※ボツネタ
※未完
行き先も告げず、神童 拓人は山菜 茜の手を取った。すべてを無視するような無遠慮な手は、茜の中の神童のイメージと少しばかり食い違っていたが、目の前にいるのは、間違いなく想い人の神童 拓人だった。
朝からいやに晴れていて、初夏というには汗が滲む陽気だった。制服をわずかに湿らす汗に、茜はデオドラントを振ってくるべきだったと後悔した。しかし、彼が茜の匂いを感じるほど近くに来ることはないから、汗臭いと眉を顰められたりはしないはずだ。女子としては、それでも不安感と不快感を拭えないものだが、ないものは仕方ない。茜はそう自分を納得させた。友人の瀬戸 水鳥にも尋ねたが、やはり「まだ買ってもねーよ」という答えが返ってくるだけだった。
夏にはまだまだ早い、5月の中旬である。緑の葉は青々と生い茂り、命の息吹が葉露となって香ってきそうなくらいだ。
――今日はこんなに暑いのに大変。
人が聞けば「他人事だな」と揶揄しそうな台詞を胸中で呟きながら、茜はサッカー場の傍に佇んでいた。もちろんサッカー部員でない彼女にとって、陽の下でダラダラと汗を流す彼らの姿は他人事でしかない。その他人事の中にポツンと、確立された存在がある。神童 拓人だ。ゆるいウェーブのかかった髪は、汗も湿気も、激しい動きさえもろともせず、柔らかそうに揺れている。その姿に合わせて視線を右往左往しながら、茜は手に持ったビビッドピンクのカメラを掲げ、フレームを覗き込んだ。四角い画面の中に映るのは、今日も神童 拓人ただ一人だ。
山菜 茜の定位置は、いつも彼の人から一定の距離を保っている。簡単に言えば、フィールドと観客席の遠さである。目の端に映っても、認識されることはない。また、彼は女の子に人気があったため、自分に好意を持つ不特定多数の女子に、いちいち反応したりはしないようだった。おごっているわけではない。彼にはもっと大事なものがあるのだ。茜にはよくわからない、サッカーというもの。もっとも、茜がサッカーのルールや人数や試合形式をまったく知らなかったのはとんと前の話で、今ではテレビに映るワールドカップの試合になんだかんだとコメントを入れられるだけの知識を有している。これだけ毎日通っていれば、嫌でも覚えるというものだ。何が楽しいのか、その先に何があるのか、それはまだわからないのだが。
「ストップ!」
ふいに鋭い怒声が飛んで、グラウンドを駆ける部員たちが動きを止めた。つられて、茜も声のした方を見やる。
「速水、今のはもう少しパスのタイミングを早めるべきだ。南沢さんは足が速い。タイミングが遅ければ、そこにタイムラグが生じる。効率が悪い。FWの上がり具合を見て、コースとタイミングを調整しろ」
「は、はい……すみません……」
速水は眉を下げ、しゅんと肩を落として頷いた。同級生だというのに、彼は妙に腰が低い。その口調と、いつもおどおどとした態度とが、余計に気弱そうな印象に拍車をかけている。
「もう一度!」
神童の声が空気を裂き、部員たちはまた己の持ち場へと帰っていった。練習が再開され、雷門のユニフォームを着た少年たちは、再び縦横無尽にボールを操る。
茜にはわからない。どこを見ても、誰を見ても、みんな上手にサッカーをしているように見えるのだ。どこが悪いのかわからない。神童のアドバイスに従った速水が、パスのタイミングを早めたのか、それすら判別がつかない。やはりまだ、レベルの高い話には付いていけないようだ。
動き始めた神童を見て、茜はまたシャッターを切った。サッカーをしている時の神童は、いつも厳格ささえ漂わせる凛々しさで、格好よかった。そのプレーは、素人の茜にも「すごい」「鮮やか」「見事」だといわしめる、圧倒的な技術の高さだった。それなのに、何故か神童はいつも不機嫌そうだった。本当に不機嫌なのかは知らない。真面目に打ち込むがために、真剣な表情になっているだけかもしれない。それでも、茜の目には神童はいつも機嫌が悪そうに見えた。発散しきれない鬱屈や胸のつっかえを唇を噛んで耐える、そんな顔をしていた。
そのせいで、茜がおさめてきた数多の写真にも、神童の表情のレパートリーは少ない。少しだけ微笑んだものや、チームメイトの健闘を称えるものもなくはなかったが、唇を引き締めて目を伏せている写真の方がずっと多かった。
茜は、もっと神童のいろんな顔が見たかった。微笑むより大口を開けて笑い、チームメイトとふざけてじゃれているような写真を撮りたかった。神童の真の明るさを知りたかった。だから、毎日サッカー棟まで足を運び、神童の姿をカメラで追った。しかし、芳しい成果は一向に上がらなかった。
そんな、変わり映えのしない毎日の、なんの変哲もない、ある日だった。
――どうして、シン様がここにいるの。
ぼんやりと、それでも彼女ながらの驚きを瞳に宿し、茜は目の前に立つ少年を見上げた。つかつかと、茜に向かって一直線に進んできたのは、憧れの神童 拓人その人だった。きゅっと唇を横一文字に結び、目尻をグッとつり上げた彼の顔には、“思い詰めた”という言葉がぴたりとはまった。
どうしたのだろう。そろそろサッカー部の練習が始まる時刻だというのに。彼は制服姿で、まさに今から帰宅しますと言ったかんじだ。小さく首を傾げる茜を半ば睨みつけるように見て、神童は強引に茜の手首をつかんだ。有無を言わせぬ力強さで、彼女の手を引く。足がもつれそうになりながら、茜はその手に従った。
神童はびっくりするほど足が早く、ぐいぐいと風を切るように進んだ。歩いているのに、その脇目も振らぬ進み方は、目が回りそうなほどであった。茜が小走りになってようやく同じスピードになる。
ものすごく背丈に高低差があるわけでもない。神童は運動部故に贅肉がなく、そのせいもあってかわりと華奢な印象を他者に与える。だが、女の子のような優しい顔立ちをした彼の手は大きく、おそらく茜より何倍も強かった。この手に押さえつけられてしまえば、きっと茜には何もできないのだろう。異性として彼に恋慕の目を向けていたというのに、今初めて、茜は神童を“男”だと認識した。
彼がどこに行こうとしているのか、茜を連れていってどうしようとしているのか、考えてもわかりはしなかった。なんの前触れもなく、彼は来たのだ。口を利いたこともない。茜が毎日写真を撮っていることも、へたをすれば知らないかもしれない。それでも神童は茜の手を引いた。
背後に遠ざかっていく雷門の雷マークが、春の日のようにぼやけて見えた。対比するように空は透き通って青く、遠くなるほどその色を薄くした。なにもかもが綺麗で、晴れた良い日だった。気持ちのいい天候と重なって、逆にいろいろなものが曖昧になった。
――逃げてるみたい。
そこで、うつろに思い至る。もうすぐ部活が始まるというのに、キャプテンである神童が、その時間帯に学校を後にしているというのはいかがなものか。
茜は目線を前方に移した。ピンと伸びた神童の背中は、何者をも寄せ付けないオーラを発していた。行動をしたのは彼の方なのに、まるで拒否されているかのごとく、取り付く島もない雰囲気であった。茜は彼に行き先も訊けず、部活を休んでもいいのかと尋ねることもできなかった。二人はどんどんと学校を離れ、もうとっくに雷マークは見えなくなった。どうやら、駅の方向に向かっているらしい。
きっと、まったくもって大丈夫ではないのだろう。今頃サッカー部の部員たちは、神童の不在に首を傾げ、なにかあったのではないかと心配し――、部長でありながら無断で部活を欠席するなんてと非難しているかもしれない。普段、一生懸命部活に勤しんでいる神童が、こんなことで見方を変えられるのは嫌だった。それなのに、彼はあいかわらずずんずんと足を進めているし、茜は迫力に押されて何も言えない。マイペースな性分は、案外一度崩されると、立て直すのが困難になる。
「シン様、お金」
予想通り、たどり着いた先は駅のホームだった。神童は、迷わず券売機の前まで行くと、久方ぶりに茜の手を離し、鞄から財布を取り出した。千円札を何枚か入れる。指先が一度止まって、光る駅名の真ん中あたりのボタンを押す。片道にしてはなかなかの値段だが、別段高すぎるわけでもない。茜の小遣いでも買えるものだ。だが、この金額で往復してしまうと、今月は財布の中身がかなり寂しいことになってしまう。頭の中で残りの日数と照らし合わせてみるが、これはなかなか、無駄遣いの許されない残金になりそうだ。
スッと目の前に、券が差し出された。きょとりとして見上げると、真面目な顔つきの神童と目が合った。もう一度、券を見る。神童は動かず、手を引こうとはしない。再び頭を上げる。以前、変わらぬ固い面持ちがあるだけだ。茜は券を受け取った。とった行動は正解だったのか、神童は黙って券売機に向き直り、同じ金額の券をもう一枚買った。ここまで来れば馬鹿でもわかる。茜は神童に“奢られた”のだ。
―――――――――――
ここまでです。フリリク文にするつもりでしたが、いろいろわやくちゃになったのでボツ。もっとさらっといきたい…
茜ちゃんがまだ神童の一ファンだった頃。天馬が入学する前。でもそうなると神童5月ですでにキャプテンなん…とか時間軸的にもいろいろ?なかんじ。やはりボツ。
イメソンはスピッツの「愛のことば」でした。茜ちゃんに縋って慰められたいだけのシン様。
← →
[戻る]