてまるでなかった。読書も、何もかも。食事も喉を通らなくて、気だるい倦怠感が全身を包んでいた。

「……あいたい」

 口に出してしまえば簡単なもので、重いものだった。一度溢れてしまった言葉を取り返す術はない。それなのに、なんで言ってしまったんだろう。会いたいなんて、そんな今更なことを口に出して何になるのだろう。

「……っ、あい、たい」

 たった一つの言葉をうわごとのように呟く。彼がいないだけで世界はこんなにも殺風景で色をなくしてしまうんだ。寄りかかった壁がなみだを吸収する。ひゅ、と喉がなって閉じることを忘れた口からだらだらと嗚咽が漏れた。死んでしまいそうなほど胸が痛くて、それでも死ねないわたしを誰かが笑う。いっそ死ねればいいのに、あなたはそれすら許してくれない。想うことを許されて、想い続けることを強制されたのに想い人を失ってわたしにどうやって生きていけと言うのだろうか。重力に逆らうことなく、透明な雫が滑り落ちていく。このまま泣いて、泣いて、涙と一緒に溶けきってしまえればいいのに。

「……ただいま、名前」
「――っ、」

 ふと耳に舞い込んできた音が熱をあげる。鼻腔をついた嗅ぎ慣れた香りに全身が歓喜した。声のした方に顔を向ければそこには何食わぬ顔をしている赤木さんが立っている。力の入らない足でなんとか立ち上がって、壁伝いに進んでいけばようやくわたしの酷い顔が見えたのだろうか。彼はふと口元を歪めて目尻にキュ、としわをよせた。

「ほ、ほんもの」

 震える声でそう問えば赤木さんは呆れたように笑った。本物だ。いまここに、目の前に、彼がいることをわたしは目で、耳で、肌で実感している。

「遅くなった」
「お、おそ、いってレベルじゃないですよぉ……っ」

 ぐらりと傾いた体を赤木さんの腕が抱きとめる。久しぶりに感じた彼の温もりにまた涙が目をせっついた。背中に回る彼の腕が、わたしを抱きしめる。待ち望んだ赤木さんの温もりに、つま先から震えが駆け上ってきた。

「泣いてばっかだな」

 幼子をあやすようにわたしの頭を何度もなで付ける手が愛おしい。その手が緩やかに頬に置かれる。自分よりも体温の低い手が火照った肌には心地よくて瞼を下ろす。
 いきなり押し黙ったわたしを見て、怒っていると思ったのだろうか。彼にしては珍しくしょんぼりとした様子でわたしを見つめた。

「おこってませんけど、」
「けど?」
「心配したし、寂しかったし、とっくに帰ってきてたはずなのに」

 いつか見た光景が、鮮明に網膜に焼き付いて離れない。いまでも風の音、周りの声まで綺麗に再生することのできる風景。

「いっしょに、おんなのひとと」

 いたじゃないですか。掠れた声でそう呟けば目の裏に焼き付いた光景が歪んで行く。腕の中で再びしゃくりをあげ始めたわたしを呆れ気味に宥めてから、赤木さんが笑った。

「これ」

 抱きしめる手を緩めることなく、もう片方の手自分のポケットを探るような仕草をする赤木さん。動くたび彼の胸がひたいに当たって、耳たぶを優しく撫でる鼓動が心地いい。

「あ、あった」
「え」

 はい、そんな声とともに目の前に差し出されたのは小さな箱。
 ――ああ、みたことある。映画なんかで、綺麗な夜景の見える場所で渡されるもの。それには必ずこんな言葉が付き物で。

「なにがいいかわからなかったけど、ほら……1ヶ月前で一緒に住んで3年目だったから」

 珍しく余裕なげに視線を彷徨わせる赤木さんを見るなり胸の奥からじんわりと暖かい愛しさがこみ上げてくる。背中をあたため、頬を緩ませるそれはとても心地の良いもので。

「これ、一緒に見てもらってただけだから。名前が思うようなことはない」
「あ、かぎさん」

 ああ、まったくもう。もう泣かないと、思ったばかりなのに。わたしの涙腺はすでに決壊の一途を辿っていて、どうすることもできない。涙で歪んで行く顔を見て、赤木さんはもう一度面白そうに口端を吊り上げた。

「泣いてばっかだな」
「あかぎさんの、せいです」

 小さな箱を、ゆっくりと大事に手のひらにのせる。恐る恐る中を開けると、そこにいたのは小さな指輪。シルバーのそれはきっと彼もお揃いで持っているのだろう。内側には、互いのイニシャルが掘られていてその文字がさらに心臓を跳ねさせた。

「こ、婚約指輪、みたいですね」

 照れ隠しでそう呟けば、彼はなんともない風でわたしにキスをした。

「そのつもりだったんだけど」
「……っ、あ」

 言おうと思った言葉は飲み込まれて、そのまま深く口付けられる。キスの合間に、なんとか言葉を紡げば彼は珍しく照れたように、噛みつくようなキスをした。
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