茹だるような暑い日差しの下、高尾は頭皮から滲み出、滴り落ちる汗を腕で拭った。今日の練習は午前中だけであったため、今は昼間。最も暑い時間帯だ。荒い息を繰り返しながら、重い足取りで家路を歩く。
もう少しで家に着く、というときだった。
妙な寒気が高尾の背筋を走る。誰かに視られている、そう直感した。
『鷹の目』を使ってみると、どうやら100メートルほど後方に人がいる。それ以外はやはりこの暑さもあってか、外に出て来る者などいない。だが、この寒気は後ろの人を感じているのか。どう見たって、普通の女子大生にしか見えない。
ぞわぞわと全身が危険信号を出す。
ガチャリと自宅の玄関の扉を開け、中に入る。後ろを振り返らず何事も無かったかのように、ゆっくりと扉を閉めた。
綺麗な茜色に染まる空を眺めながら、高尾は家路を急いだ。今日の練習はいつにも増してハードだった。あの緑間でさえ顔色を悪くしていたのだ。かく言う高尾本人も、3度吐いて過去最多を記録した。無理もない。今年はなんとか決勝リーグへ駒を進めようと、監督も先輩も、もちろん自分達だって意気込んでいる。
ふと、冷気のような冷たさを感じた。夕方とはいえ、まだまだ暑い。寒さを感じるほどの空気ではないはず。だが、そこで高尾は所謂『デジャビュ』に捕らわれた。
場所は、自宅から少し手前。80メートルほど後方だろうか、人の視線を感じる。じっとりと、頭の先から足の裏まで、全身を舐め回されるような気配に吐き気を催した。
じっとりと汗ばんだ手でドアノブを回して、何事も無かったように扉を閉めた。
辺りはもう真っ暗で、ふと目に入った街灯は切れかかっているのか、点いたり消えたりを繰り返している。
今日は、この前予選リーグを通過したばかりだと言うのに、埼玉にある強豪校と練習試合をした。やはり、練習とはいえ試合は試合だ。通常の練習とはまた別の疲労感が襲う。
自宅から少し手前の路地で、またあの寒気を感じた。毎日毎日あるわけでは無いのだか、流石にこう何度も感じるとなると、やはり自分の身の危険を察した。
今日は50メートルほど後方か。その存在が次第に高尾自身に近付いて来ているのが解る。夜の闇がそれの恐怖に拍車をかけるようだ。半袖のYシャツから覗く腕には、ぶつぶつと鳥肌が立っている。
震える手を押さえながら、何事も無かったように扉を閉めた。
高尾は、ズルズルと足を引きずって家路を急いでいた。もうすぐ決勝リーグで誠凛と戦うというのに、こんな日に限って足を怪我してしまった。緑間曰く、今日のおは朝占いで蠍座は最下位だったらしい。まさかギャラリーから大量にボールが落ちてくるとは思わなかった。これでは練習も出来ないと思い、監督に話して家に戻ってきた。これから親に話して、病院に行かなくては。
また、あの視線だ。ぴりぴりとした空気が張り詰める。頭からは冷や汗がだらだらと流れる。
おいおい、ちょっと待てよ。と高尾は思う。今までは2、3日置いてあの視線を感じたというのに、今回は昨日の今日だ。
それは40メートルほど後方。そこで高尾は気付いた。まさか、これは、日にちが経つに連れ、距離が近付いている…? そして、次第にそれが現れる日の間隔は無くなる…?
いやいや、落ち着け高尾和成。『鷹の目』とまで呼ばれ、人よりもはるかに目の良いこの俺が、生まれて16年と7ヶ月ちょっと、有り得ないものなんて視たことがあったか? 無いだろう?
バクバクと早くなる鼓動を押さえ込んで、自分自身に言い聞かせながら扉を閉めた。
だが、問題はこれからだ。高尾はここからまた外に出て病院に行かなくてはならない。そこまで酷い怪我では無いだろうから、一晩湿布を貼って大人しくしていれば治るかもしれないが、もしかしたら、ということもある。
家事をしていた母親に足のことを告げる。
「ぁ…あのさ、」
「なぁに?」
ここであの存在のことを話したら、もしあれが有害なモノだとして、果たして被害は家族にも及ぶのだろうか? だが、そんなことを考えている余裕はない。怖くて確かめていないが、もしかしたらストーカーだという可能性も多からずはある。ごくり、と唾を呑み込んで、また口を開いた。
「なんか、最近、つけられてるみたい…なんだけど…」
「つけられてる? 誰に?」
「いや、それが分かれば苦労はしないんだけど…」
カクッと肩を落として母にツッコミを入れる。そこで数日前から、決まった場所で視線を感じること、今までは間隔が空いていたのに、今日急に連続で遭遇したこと、それの存在を察知すると、嫌な寒気を感じることを話した。
「大丈夫? 病院一緒に行く?」
「いや、大丈夫だよ。たぶん…」
「そう…? 何かあったら、お母さん呼んで」
「分かった」
玄関で靴を履き、すぅと深呼吸をする。もし、外にまだあれが居たら。考えるだけで気分が悪くなるが、行かないわけにはいかない。ドアノブに手をかけて、押し開けた。
視界に入った日差しと、急な蒸し暑さに高尾は茫然とした。じりじりとアスファルトが焼ける路地には、人っ子一人居なかった。
病院での検査の結果、あと5日は安静にしているようにと言われた。一応部活に出てはいるが、見学と言った形だ。緑間には会って早々憎まれ口を叩かれたが、休憩中にしばしば心配そうな顔を見た。何だかんだ言って、彼にとって自分は相棒なのだと、高尾は少し得意気になった。
帰りは緑間が付き添ってくれた。ここで、あの視線というのは高尾一人でなくとも感じるのだと知った。またいつもの場所で寒気がする。でも緑間に迷惑はかけられないので、なんとか我慢して笑いながら会話をしていた。が。ふとした瞬間に視界にそれを捕らえてしまった。30メートル後方だ。
真っ黒、だ。目が、眼が、瞳が、眼球が。黒、黒、黒。漆黒、暗黒。まるでクレヨンの"黒"で塗り潰されたかのような、純粋な、黒だ。腕はだらんと垂れていて、ゾンビのようにふらふらと歩いている。少し隙間の開いた口からは、唾液とともに赤い液体――血と思われるものが滴り落ちている。
「高尾…?」
緑間の声で我にかえった。ゆっくり顔を上げると、彼は怪訝そうな表情で高尾を覗き込んでいる。
「しんちゃ、」
「高尾。顔色が悪いのだよ。どうかしたのか?」
「あ…いや、何でも…無い…」
ちらりと横を見ているが、こちらが立ち止まっているからか、"それ"は肩で荒い息をしながら、じっと高尾を見据えている。
「む…。何かあるのか?」
緑間は高尾の視線に気付き、後ろを振り返る。が、少し眉を動かしてまた視線を高尾に戻した。
「高尾、何を見ているのだよ」
「っ、ほんと、何でも無いからさ。暑くて気持ち悪くなっただけだし! ほら、もうすぐ家だから大丈夫だって!」
そう言えば、彼はまだ納得してはいないようだが、ならいいが。と呟いて、歩き出した。
緑間には、見えないのだ。あの、不気味な存在が。高尾にしか、見えないのだ。
緑間に見送られながら、ガチャリと自宅の玄関の扉を開け、中に入る。ここで初めて後ろを横目で見た。緑間の背後に、"それ"がいる。彼の肩から顔が覗いている。高尾は怖くなって、急いで扉を閉めた。
「今日は一人で帰るから」
部活の休憩中に、そう緑間に告げた。彼は、少し不満そうな表情だ。
「…お前は、この前から様子がおかしいのだよ。やはり、何かあったのか…?」
「なんもねぇって。足がまだちょっと、痛いだけだっつの」
「…あまり、無理はするなよ」
「おっ、なになに? 心配してくれてんの? いやー、高尾ちゃん嬉しくて涙出るわー!」
「茶化すな!」
いつものように二人でじゃれあえば、あの不気味な時間を忘れられる。それでも不安は拭いきれなかった。
帰り道、また同じ場所で寒気を感じた。間隔は20メートルだ。かなり近付いて来た。ぺち、ぺち、と足音もはっきりと聞こえてくる。無意識のうちに体が縮こまる。これが最終日になれば、どうなるのだろうか。やはり真後ろを着いて来るのだろうか。
いつもより慎重にドアノブを回して、何事も無かったように扉を閉めた。
今回の決勝リーグで、初めて誠凛に勝つことが出来た。試合終了のブザーが鳴って、暫く状況が理解できなかった。でも、次第に勝利したことを実感し、思わず緑間に抱きついた。ら、殴られた。高尾はまだ怪我が完治していないので、第3Qしか出ることが出来なかったが、それでも嬉しい。最後に緑間のブザービーターで終わったのだから尚更だ。帰りは例のお好み焼き屋で祝勝会もした。監督と主将には、まだ一勝だぞ。と呆れられたが、彼らも嬉しいことに代わりはない。
帰りは一人、鼻歌を歌いながら帰った。誰もいない住宅街で鼻歌をしながら歩いているなど、完全に変な人なのだが。
と、ぶわっと背中から腕にかけて鳥肌が立った。ああ、そう言えばと思い出す。10メートル後ろ。いる。"それ"が。ぜいぜい、と荒い息。ぴちゃり、とアスファルトに落ちる唾液の音。
怖い。恐い。
まるで背中に穴が開くようだ。じーっ、という漫画みたいな効果音がついているといっても過言では無いほど、見つめられている。
「ただいまぁー!」
高尾は、気を紛らわせるように家の中に叫んで、振り返らずに扉を閉めた。
昨日、監督に無理を言って、たった40分だけでも試合に出てしまったのが失敗だった。この前怪我をした場所が腫れている。また病院に行ったほうがいいかと思い、今日は早めに家に帰ることにした。
じりじりと頭が焼けるようだ。汗が目に入りそうになるのを、必死で阻止する。
だが、そんな暑さも束の間だ。ひんやりとした風が高尾を包む。ふ、ふ、と一定のリズムで何かがうなじに吹き付けられている。
くるりと首を後ろに回した。
真後ろ。あの、黒い瞳が、クレヨンの暗黒が、唾液と血を垂らして、―――呑み込まれる。
「ぁ…っ」
走った。自宅の玄関まで全速力で。足が痛い。重い。家が遠く感じる。
ガチャリと自宅の玄関の扉を開け、中に入る。後ろを振り返らず全てを忘れるように扉を閉めた。
「っ、は、ぁ。」
肩で息を繰り返す。扉に寄り掛かって、ずるずると崩れ落ちた。だが、今日はいつもと違う。いつもなら、家に入ればもう"あれ"の気配は感じない筈なのに、ぞわり、ぞわりと悪寒が治まらない。
ゆっくりと立ち上がって、覗き穴から、外を見た。
「ひっ、」
真っ黒い瞳で、真っ白い肌をした、ぼさぼさの黒髪の女が、唇を三日月型にあげて、笑った。
「ぁっ、…」
靴を脱いで、自室まで駆けた。部屋に入ると、カーテンを閉めて布団にくるまる。
破裂してしまうんじゃないか、というくらい早く鳴り響く鼓動を抑えて、目を閉じた。
目を覚ましたら、部屋は真っ暗だった。服は、汗でびっしょりと濡れた制服のまま。ケータイは、自分の寝相がよかったのか、ズボンのポケットに入ったままだ。手を伸ばしてケータイを取り、開く。時間は4時44分だ。なんと不吉な時間だろう。取り敢えず、今からでも着替えなければと思い布団を剥いだ。
「…ぇ…?」
覗いていた。見下ろされていた。女に。血だらけの、ワンピースを着た、女に。
「ぁ、」
声をあげる暇もなく、高尾は意識を消した。
目を覚ましたら、カーテンの隙間から光が差していた。服は、汗でびっしょりと濡れた制服のまま。ケータイは、自分の寝相がよかったのか、ズボンのポケットに入ったままだ。手を伸ばしてケータイを取り、開く。時間は6時30分を少し過ぎたころだ。
頭がガンガンと、なにかに殴られたように痛い。頭を押さえこんで、必死に昨日のことを思い出そうとするが、何も思い出せない。それらしい風景は出てくるのだが、視界に靄がかかってしまったようで、肝心なことが出てこなかった。
まあ、いいだろうと思って、ベッドを降りる。体中が汗でべたついているので、シャワーでも浴びよう。風呂場に着いたところで、ふと違和感に気付いた。家の中に人気がないのだ。こんな時間ではいないのは仕事に行っている父だけのはずだ。なのに、妹の気配も、母の気配もしない。朝ごはんのトーストの匂いも、漂ってこない。
「おーい…。母さん…? 誰かいねえの…?」
家の中を探し回ったが誰も見つからない。首をかしげて、風呂場へ戻った。脱衣所で服を脱ぐ。洗面台についている鏡を見上げた。
「…あ…?」
高尾の真後ろには、頭から血を被った女が、にっこりと笑って立っていた。
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こんにちは。耶生(やよい)と言います。
なんか文面が全然まとまらず、長ったらしい作品になってしまいました。
ここまでお付き合いいただいた方、本当にありがとうございます。
思想理様の小説があまりにもすごすぎてプレッシャーに殺されそうでした。
きっと次とその次の二人は、もーっと素敵な小説を作ることでしょう。wktk。
あと、オチが弱いのは私が幽霊を信じてる割には、死後の世界を信じてないとかいう、大変厨二病真っ盛りのような人間だからです。
別に「爆ぜろリアル!」とか言ってませんからね??
最後に。長文失礼いたしました!!!