童心を忘れないのは良いことだと思う。
しかし、童心という言葉が指す行動や言動にはかなりの幅があり、そして人にはその許容範囲というものがある。つまり、大学生にもなって滑り台に登り、そこからこちらに向かってブンブン手を振ってくる男に、少し恥ずかしい気持ちになったりはするのだ。
尾浜 勘右衛門は、ニコニコと笑いながら手を振り続けていたが、あやかが棒立ちのまま動こうとしないのを見て、きょとりと首を傾げた。「どうしたの」と言わんばかりの表情に、どうしたもこうしたもないと、あやかは肩を竦める。離れたところには、小さな男の子を連れた母親がいた。男の子は、あやかたちを不思議そうに凝視していて、母親はなんとも言えない苦笑のような表情で、我が子の手を引いた。
横目でそれを見、あやかは小さく嘆息する。すると、そういったことは妙に目敏い勘右衛門は、スーッと滑り台を滑った。
「どうかした?」
目の前まで来て、勘右衛門は尋ねる。邪気のない顔をジト目で見つめると、彼は困ったように眉を下げた。
別に、咎める気はないのだ。いい歳して、とか、年上のくせに、とか、今はデート中ですよ、とか、いろいろ思うところはあっても、それはただ自分のワガママに過ぎない。天然で、おっとりとして、気が優しい、勘右衛門の気質をよく理解しているから、それを否定するようなことはできるだけ言いたくない。それは、勘右衛門があやかのお節介な性格や、世話焼きなところを面倒くさいと切り捨てないのと同じことだった。だから彼女が勘右衛門に投げかけるのは、「あれ、楽しいですか」という微妙に焦点をずらした台詞だけだった。
「うーん、なんかね、子どもに返ったみたいで新鮮だったよ」
「本当の子どもが不思議そうに先輩を見てましたけど」
「あれっ、本当?」
そう言って「あははー」と笑う。呑気な笑顔は相も変わらず呑気なもので、あやかは不満やら何やらがすうっと消えていくのを感じた。残ったのは「しょうがないな」とため息を吐く、呆れの気持ちだけだった。勘右衛門がこうなのは前から知っているし、だからこそあやかは勘右衛門を好きで、だからこそ自分たちはうまくやれているのだと思う。わりあい口うるさく言ってしまう方なので、同じようにちゃきちゃきとした人では、きっと喧嘩になってしまうだろう。勘右衛門のこの気楽さと脳天気さがあって初めて、二人のお付き合いは成立するのだ。
「ごめんね」
そう言って、勘右衛門はあやかの頭を撫でた。薄く微笑んでいる。適わないなぁ、と思った。なんだか悔しくて、あやかはマフラーに顔を埋めた。零れた息が白く煙って、勘右衛門の姿をぼかした。
こんなに脳天気で、こんなにおっとりしているけれど、彼は疎い人間ではなかった。むしろその逆で、笑顔のその下でいろいろなことを思案しているような聡い人間だ。空気や他人の顔色にも敏感だし、実際よく気が付く。言わなくとも、心の内を見透かしてしまう。きっと、あやかの面持ちから心中を見抜いたのだろう。この「ごめん」は「恥ずかしい思いをさせたね、ごめん」ということなのだ。まったく、末恐ろしい男だと思う。
彼がこんなふうに大人だから、あやかも子どもになりきれない。どんなに子どもっぽく振る舞っても、勘右衛門が根本で冴えた人間だということを知っているから、エゴイズムを貫いて困らせるのはみっともないと思っている。
勘右衛門のこういうところは、いつでもあやかを現実に引き戻すような気がした。それと共に、ビックリするほど夢心地にもした。勘右衛門は、いつでも自分には手の届かない場所にいるように感じた。しかし、そのたびに彼が手を伸ばして、やんわりと、有無を言わさず、引っ張ってくれるから、あやかは迷わずに勘右衛門だけを見ていられる。それが彼なりの技だと知ってはいるが、素知らぬふりをして傍にい続けている。はたから見れば、あやかも充分聡い女だった。
ぶるりと震えがきた。マフラーも手袋もしているが、それでも寒い。もうすっかり冬になってしまった。
「寒い?」
勘右衛門が言った。
「少しだけ」
あやかは言った。いつまでもぶすくれていては失礼だと思ったので、この機会に少しだけ笑う。
勘右衛門はキョロキョロと辺りを見回すと、
「あ」
公園の入り口付近で視線を止め、
「なんかあったかいものでも飲もうよ。俺買ってくるね」と笑った。見ると、なるほど自動販売機の赤いボディが、寒々とした景色の中で目立っていた。あやかは微笑んだ。これもやはり、彼なりの気遣いなのだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「オッケー、何がいい?」
「なんでもいいですよ」
そんな、意味はあるけれど意味のない会話をして、勘右衛門は自販機に向かって行く。その背中を見つめる。パッと見は、街でヒップホップでも踊っていそうないでたちの青年だ。昔は、女の子との噂も多かったらしい。それが今では、あやか一人だけと関係をあたためているのだから、人とはわからない。
自分に特別な力があるとは思えなかった。今まで勘右衛門と付き合った女の子たちは、きっと少しばかり彼を理解しきれなかっただけなのだろう。笑顔の裏に漂う寂しさや、優しさの中に隠された厳しさ、無関心の奥に潜む愛を、汲んであげることができなかったのだ。あやかには、それが少なからずできるから、勘右衛門は彼女を選んだ。それだけの話なのだ。それができるのなら、別に自分でなくてもよかったのだ。
「なーに考えてるの」
近くで声がして、あやかはビクリと飛び上がった。面を上げると、缶コーヒーとペットボトルのお茶を両手に持った勘右衛門が、あやかを見ていた。
「ああ、いや、なんでも。ありがとうございます」
笑ってごまかし、飲み物を受け取ろうとしたが、彼の瞳がそれを許さなかった。ジッと、あやかの真意を読み取るように見つめてくる。気付いてほしいが、気付いてほしくなかった。そんな相反する感情に苛まれて、目を伏せた。
――その瞬間、柔らかく、あたたかいものが唇に触れた。目の前には勘右衛門がいて、それはとても近くて、二人はキスをしていた。いつもより、ほんの少し長いキスだった。味はしなかったけれど、なんだか無性に優しいキスで、鼻の奥がツンとした。見上げると、勘右衛門は目を細めて、それから彼女を抱きしめた。優しい人だ、と思った。自分はもう、この人がいないと駄目なのかもしれない、と思った。
「お茶なら家に帰ればあるのに、非経済的じゃないですか?」
「あやかちゃんはほんとしっかり者だねぇ。お姉ちゃんっぽい。弟とかいる?」
「一人っ子ですよ」
「あれ、俺と一緒だ。あのー、前に会った男の子……三治郎くんだっけ、は?」
「三ちゃんは従兄弟です。まあ、ずっと一緒にいたから、確かに姉弟みたいなかんじですけど」
「そうなんだー」
素直に「好きです」とは言えなくて、可愛くない言葉で照れ隠しをしても、彼は怒らない。全部わかって、受け止めてくれる。そんな彼の優しさに甘えきってしまいたくはないので、あやかはいつも正直に言う努力をしているのだが、勘右衛門がいつも先回りをして理解してくれるものだから、言葉は尻切れ蜻蛉のままだ。
せめてほんのわずかでも、彼女が勘右衛門を想う心の百分の一でも、彼に伝わればいい。滑り台から手を振るよりずっと恥ずかしい姿をさらしながら、あやかは勘右衛門の背中に手を回した。
▽元拍手文
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