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19アカギ

 人ごみに飲み込まれて行ってしまう彼を見たとき、置いて行かれる感覚を初めて知った。誰もいない、まるで見知らぬ土地に一人置いてけぼりにされてしまったかのような感覚。誰とも目が合わず、喋らず、わたしひとりだけを置いて彼は先に行ってしまうんだ。いつだって。背が高く、白髪の彼は人ごみの中でも目立つ存在のはずなのに、いまはまるでその姿を隠してしまっている。それこそ神隠しにでもあってしまったようだ。わたしは背も人より小さくて、目立つ特徴なんてこれと言ってない。ああ、見つけてもらえない。たとえわたしが彼を見つけられたとしても彼はわたしを見つけられないだろう。わたしにとっての赤木さんと赤木さんにとってのわたしの違い。あってもなくてもいい存在。前々から思うことがあった。以前安岡さんが赤木さんに言っていたこと。そしてそれに対する赤木さんの返答。こんな時だから嫌でも思い出してしまうのだろう。

「なんであのお嬢さんなんだ? アカギ、お前くらいになれば女なんて吐いて捨てるほどいるだろうに」

 今でも旗幟鮮明に思い出すことのできる言葉。立ち聞きするつもりなんて毛頭なかったけれどわたしに関する話題となっては別だった。どくん、と心臓が嫌な風に音を立てて本能が聞いてはダメだと警鐘を鳴らしている。それでも心の奥底にあるわたしの意思は聞きたいと思っていて、足はその場に縫い付けられてしまったみたいに動かなかった。空気の動く音が、赤木さんが喋る気配が壁を隔てて伝わってきた。心臓の鼓動は大きくなりすぎて、聞こえない。

「ああ、名前のことですか。だめだなあ安岡さん、あれはあれでいいんですよ。面倒じゃない」

 一瞬何を言われているのかわからなかった。別段、好きだからや愛しているから、のような少女小説じみた言葉が彼から出されるとも思っていなかったけれどこの言葉もまた予想の範疇を超えていた。彼からいとも簡単に吐き出された「面倒じゃない」という言葉がそのまま溶けた鉛のように心臓に流れ込んできて心臓を焼いた。息が苦しくなって、目の前が歪む。わたしが、かれのそばにいれたのは面倒じゃないから。それならば、わたしが少しでも彼の面倒になるような行動をとってしまえば、わたしは容赦なく切り捨てられるということで。彼にとってのわたしはその程度ということで。なにがなんだかわからなくなって、わたしは今立っているのか座り込んでいるのか泣いているのか笑っているのか。ただ一つ分かったのは、いつまでもここにこうしていたらわたしが彼らの話を盗み聞きしたことがばれてしまうということだけだ。力の入らなくなった足を無理やり動かして一瞬でも早く一歩でも多く彼らから遠ざかろうと必死だった。
 いわゆるわたしは便利な女ということで。それをまざまざと見せつけられてしまっては置いて行かれるのもなんだか仕方がないかなあ、と思えてしまえる。使い捨て、ワンデイ様々な言葉で言い表せる当たり本当に便利なんだなあ。よくよく考えたらそれもそうかと手を打って納得してしまう。そもそも赤木さんとわたしじゃあ釣り合いが取れない。眉目秀麗で強くて、頼りにされてる神様のような人。対するわたしは何をとっても一般人で、容姿も十人並み、運動神経は人並み以下で趣味といえば読書くらいというものだ。秀でた能力もなければ、誰かに誇れるような特技もない。彼よかずっと平々凡々な人生を歩んできてしまったせいで彼のかけらすら理解ができない。すべてわかったような気がしているだけ。わたしは彼とはなにもかもが違いすぎたのだ。二年目にして、気づいてしまった。否、実際はもう少し早く気づいていたのだろう。その気づきにしても見ないふりをし続けたツケが回ってきたのだろう。二年も一緒にいて、恋人同士ではない。そのくせ、恋人のような行為は幾度となく行われている。言葉は時に安っぽく聞こえてしまうけれど、その安っぽさが証明になることだってあるのだ。わたしは、そんなことをいまさらのように気づいてしまったんだ。
 どん、と隣をすれ違う人と肩がぶつかってしまう。すみません、と声を出してはじめて気づいた。頬を伝う存在に。はらはらと重力に逆らうことなく落ちていくしずくに。わたしが泣いていようといまいと時間は刻々と刻まれていく。こうしている間にも赤木さんは遠のいてしまう。近かったと思っていた距離が虚偽で、当たり前にとなりにいれると思っていたのはわたしの驕りだった。

「大丈夫ですか?」

 ぶつかってしまった人がわたしの顔を覗き込むようにして目を合わせた。わたしの涙を勘違いしてしまっているのだろう。慌てて「ちがう」といえば安心したように微笑んで、先を歩く女性のもとへとかけていく。そして自然の摂理のように女性の手を包み込んだ。こんなにひとで溢れかえっているのに、彼らだけは銀幕に移された美しい男女のように切り取られていた。映画の世界のようだった。わたしには到底及ぶことのない世界。なんだか自分がひどく惨めでちっぽけな存在に思えてしまって恥ずかしくなる。かえろう、このまま来た道を。幸い、帰り道はわかっているのだから。重たい足を引きずるようにして歩みを進めれば、そのたびに心臓がぎりぎりと締め付けられた。吐きだしたくなるような悲しみと、劣情。今すぐこの場に蹲ってしまいたい。いよいよ堪えきれなくなった嗚咽が唇を割って出た。抑えようとすればするほど嗚咽は大きくなっていき、胸腔を圧迫する。苦しかった。それでも歩き続けなければいけない理由がわからなくなる。歩みを止めてしまえばいっそ楽になれるのではないだろうか。歩みを止めること、それはすなわち赤木さんとの離別。わかれ、関係の解消。そんなことできっこないのは誰よりもわたしが一番わかっているのに。

 目の端に流れた広告、ああそういえばこの映画依然見たことがあったな。そんなことを思えるくらいにはわたしの頭は嫌に冷静だった。理由なき反抗。主人公がどことなく赤木さんに似ているんだよね、たしかチキン・ラン赤木さんもしたことがあるらしいし。そこまで考えてはたと気づいた。わたしの生活にはいやでも彼が染みついていた。たばこのにおいが消えないのと一緒で。彼はわたしのなかにごく当たり前に住み着いていたのだ。おさまりかけた涙が再び押し出されるようにしてこぼれた。ほんとうに離れられないのだと悟る。わたしはなんて愚かしいのだろうか。離れれば楽になるなんて詭弁をふるって、結局は離れられないで。阿呆にもほどがある。こんなだから、彼のとなりに並び立つ資格が無いのだ。本当に、一から十まであきれる女だ。ぼたり、ぼたりと服が涙を吸っていく。まだらになった袖となおも止まらない涙で周囲はわたしを取り巻くような空間ができていた。迷子だろうか、友人は、なんてささやく声を聴きながらそのすべてに心の中で迷子じゃない、友人なんて呼べる人はいない、と底意地悪く反論してしまう。唯一わたしをみつけてくれるひとは、もういないのだ。

 そう、おもっていたのに。

「なに、泣いてるの」

 耳慣れた、何度も聞いたことのあるこの世で一番好きな音階。この世界で唯一のわたしの人。拭いかけの手を掴まれて無理やり顔をあげさせられる。彼のきれいな瞳の中いっぱいにわたしが、わたしだけが写りこんだ。視界の端をかすめるきれいな白髪。音がしそうなくらい、握られたわたしの手首。その力の強さに、骨が悲鳴を上げる。ぎりぎりと閉められる手は緩められる気配すらなくて、別の涙があふれてきた。

「いた、いたいです、赤木さん」
「どこ、いくつもりだったんだ」
「どこって、帰ろうと」

 何をそんな焦る必要があろうか。どこか怒っているような彼の顔をみつめた。その目にみつめられた瞬間、ひやりと心臓の裏を冷たい手が撫であげた。一気にフラッシュバックしてしまう「面倒」ということば。わたしはいま彼に面倒をかけている。嫌われてしまう。先ほどまでは嫌われたほうが楽だ、なんて思っていたのにいざその状況を目の前にしてしまうと怖くて膝が笑ってしまう。ひきつった喉は声も出ず、彼の目にありありとにじむ呆れに恐れをなした。ようやく口をついて出たのは小さな、本当に小さな謝罪でそれを聞いた瞬間赤木さんははじかれたようにわたしの手を強く引いて歩き出した。周りの人はみな興味を失ったように我関せずだった。


 どのくらい歩いたころだろうか。いまいち道を覚えていなくて、気づいたら自宅のアパートの前に立っていた。道中、どう取り繕ったら彼とまた一緒にいられるか、そればっかりを考えていたせいもある。しかし、ただ純粋に彼の広い今にも消えそうな背中を追っていただけなのだ。わたしの行く先には必ず赤木さんがいて、彼はいわばわたしの導。なくてはならないもの。その存在にわたしは突き放されようとされている。導を失ったひとが、どうなるか。想像するに難くないだろう。赤木さんは器用に服のポケットから鍵を取り出して手早く扉を開けた。錆びた蝶番の音が閑静な住宅地に響く。わたしの耳にもこびりついて離れない、甲高いそれはまるで破滅への音のようで息が苦しくなった。靴を履いたまま式台に上がってそのままわたしの体を不自然な浮遊感が襲う。

「っや、あかぎさ」
「動くな」

 肌を焼くように鋭い声。誰の目に見ても怒っていることは明白だった。そしてその怒りを向けられているのがわたしだということにたまらなく恐怖した。ここで暴れようものなら、わたしは容赦なく彼に息の根を止められてしまうのだろう。生きたまま殺されるとはこのことを言うのだ。迷うことなく一直線に敷きっぱなしの布団へ向かった赤木さんは肩に担いだわたしを少しだけ乱暴に上から落とした。柔らかな布団の上とはいえ高さがあったせいでわたしの背中を鈍痛が襲う。痛みに顔をゆがめれば、赤木さんは意地悪そうに口元をゆがめた。そのままわたしの逃げ道を封じるようにしてのしかかる。顔の両脇には彼の腕があって、わたしの体に馬乗りになるようにしていた。近い距離にある彼の顔に目をそらしそうになって頬を掴まれた。

「目、逸らしていいなんていってない」
「あ、赤木さんどいて……!」
「へぇ、この状況でそれを言えるのか」

 わたしの一言が彼をあおったのは言うまでもない。乱暴にわたしの襟元を開き、肩口に顔を埋める。かさついた唇が、サラサラな毛先がわたしの首筋をくすぐる。ぞわり、ぞわりとお腹の奥からなにかが這い上がってきて必死に唇を噛みしめる。

「――っあ、い」

 は、と生ぬるい息が当たったと思ったら首に走る痛み。それは後を引いて疼痛となり、わたしの口からうめき声を漏らさせた。

「赤木さ、」
「ん?」
 まるで幼子のような声音。やめて、と意思を伝えてみてもそのまま彼は聞こえぬふりを決め込んで自分の噛んだ傷を舐め上げる。生暖かい、湿った感触に喉の奥から抑えきれぬ声が情欲のような音を乗せて零れる。ああ、いやだ。こんな状況なのに、うれしいと思ってしまう自分が。なにも言ってくれない赤木さんが。このあいまいな関係が。

「っふ、く……っう」

 せめてもの抵抗で口に当てた手の甲を噛んで嗚咽をこらえた。いまさら泣いて何になる、ただ「面倒」を助長させるだけなのに。ぼたぼたと目じりを駆け下る涙に一瞬赤木さんの動きが止まった。のしかかっていた重みが消えて、あのきれいな目にわたしが写っていた。

「…………」
「あかぎ、さん」
「悪いな」

 わたしの涙をまるでいたわるようにして拭いながら彼はそうつぶやいた。なにを謝ることがあろうか。いけないのはわたしで、わたしだけがだめなのに。

「ご、ごめんなさい」
「なんであんたが謝るんだ」
「だ、ってわた、し」

 拭われるそばからあふれる涙に嫌気がさす。それでも伝えなくては。必死で喉を震わせて、口を開く。

「わた、し面倒になっちゃったから」

 だから、あなたに嫌われちゃうんです。取り留めのない、支離滅裂な言葉を赤木さんは最後まで聞いてくれた。そのうえで、彼は訳が分からないといった風の顔をしてわたしの涙をぬぐう。

「なんだよそれ」
「だ、だって……わたし、のことそばに置いてくれてるの、面倒じゃないからなんですよね……? だから、わたし、面倒になっちゃったから」
「それ、誰から聞いたんだよ」
「赤木さんと、安岡さんが、前に話して」

 そこまで言ったら彼は合点がいったように大きなため息をついた。それから、わたしの目じりに小さく口づけを落として笑った。

「いまさら面倒になったからって捨てないさ、捨てるんならもっと前に捨ててる」
「そ、れって」

 人間とは単純なもので、常に何でも自分にとっていいほうへと考えてしまう。これがどんなに身を亡ぼすことになろうとも。それでもわたしという人間はそれをやめることができない。

「俺は好きでも何でもない女を二年間もそばにおいておけるほど暇じゃない」

 ああ、これほどまでの歓喜があっていいものなのだろうか。近づけられた顔が再びあふれた涙を見て小さく笑った。

「あんた……本当に泣き虫だな」

 そういった赤木さんは大きな手でわたしの涙をさらって、鼻頭に口づける。ぷえ、なんて変な声が出て体の芯から熱くなった。

「ククク……目、開けなよ。それと、はぐれたら勝手に移動するなよ」

 探しただろ。なんども遊ぶようにわたしの頬や額にキスを落とす赤木さんにキスの合間を縫って小さくごめんなさいとつぶやく。薄く目を開いて彼の顔を見て、思わずにやにやと笑ってしまう。

「あかぎさん」
「ん?」
「どうして、おこってたんですか」

 ふわふわとした感覚の中そう問いかければ彼は一瞬面くらったようにキスをやめた。そうして、わたしをじっと見つめてからくつくつと笑い出す。

「悪い、あんたがすぐ迷子になるってわかってたのに見失ったのに呆れてたんだ」
「は……」
「もういいだろ、ほら」

 この話は終わりだというようにわたしを啄む赤木さん。そのたびに、小さく吐息を漏らして必死についていく。形を変えて何度もくっつき離れる口唇に頭がぼうっとして。吐息は上擦り、確かな意思を持ってわたしの中に停滞する。このまま文字通り食べられて、キャンディのようになくなってしまうのかもしれない。

「ん、ぁ……ん」

 ずいと差し込まれた舌はわたしの口内を我が物顔で蹂躙する。歯列をなぞって、口蓋をくすぐる。ぞくりと背中を駆け上がるなにかに身をよじった。彼の舌が奥で固まっていたわたしの舌をほぐすようにしてつつく。いきがくるしい、酸素がうまく取り込めない。

「っぷ、あ、あかぎさ、」

 名残惜しそうに離れた唇はわたしのなかに色を残して去っていく。少しだけ苦いくちづけにくらくらしそうだ。まるで酒に酔った時のように目の前がくらりとゆれる。

「なあ」
「ふあ」
「まだ足りないだろ?」

 そうささやかれて、わたしは彼の大きな手に誘い込まれる。
落ちていくその心地よさに身をゆだねて、わたしは彼に小さく口づけを返した。
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