出会い



 口をゆすいで出た言葉を拭った。あってはならないと。右手の甲を半ば押しつけるようにして拭き取った。きっと俺は辛かったんだ。手からコップが滑り落ちて割ってしまった時も、郵便の荷物が届いた時も、居間の絨毯に寝転がっていた時も。きっと。きっと辛かった。まるで当たり前のことを難しく言い回すような哲学論を思い浮かべて気を紛らわす。歩けども、歩けども、胸を痛く圧迫するような切なさは無くならない。声を出すのも億劫だった。ふと気付けば日陰でうずくまってしまう。俺は辛いと感じた。はあ。ハァ。ハーーァ。いくつの溜め息をこの部屋にこぼしたのかは覚えていない。思い出せる限りの哲学論も底を突いてしまった。心というものはつまり脳のことを指す。だけれどやっぱり胸が苦しいのは、ここにも心があるからなんだろ? 全くわけがわからない。馬鹿馬鹿しい。在るけども、在るけども。日没の刻もとうに過ぎて、肌寒さを覚えた。


「ああ、消えたい」


 俺は死んだんだ。

 とうに死んでしまったこの身体を責めるように、小さくうずくまった。ぼやけているのは身体そのものか、それとも目からなにかが溢れだそうとしているのか。そんなことはどうでもいい。俺は消えたいんだ、最初から何もなかったかのように。魂が俺を置いてった。俺を恋しく思う人たちのそばに。そこには、俺が死んだという記憶が詰まっていた。触れたくもない記憶が寄り添っていた。



「オバケも泣くのか」


 声が聞こえる。薄暗い部屋に突如として現れた生身の人間のせいか、空気が乱されたような感覚をほのかにおぼえた。心を乱される前の予兆。そう感じた。

 俺を見下ろす女子高生は、しかし俺を見ようともせず両目を瞑っていた。なぜお前がここにいる。問い掛けようと思ったが、なんだか無駄な気がして口を開けなかった。そんな俺の代わりに女子高生が独り言のように囁きだした。安らかな、優しい声音で始まった。


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