残影 | ナノ

残影

薄紫色の煙が、左から右へと曖昧な渦を巻きながら目の前を漂って行く。
やがて大気中に広がりながら霧消していくその気体の流れに逆らって、和平は首を動かさず、視線だけをちらと己の左端に向けた。それがここに座ってから何度目の行為になるかというのは、もうとうから数えるのを止めているのでよく分からない。
吸い込んだ煙を吐き出したばかりの横顔は、硬そうな焦茶色の髭の下に隠されている唇が少しばかり窄まり、顎が微かに上向いている。こちら側からは見えないが、薄青い左の瞳は半ば伏せられたままだろう。その位のことは直接目にしなくても分かる。
この男が葉巻をふかす時の表情は、もう大概見慣れたものだった。…それでも、いつ何時でも飽かず視界の端に捉えていたいと思ってしまう。そして、本人にはその思惑を決して悟られたくないとも。

肺の中の、最後の呼気まで放ち切ったのだろう。ゆっくりと、横顔が再び少しずつ俯き始める。親指を下に、続く二本の指を上に添え、葉巻を摘んだ左手が口許に運ばれる。
…そこまで見届けて、ふと和平は視線がその唇から剥がせずにいることに気が付き、慌てて眼球の焦点を強引に真正面へ引き戻した。
穏やかな午後の休憩所には、二人の他には誰の姿も無い。音らしい音と言えば屋外での実戦訓練の掛け声が時たま遠くから聞こえてくる位で、和平はやや急激に跳ね上がった心拍が、相手に察せられていなければいいがと要らぬ懸念を抱いた。

一体いつからこんなに目が離せなくなってしまったのか、今となってはもう思い出すことも出来ない。勘弁して欲しい、と思う。
この男の動向が、表情や声、仕種の一つ一つまでが、近かろうと離れていようと一々気に懸かって仕方が無い訳は、ただMSFの頭であるからというだけでは最早通用しない。
如何にこれまで蓄積されてきた常識やプライドが眼を曇らせていたとはいえ、和平もこの種の感情に全くの無自覚を貫き通せるほど愚鈍な人間ではなかった。…そして、その感情に忠実な行動を何の躊躇もなく起こせるほど、向こう見ずで肚の据わり切った人間でもなかった。
組織のトップとナンバー2の間に不和があれば、それは遠からず全体の士気の低下や経営基盤の不安定化に繋がる。MSFは長年抱いてきた夢を具現化した、云わば己の人生とは不可分な存在だ。そして、多くの「秩序」からはぐれ出た身である人間達にとっては、生活の場そのものでもある。一個人のつまらぬ感情の乱れから瓦解させるような事態だけは、何としても避けなければならない。この「友好的」な現状を維持するのが、ビジネスの視点から鑑みれば最も賢明な判断だろう。
…常々そんな尤もらしい言い分を自身で反芻しながら、和平はこの想いを自覚して以来、鎮まることのない胸の内をどうにか抑え付け続けていた。


「さて…」

先程からの和平の煩悶を知る由もない隣の男は、もう一しきり煙草を呑む一連の動作を繰り返すと、ふぅ、と一つ息を吐いて立ち上がった。

「ほら」
「…?」

そして、何とはなしに顔を上げてその動きを追った和平に、彼は先程までくゆらせていた葉巻を吸い口をこちらに向けて、実に無造作に差し出した。まだ半分ほどが灰にならずに残っており、反対側からは紫煙が弱い海風に乗ってたなびいて行く。

「吸いたかったんだろ? 俺は、そろそろあいつらに稽古をつけに行く。残りは好きなようにしろ」

顎で軽く生真面目な怒号の響いてくる方向をしゃくって見せながら、彼は事も無げに言った。

…こいつ、気付いてやがった。

和平は内心で思わず歯噛みした。素知らぬ顔で寛ぎながら、この男は隣で和平がしきりに視線を配っていたのをちゃんと察していたのだ。
しかし惜しむべくは、その目線の真意にまでは全く理解が及んでいないらしいことか。

「…おい、早く取れ。熱い」
「あ、ああ」

和平が掴みやすいよう火に近い部分を指に挟んでいた彼が、少し眉を顰めて促す。断る暇も無く流されるままに、和平は吸いかけの葉巻を受け取った。

「じゃ、後でな。カズ」
「…おう」

型通りの挨拶を交わし、彼はくるりと背を向けてゆったりとした大股で訓練施設の方へ歩を向けた。…その何気ない後姿も、絵になっていると思う。
和平はしばしその背中を見詰めた後、視線を手元の葉巻に移し、苦笑を浮かべながらぽつりと呟いた。

「欲しかったのは、こっちじゃないんだがなぁ…」
「ん? 何か言ったか?」

ほんの些細な独白のつもりだったが、すかさず去りかけていた彼がこちらを振り返って問うた。…無闇に聴覚が優れているのも困りものだ。

「何でもない! 訓練、しっかり頼むぞ」
「あぁ。分かってる」

瞬時に作り上げた朗らかな声で和平が答えると、彼はそれで納得したのか軽く片手を上げて見せ、また歩み去って行った。


…大柄な後姿が見えなくなると、和平は漸くふぅ、と大きく息を吐いて肩の力を落とした。指の間では、まだ甘く煙たい香りを放つ葉巻が燻っている。
吸いかけの葉巻を親しい人間に差し出した相手の肚づもりを、いくら分析してみた所で何の益も無いだろう。…しかしそんな些末な行為にすら何かしら特別な意味を、ただの片鱗でもいいから見出したいと思ってしまうのは、自分のような心理状態に陥っている者の悲しい性というべきか。

(…まあ、いいさ)

こちらで勝手に思い違いをするだけの分には、誰の迷惑になる訳でもない。ましてやこの感情を疑いもしていない相手にとっては、それこそ痛くも痒くも無いことだ。
和平は嬉しさ半分、自嘲半分の苦笑いを浮かべると、直に鼻腔を擽る煙香に噎せそうになるのを堪えながら、彼の葉巻の端を唇に含んだ。







―― はっと見開いた視界が一面の闇に覆われていて、ミラーの思考は状況が把握出来ずに大きく混乱をきたした。
しかしそれもほんの束の間のことだ。簡素な間接照明によって作られた薄闇に目が慣れてくるに従い、脳はすぐに自宅の寝室でベッドに横たわっている自身と、そこに至る今日までの足取りを、さながら誤作動を起こしたコンピュータがシステムを再構築するかのように正確に思い出させた。
…つまり、先程まで見ていたものが脳が記憶している遠い過去の事象の一つであり、今はこのアラスカの住居に独りきりであるという現実を、この寝惚けた頭は今更はっきりと突き付けてくれたのだ。

温かく滲むような懐かしさと、胸を圧し潰す鈍痛が同時に押し寄せ、思わずミラーの唇に虚ろな笑みの形が浮かんだ。

…あんな頃もあったのだ。
盲目的に「夢」を追い続け、その中で出会った一人の男に反駁しながらも心惹かれ、己の目的を達する為の手段に過ぎなかった彼やその部下達が、いつしか心の中で大きな容量を占めるようになって行った日々。
…時の経過とともに意識の深淵に沈んで行き、眠っていたそんな日々の思い出の一つが、不意に気泡のようにぽかりと表層に浮上した。
ただそれだけのことだ。


「…寒いな…」

誰にこぼすでもなく、ミラーは呟いた。
現実には、寒いということはあり得ない。
戸外は確かに極寒の地で、今は猛烈なブリザードが吹き荒れているが、気密性に優れきっちりと空調が作用している屋内は、タンクトップにカーゴパンツという出で立ちでも快適に眠れる温度に保たれている筈だ。

…このどうしようも無い寒々しさを忘れさせてくれる温もりは、今はもう隣には居ない。
ミラーは己の口走った言葉の意味を熟考することなく、骨まで沁み渡るようなその寒さからせめて体の芯を守ろうと、ブランケットの下の四肢を胎児のように縮こまらせた。


暴れ狂う風の音だけが、やけにいつまでも耳の奥底でごうごうと鳴り響いていた。


― fin ―


ご精読ありがとうございました。原稿中に受信してたネタその2。
時系列的にすっ飛んでてすいません。ミラーさんまじヒロインっていう妄想の勢いだけで書いた。
前に誰か言ってたような気がするんだけど、カズスネってやっぱ百合なのかなぁ…w
ページTOP>>
作品一覧>>
HOME>>





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -