薄暗い廊下に、一筋の光が零れている。ぼんやりと視線を引き上げながら、秋山 千洋は思考する。

(いっちゃんまだ作業しとんのか……)

 眠気まなこををしぱしぱさせつつ、千洋はそっと踵を返した。ちらりと時計に目をやってから、彼はキッチンのドアを開けた。


      ・


 なめらかな白のマグカップを一つ手に持ち、千洋は光の漏れる半開きのドアを開けた。部屋の一番奥、大きめのデスクに向かう、なにものをも寄せ付けない小さな背中があった。

「いっちゃんまだ起きとったん」

 声をかけると、その背中がビクリと動いた。よほど集中していたのだろう。慌てたようにくるりと椅子を回して、有田 苺は振り返った。

「ちーさんこそ。もう3時ですよ」

「トイレ行くのに目ぇ覚めたんや。そしたらいっちゃんの部屋の明かりついとったから。ごくろうさん」

 言いながら近付いて、千洋はマグカップを苺の机に置く。砂糖がすこし入ったホットミルクだ。眠気効果があるものを選んだのは彼なりの策略であるが、同時に彼女から少し離れた所に置いたのは、邪魔にならないようにという配慮のつもりである。

「気、遣わせちゃったみたいですね……すみません」

 意志の強いキリリとした眼差しが、わずかに下を向く。「そんなんえーよ」千洋は眠気のせいで平素よりか幾分ゆるい笑みを浮かべ、苺の頭に手を置いた。彼女の手元を見れば、描きかけのデッサン画が数枚、散らばっている。たいてい、デザインは双子で相方の花楓と行うことが多いのだが、互いが忙しくなった最近では、こうして単独で考える姿もよく見受けられる。

「でも、あんま無理しすぎんでな。体壊したら元も子もないんやから」

「はい。ありがとうございます」

 わしゃわしゃと、ひととおり苺の柔らかな髪を堪能する。初めて会った頃にはショートヘアだった髪が、今は伸びてサラリと背中へ流れている。これが誰のために伸ばされたものか、千洋はきちんと理解していた。

 口元を綻ばせながら頭を撫でる千洋を、苺は困ったような、照れたような表情で見上げていた。こういう時の顔はいつでもあどけない。気が強くて、意志が強くて、言葉がキツくて、けれど気を許してしまえばどこまでも他人思い。強引にお節介だったり、妙なところでひかえめだったり、いろんな姿を今日まで見てきた。

 流れるような動作で、千洋は苺の小さな唇を啄んだ。3秒ほどのフリーズを経て、有田 苺の脳天あたりが爆発した。

「なっ……!」

「おやすみのチュー」

 もちろん語尾にはハートマークが付いている。

「なっ、なっ、なっ、なにをいけしゃあしゃあと……! い、今ので考えてた案吹っ飛んでっちゃったじゃないですか!」

「そしたらもう夜も遅いし、寝よ? このちーさんが添い寝したるさかい」

「い・り・ま・せ・ん!」

 超絶に赤面した状態のまま、苺は千洋を部屋から蹴り出した。「ほんっとタチ悪い」という呻き声もセットで。付き合っているのだから、これくらい許容してくれたっていいのになぁというのが千洋の意見だが、彼も彼女も自身の仕事に熱意と矜持を持っている。応援こそすれ、邪魔などできるはずもない。千洋はやれやれと立ち上がった。

「じゃあ俺もう寝るでー。いっちゃんもあんま無理せんでなぁ」

 すると、歩き出した千洋の背後で、カチャリとひかえめな開閉音がした。振り返ると、ドアの隙間から目元だけ覗かせて、苺がこちらを見ていた。

「あの……ミルクありがとうございました。おやすみなさい」

 それだけ告げると、ドアは再びバタンと閉まった。最後に、赤く染まった苺の残像だけを置いて。

 千洋は廊下に立ったまま、今すぐ彼女をベッドに引きずり込みたい衝動を必死にこらえていた。




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数年後、同棲設定の千洋と苺。




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