狩屋 マサキのメールアドレスというものをゲットした。

 それだけなら、さほど不思議なことでもない。いまや携帯の普及率は十数年前の何倍にも上がり、街を歩く小学生すら、防犯用の携帯電話を首からぶら下げている始末だ。

 中学一年生の空野 葵も例外にあらず。携帯本体よりも圧倒的に重量・面積を取る多分なストラップの着用に、目にも止まらぬメール作成の速さ、それを彩るカラフルな絵文字にデコメールと、その活用度の高さは、一般的女子のさらに上を行く。


 狩屋の携帯の使い方は、葵のものより幾分シンプルだ。当然と言えば当然かもしれない。性別ゆえの興味と意欲の差だ。だが、彼も周囲の生徒たちと同じく、なんの違和感もなく携帯電話を所持しているし、普通に使いこなしてもいる。休み時間にカチカチと操作しているのを見たこともある。見知らぬ土地で迷子になった天馬や伸助を探すため、非常に不本意そうに通話ボタンを押す姿も見たことがある。

 今まで、アドレスや番号を交換しようという話にならなかったのも不思議な話だ。二人はクラスメートで、同じサッカー部の部員とマネージャー。仲が悪いわけでもない。同学年のよしみで、よく言葉も交わす。人から関係性を尋ねられた際に、胸を張って「友達だ」と言い切れるくらいには、それらしい付き合いをしているつもりだ。

 ならば何故、と問われた場合、葵が返す答えとしては、

「タイミングが合わなかったんだと思う」

 ――この一言しかない。意図的に避けていたのではない。それはおそらく狩屋の方も同様だ。ただタイミングが合わなかった。一年生のメンツで携帯の情報を交換し合おうという話になった時、狩屋がちょうどその場にいなかっただとか、後日、天馬たちがすでに狩屋のアドレスを半ば無理矢理ゲットしていることを知って、いまさらだと思ってしまっただとか、言えばその程度のものだ。

 焦ることでもない。いつか自然な流れで「アドレス交換しようよ」と言う日が来るだろう。葵はそう考えていた。


 ――しかし、その時は予想だにしない形で現れた。

「俺、空野さんのこと好きなんだ」

 夕陽を背に、狩屋 マサキは消え入るような声で言った。俯いた顔は表情を見分けることが難しく、逆光ということもあって、狩屋がどんな面持ちでそう言ったかはわからない。けれど、冗談で言っているわけではなさそうだった。雰囲気に呑まれたのではない。狩屋の声が真剣だったからだ。

 ドクリ、と心臓が脈打つ。ふいに、逃げ道がないような錯覚に襲われた。この世界に狩屋と二人だけ取り残されたような、不可思議な寂寞感にみまわれた。葵は急に、泣きたいような、心許ない気持ちになった。


「それって……恋愛的な意味で、だよね?」

 一応の確認で言うと、狩屋は黙って頷いた。実感すると、さらなる気恥ずかしさで、顔が熱くなる。

「その、き、気持ちはうれしいよ」

 たどたどしく言うと、狩屋の肩がピクリと動いた。葵もそろそろ顔を上げていられない。

「でもいきなりでビックリしちゃって……ちょっと混乱してる。考える時間がほしいんだ。少し待ってもらってもいいかな?」

 服の裾をいじったり、髪を耳にかけたりとせわしなく動きながら、葵はなんとか言い終えた。あまりに突然な告白に、今すぐには的確な答えが出せそうにない。こんな気持ちで中途半端に流してしまっては、本気を告げてくれた狩屋に失礼である。考える時間がほしい。


 「わかった」と、狩屋は小さな声で呟いた。

「待ってる」

 その姿があまりに普段の強気な様と違って弱々しかったものだから、つい葵の余計な癖が出てしまった。

「ねえ、狩屋。メールアドレス交換しない?」

 狩屋の思考が止まったのが、傍目にもよくわかった。

 ふいに口走った提案に驚いたのは、葵も同じだった。つい、フォロー癖というか、お節介な性分が顔を出してしまった。しかし、いまさら後には引けない。葵は、自身を奮い立たせるように、必死に面を上げた。

「私、狩屋のことをもっとちゃんと知りたい。ただの友達より、もっときちんと狩屋のことを知って、それから答えを出したいの。じゃないと、もしかしたら重要なことを見失っちゃうかもしれない。だからまずは、そこから始めたいなと思う。どう?」

 いかにもそれらしいことを言う口に、葵は自分のことながら感心した。実際は、この空気にいたたまれなくて、ほんのわずかでも、彼になにかを与えたいと思っただけなのだ。


 狩屋は少しの間、そこに棒立ちになっていたが、やがてその手が鞄を開けた。彼が鞄をあさる時間が、妙に緊張感に溢れてならなかった。

 スッ、と狩屋が自分の携帯を差し出す。どうやらそれがいっぱいいっぱいだったようで、葵はすぐさまそれを受け取った。彼女は聡い。

 狩屋を待たせないように、急いで彼の携帯に自分の番号とアドレスを登録する。狩屋自身の番号とアドレスも発見できたので、自分の携帯に赤外線送信しておく。その時間、約一分。

 他人の携帯を勝手に操作するというのはなんとも気後れするが仕方ない。さいわい、携帯会社が同じなおかげで、操作はスムーズにはかどった。

「ありがとう。メール送るね」

 携帯を返す手は震えていたし、声は上擦っていた。受け取る狩屋の手も震えていた。それがなんとなく、彼女をホッとさせた。

 狩屋は小さく首を縦に振ると、そのまま踵を返し、足早に立ち去っていった。結局一度も目が合わなかった。それでも、遠ざかっていく彼の背中が、夕焼けのせいにしては赤すぎる彼の耳が、嘘ではないと物語っていた。



 自室のベッドに寝転びながら、葵は今日の出来事を反芻する。予想だにしなかった狩屋からの告白。それについて、答えを出さなくてはならない。

 狩屋のことは嫌いではない。奥底をすべて知るほどには踏み込めていないが、ずいぶん素の態度を見せてくれるようになった。もう出会った頃のような、偽物の笑顔を纏った彼とは違う。本質を隠して柔和なキャラクターを作り上げていた、あの頃の狩屋はすでにいない。刺々しい物言いと、嫌みな笑みの浮かべ方。ひねくれた思考と、相反するようなシンプルな側面。なんだかんだと意地悪を言ったりするくせに、わりあい面倒見がよく、いつも微妙なところで苦労をしている。

 それが、自然な流れでだんだんと現れるようになったことが、葵はうれしかった。気付かぬうちに、「そういえば狩屋って初めはそうだったね」くらいの過去になるように、狩屋が本来の自分を出すようになったことは、とてもよいことだと思えた。そして、誰もそれを不自然に思って言及したりしない、サッカー部のみんなが好きだった。絶対に口に出すことはしないが、きっと狩屋もそうだろう。

 狩屋はサッカーがうまい。その攻撃的なプレイスタイル、ボールに対する執念とも言える食らいつき方は、泥臭くも、見る者を熱くさせる。物事を素直に見ることの少ない彼が、サッカーに関してだけは、真正面から向き合ってボールと対峙する。サッカーが好きだという気持ちには、彼は嘘を吐かない。

 そんなふうに、狩屋のことをたくさん知ってしまった葵は、やはり迷う。恋をしているとは言えない。だが、間違いなく狩屋のことは好きだから、無碍にすることに躊躇いを感じてしまうのも事実だった。

 ――でも、そんなんで付き合っちゃっていいのかな。

 軽んじてはいけないと思っているからこそ、応えることも、ごめんなさいすることも決心できない。どっちつかずでぐらついて、真摯な彼を傷付けることだけはしてはならない。けれど、どちらにも偏れないから困っている。


(――でも……)

 あの狩屋があんなふうになって自分に好意を伝えてくれるなんてと思うと、胸がキュンとした。初めて受けた愛の告白というものにもときめいた。この胸の高鳴りがどういうものによるのか、それすらわからない。だから、メールの本文一つ考えられないでいる。

 結局、この日はそのまま眠り込んでしまい、作成中のメール画面だけが、いつまでも残っていた。


 翌日のことだった。いまだに葵は思考の迷宮をさまよっていた。狩屋のことが気になって、朝の練習はミスを連発。同じクラスにいるため気を休める暇もなく、また共通の友人がいるため、話す機会も多い。まったく、心身をすり減らしてくれるものだ。

 しかし、狩屋の方も同じなのか、目に見えてギクシャクしていた。できるだけ葵を視界に入れないように努めているし、会話をはかるなどもってのほかというかんじで、距離を取っている。身勝手なことだが、少し寂しい気持ちになった。おかげでまた悶々と思い悩む結果である。

 昨晩と同じような思考を堂々巡りしていると、

(……あ、狩屋だ)

 頭を悩ませる張本人の姿が、遠目に見えた。


(一緒にいるの、誰だろう)

 狩屋の隣に、見知らぬ女の子が立っていた。他のクラスの子だろうか。見覚えがない。あるいは先輩かもしれない。まっすぐな黒髪を肩まで伸ばした、色の白い人だった。


 なんの話をしているかは、もちろんわからない。狩屋はこちらに背を向けているため、表情は窺えないが、女の子の方はずいぶん楽しそうだ。ニコニコと効果音が付きそうな笑顔を振りまき、心なしか頬も紅潮している。

 下世話だとわかっていたが、その光景から目が離せなかった。足から地面に根が張ったように、身動き一つ取れない。もっと近付いて、どんなことを話しているのか聞き耳を立てたかった。自分を弾くように形成されているあの空間に、腹の底から乾いた空気がせり上がってくるような心地になった。


 女の子がポケットをあさる。どこか恥ずかしげに顔を上げると、その手の中のものを狩屋の前に出した。

 遠目にも、白い小さな紙だとわかった。あの状況でまさか「これ、前期テストでの私の成績。優秀でしょう?」なんて自慢をするわけなかろうし、「昼休みまでにここに書いてるもん買ってうちの教室まで届けろよ」なんて、堂々たるジャイアニズムを発揮しているわけでもないだろう。そうでなければ、いくら女の子が相手だからといって、狩屋があからさまにあたふたして、助けを求めるように辺りを見回したりはしないはずだ。

 察するにあれは――


「えっ、えー、あー……」

 狩屋の声が聞こえる距離まで近付いた時には、女の子としっかり視線がかち合っていた。

 早足で歩み寄った勢いのまま、狩屋の腕をガシリとつかむ。飛び上がって驚いた狩屋は、反射的に腕を引こうとした。しかし、振り返って葵の姿を認識すると、込められそうになった力は途端に萎れた。


 葵は彼の腕に両手を絡め、目の前の女の子を見据えた。

「ごめんなさい。こういうことなの」

 毅然として言い放つと、女の子は「えっ、なに」と目を白黒させた。

 ふと、暖かい温度が手の甲に触れる。自分のものではない掌が、葵のそれを包んでいた。

「そういうことだから……、ごめん」

 消え入るような声で呟き、狩屋は躊躇いがちに女の子を見た。

 女の子は、しばし意味がわからないというふうに葵と狩屋を見比べていたが、やがて悲しそうに目を伏せ、二人の前から走り去った。


「…………」

「…………」

 ひどく気まずい沈黙が流れる。洗濯機の中でまぜこぜにされたような空気のまま、葵が先攻を買った。

「ごめんね、邪魔して。あの子にも悪いことしちゃった」

「……や、断るつもりでいたから助かった。あのさ」

 狩屋が口を開いて閉じてするのが、近い距離で見えた。

「あれって、俺に都合よくとっていいわけ?」

「いいよ」

 頷く葵も真っ赤だったが、狩屋はそれの比ではなかった。お互いに顔も上げられないまま、それでも繋いだ手は離せない。廊下を通る生徒たちが、ヒューヒューと安っぽいひやかしを浴びせてくる。狩屋の掌は、汗ばんで、暑かった。


「今日は、メール、送るね」

「俺も送る」

「ちゃんとカテゴリー分けといてね。“彼女”って」

「…………わかった」

 この有り様では、そんな大胆なことをできそうには見えないが、それでも狩屋が逆らうことなく頷いてくれるのがくすぐったくて、葵はえへへとはにかんだ。






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