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さようなら、また来世。

 さようなら。たったの五文字でわたしたちの関係は終わりを告げられた。他でもない彼の口から。
 いつかこうなることはわかっていた。そう遠くない未来で起こり得る事だとも理解していたつもりだった。彼の綺麗な口がスローモーションのように動く。お手本のように美しい発声で、ひどく残酷な終わりを告げた赤木さんはいつもと同じ顔だった。なんら変わりのない日常で、たった一つ変わったこと。それは、もう金輪際彼と一緒にはいられないということだけだった。


 なにを意図して赤木さんが別れを告げたのか。結局最後まで聞けず、いつものように支度を終えた彼をいつもと同じく玄関先で見送った。行ってらっしゃいといった声に彼はなにも言わず、階段を下ったところでわたしを顧みた。
「元気でね」
 声は聞こえなかったけれど、彼の唇は確かにこの言葉をかたどっていた。元気でね。なんて、今更気にかけないでほしかった。最後まで冷たいままで、息の根を止めてほしかった。元気でね。そんなの無理に決まっているじゃないか。あなたという酸素を失ってわたしはどうやって生きていけばいいのだろうか。
 正直に言えば、この震え出す足を叩いてでも今すぐに彼の元へと駆け寄りたかった。駆け寄って、抱きしめて、行かないでと泣いて喚きたかった。わたしに悪いところがあったのなら直すから、お願いだから行かないでと。それが到底許されることじゃないのはわかっていたし、そもそもわたしにはそんなことはできない。する勇気がない。
 それに、なによりも。どちらかの具体的な何かが原因でないことくらい、いくらわたしでもわかっていたのだから。
 それだからわたしはいかにもお行儀のいい女を装って、赤木さんこそと返した。元気でいてほしい。それは本心からの言葉だ。わずかに言葉尻に滲ませたのは、わたしのそばで。涙を隠したわたしはちゃんと笑えていただろうか。最後くらい可愛い笑顔でお別れしたいもの。なけなしの意地を奮い立たせて、震える口角を無理矢理に釣り上げたらほっぺが攣りそうで、彼が背中を向けた瞬間に膝から崩れ落ちてしまった。
 居なくなってしまった彼の痕跡を辿るようにして日々を過ごしていた。二人分並んだ食事に、歯ブラシに、男物の服。全部持って行こうとした赤木さんからこっそりとくすねて置いた一枚のシャツ。かすかに香ったたばこの香りにまた泣いてしまい、心臓がはちきれそうだった。目を閉じれば今でも思い出すことのできる体温と声は、いずれ消えてしまうのだろうか。わたしの中から彼が消えるくらいならば綺麗な思い出のままいっそ死んでしまえたら、なんて思って息を吐き出した。何よりも彼とは元気でいると約束したのだ。わたしと赤木さんの間にある最後の約束くらいは、何が何でも守りたかった。それすら破ってしまたら、本当に彼が消えてしまうような気がしたから。
 一人きりの部屋はこんなにも静かだっただろうか。今までも別段騒がしかったわけじゃない気がするけれど、彼の居ない部屋はどこかモノクロで温度がない。音の全てが消えてしまったような気がして、いずれ黒で埋め尽くされてしまうんじゃないだろうか。わたしが座っているこの位置も、前だったら赤木さんが座って居たところで。どれだけ軌跡をなぞったところで帰ってこないのだと、頭の隅っこの冷静な自分が心臓を抉り出す。歪んだ視界から涙が溢れて、それでもわたしは元気でいようと足掻いて居た。

 なんとなく、外に出てみた。久しぶりに浴びた日の光は刺すような眩しさで目を焼いた。ミンミンと生命を主張する声を隅に行くあてもなくフラフラと歩いて居た。なにをしようか、どこにいこうか。何もわからず、いっそこのまま熱で溶けてしまいたいと陽炎立つアスファルトを踵で踏みつけた。
 ふと立ち寄った古本屋で見つけた昔の恋愛小説。古ぼけた表紙と日焼けしたページをめくればどこか懐かしいような情景が綴られていた。知らない作者だったけれど、そのままおじさんのとこに持っていけばにこやかに笑ったおじさんは「タダであげるよ」と言ってくれる。
「えっ、いや、わるいですよ」
「いいんだよ。お嬢さんみたいに若くてかわいい子はなかなか来ないからねぇ」
「……ありがとう、ございます」
 あまり押し問答を続ける気力もなかったのでご厚意に甘えることにして、古本屋を後にした。相変わらず日の光は真上から差し込んで、頭皮を焦がす。あつい、そう思って目を細めた。
 甲高いクラクションの音。夏の空を劈くような悲鳴。目の前に迫るトラックの車体。額から落ちた汗が目に入って、やけに染みる目を瞬かせたすぐあとにわたしの体は変な音を立てて、そのまま意識はまっくろに落ちていった。


 
 ふわり、ふわりと真っ暗な中をさまよっていた。行くあてもなく、帰る場所もなく。なにもかもが無くなっていた。小さく、囁くように息を殺し名前を呼んだ。赤木さん。あかぎさん、赤木さん。揺れた声帯とぼやけた声。彼はどこに行ったんだろう。わたしはどこに向かうのだろう。ただ彷徨い続ける運命ならばいっそのこと消えてしまえばいい。このまま死んでしまえばいい。跡形もなく溶けて崩れ去って、わたしがわたしだった一片すら残さずに。

「――名前」
 声が聞こえた。誰なのか、なんなのか。わたしの名前を呼んでいた。放っておいて欲しかったのに、なぜだかその声に抗えない。座りかけていた足を止め、ゆるゆると歩き出す。どこへ行こうか。何もなく、何も持たないわたしはどこへ向かえばいいのか。その疑問は未だ解消されていなかったけれど、いまはこの声に付き従って歩いていけばいいような、そんな気がした。
 やけに重たい、まるで鉛のような瞼をやっとこさ押し上げた先に見えたものはぼやけた世界だった。水の中から見ている景色のようだ。マーブル模様にかき混ぜられた様々の中に、見慣れた銀色が動く。ネイビーの塊がわたしの方によってきて、銀色が近くなった。いまいち慣れていないこもった耳に聞こえてきたのは「きがついた?」そんな声。言葉を噛み砕いて、飲み込んで。しばらくぼうっとしてからようやく、出ない声で返事をした後小さく頷く。それよりも、わたしには聞きたいことがたくさんあった。なんでここにいるのか。ここはどこなのか。今までどこに行っていたのか。なんで戻ってきてくれたのか。山ほどある聞きたいことの一つすらまともに発せず、喉から出るのはかすれたうめき声だけ。ゆるりと右手を持ち上げようと試みても、固定をされているらしく思うように動かなかった。なんとか動かした頭をもたげて、自分の体を見てみると痛々しいくらいの包帯が巻かれていて、右手と左足は折れているのだろうか。添え木らしきものが見て取れた。声も出ない。頭も痛い。ああ、死ねなかった。
「ごめん」
「?」
 何を謝ることがあるのだろうか。彼は何もしていないのに。謝らないでください。そう伝えたくても動くだけでなにもしない唇は役目を放棄した。どうやったら伝わるか。なんともない左手をゆったりと持ち上げた。そのままのろのろ彼の方へと移動させ、頭の上に優しく乗せる。やっと慣れてきた視界で、赤木さんが目を開くのがわかった。なんどか左右に動かして、触り心地の良い髪の毛の感触を楽しんでいると彼の二本の腕がにょっきりわたしの方へと伸びてきた。
「、っ」
「……あんたが、事故にあったって聞いた時、初めて喪うのが怖いと思った。何かを喪うなんて、日常茶飯事だったのに。誰が死のうが、関係ないはずなのに。あんただけは――名前だけは、別だった」
「ぁ、」
 ぎゅうぎゅうと音がしそうなほど抱きしめられているのに、不思議と体が痛くない。痛みを感じない体とは裏腹に、泣いているような彼の声に心臓がぎりぎり音を立てて締め上げられた。ないている。かれはいま、透明な涙を流していた。見えない涙をながして、幼子が母に縋るようにわたしを抱きしめている。行き場をなくした左手を背中に添えるとびくりと一瞬揺れた肩。もう一度ポツリと謝って、彼は言葉を紡ぎ出した。
「あんたを巻き込まないために離れたのに、これじゃあ意味がないな。名前はそそっかしいから、側にいてやらないと駄目だ。オレも、たぶん、あんたが必要だ。あんたが、」
 夢にまで見た言葉だった。拙い言葉。まるで三歳児の告白のようだ。言葉尻に疑問符が見て取れる。大切、なんだとおもう。たぶん。なんて、曖昧な言葉。それでもわたしにとっては世界で一番愛しく美しい愛の言葉なのだ。どれだけ曖昧模糊としていようと、消えないように掴んでやればいい。どこにも行かないように、ちらりと姿を見せたそれを手繰り寄せるようにしてわたしは声を出した。
「わ、たし、も……そばに、いたい……あかぎさんの、そばが、いい」
「うん」
「はな、れたく、な……っ、すき、すきです、すきっ……」
 全身を包むぬくもりが、触れた体温が、耳を撫でる声の全てが生きていると教えてくれた。わたしの居場所はここにあった。わたしの居場所は、ここにしかない。彼の声が届くところ、彼の指先が触れるところ、体温を感じられるところでしかもとよりわたしは生きられないのだから。
 嗚咽交じりに告白をすれば、それに呼応するように額にキスを落とす赤木さん。頭に巻かれた包帯を見て苦しそうに眉を寄せる。頬のガーゼを優しくなぞる彼の指。いとしくて、たいせつで、なによりもかけがえのないそれにわたしはそっと目を閉じた。
 さようなら。たったの五文字でわたしたちの関係は終わりを告げられた。他でもない彼の口から。
 終わりを告げたはずの口。終わったはずのわたしたち。止まりかけた時計が動き出すように、ゆっくりと時を刻み始めた。始まったばかりのわたしたちは何もかもが拙くて、幼くて、触れ合い方もわからない。壊れ物を扱うように恐々とわたしに触れた彼に行ってあげよう。わたしは陶器じゃないですよ、と。まずはきっとそこからだ。
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