「卯子ちゃん、今度デートしようか」

 なんの脈絡もなく、するりと伊作が言葉をよこしたから、卯子はその意味を理解するまでに少々の時間を要した。緩慢な動作で膝に乗せていた料理本から目を上げ、「はあ……いいけど」と気の抜けた返事をする。彼女の承諾にニコリと微笑んだ伊作に、卯子は不思議に思って首を傾げた。

 二人はもう、余計な窺い立てのいらない付き合いであったから、普段出かける際には、「新しい服を買うのに付き合って」だとか「この間言ってた映画を見に行こう」だとか「なにかおいしいものでも食べに行かない?」だとか、そんな目的だけを告げるような誘い方をしていた。気心が知れているからできることであって、今ではそれが当たり前となっていた。それをわざわざかしこまって「デートしよう」だなんて。一体どういう風の吹き回しだろう。

 交際を始める前、初めて彼にデートに誘われた時のことを思い出した。あの時よりずっと、伊作の声は落ち着いていたけれど、その優しい甘さは今もなお変わらなかった。疑問を持つと共に、卯子はトクンと脈打つ胸を心地よく思った。たまにはそんなこともあっていいよなと、喜ぶ心を抑えるように唇を噛んだ。


「でも伊作先輩、お仕事は?」

 すると伊作は、笑みをさらに得意げなものに変えて、

「実は明日から連休をもらったんです!」

「え、まさかとうとう不運こじらせてクビんなったの」

「なんで!? 違うよ! 僕いま『連休もらった』って言ったよね!?」

 目の前に掲げたVサインむなしく、卯子のキツい一言が伊作に突き刺さった。そんな伊作に、心底真面目そうな顔で卯子は頬に手を当て、

「よくある、干されたサラリーマンの言い訳かと……」

「やめてよ縁起でもない! その後からいろいろ忙しくなるから、その前にって休ませてくれたの!」

「ああ、そうなんだ。そっか、年度末だもんねー。……ん、でも保健の先生って年度末とか関係あるのか」

「これでもいろいろ大変なんだよ。だから、その休みが終わったらね、しばらく会えなくなるんだ」

 寂しそうに申し訳なさそうに伊作が零した台詞に、卯子もつい表情を曇らせた。

「そっか……、そうだよね、うん」

「ごめんね」

「いいよいいよ、しゃーないじゃん。我慢する」

「ありがと、卯子ちゃん。ねえ、だから、明日からの連休はパーッと遠出しようよ」

「遠出って……先輩、車持ってないじゃん」

「レンタカー借りるよ」

「おー! じゃあ、あたし、バイト先に休むって連絡入れなきゃ」

「あ、そっか……大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫。こないだ友達が彼氏と旅行行くのにシフト変わってあげたからさー。多分変わってくれるよ」

 ニシシ、と悪戯に笑うと、伊作も歯を出して笑った。健康的で眩しい、白い歯だった。


「どこに行く? 卯子ちゃんはどこに行きたい?」

「そうだなー、なら普段行けないようなとこにしよっか。海とか!」

「ベタだねぇ」

「なにぃ!?」

「いやいや、うん、いいね海。よし、海にしよう」

 一人で納得するように言って、さっそく伊作は携帯でマップを検索し始めた。わくわくと効果音が付きそうな背中に向かって、卯子は「よかった」と呟いた。

「なにが?」伊作が肩越しに振り返る。

「だって最近、あんまり学校の話してくれなかったじゃない。前は毎日のように『あんなことがあった、こんなことがあった』って報告してきたのに」

「あはは、そうかなぁ」

 困ったように後ろ頭を掻く伊作に、卯子は形ばかりの吐息を吐いた。こういうふうに伊作が答える時は、たいてい言いたくないことがある時なのだ。ごまかすように笑って、シラを切ろうとする。けれどそれはいつも、後ろ暗いというよりは、何かを守ったり、人を不快にするから言いたくないという、なんとも彼らしい理由だったりするから、卯子はそれ以上突き詰めるのはやめにした。

 働くというのが楽しいばかりでないことは、卯子だって重々承知している。この菩薩のような慎ましく優しい心の持ち主でも、時には目を背けたくなるような辛い憂き目に遭ったりもするのだろう。昔なら、根掘り葉掘り尋ねたかもしれないが、卯子だって大人になった。もう初めて会った時のような中学生ではない。他人の領域に入りきらない加減、踏み込んでいい上限、救われたい時に手を差し伸べるタイミングなどは、理解しているつもりでいた。すべて伊作から教わったことだ。だから、伊作が訊かれたくないというのなら訊かない。たとえ恋人同士であったとしても。

 だから卯子が向けるのは、「明日楽しみだね」という言葉と笑顔のみだった。


 そして次の日、約束通りレンタカーを借りた伊作と連れ立って、卯子は海に行った。季節的に泳ぐことはできなかったので、二人で浜辺を歩いたり、夕陽に染まる海を眺めたりした。その近くに建つ旅館に泊まり、温泉に入って、海鮮料理をたらふく食べた。その後は、キスをして、抱き合って、セックスをした。普段より伊作が情熱的で、卯子はドキドキしたものだ。そのまま伊作の腕の中で眠り、伊作の腕の中で目覚めた。びっくりするくらい幸せで、なんだか卯子は頭の芯がぼうっとした。意識がすっと落ちていくような、目の前に靄がかかるような、盲目な幸せ。

 「ずっとこのままでいたいね」と夢見がちなことを言った卯子を笑いもせず、伊作は「本当だね」と言った。やっぱり、自分はまだまだ子どもなんだなと、目の前のこの人は大人なんだなと、痛感した。卯子は、伊作のこういうところをたまらなく好きで、好きで、時々どうしたらいいかわからなくなった。胸の内から溢れる想いで、この身が爆ぜてしまうのではないかと危惧したほどだ。どれだけ言葉を重ねても、どれだけ体を繋げても、この気持ちは伝えきることができないのだと感じた。おそらく、長い年月の中で注ぎ続けるしかないのであろう。惜しみなく、飽きることなく、彼一人に。そんなことを思いながら、卯子は伊作の背中をギュッと抱いた。


 小旅行から帰ってきてからは、本当に伊作とは会えなくなった。電話とメールだけはちょくちょくしていたが、それもある日を境にパタリとこなくなった。そして、それから約一週間経ったとある午後、卯子の元を意外な人物が訪れた。

「伊作は死んだよ」

 食満 留三郎は、つり上がった三白眼を暗く澱ませて、そう告げた。こちらのことが見えているのか甚だ疑問に思うような、うつろな目つきだった。彼は今から葬式にでも行くような、真っ黒の喪服を着ていた。玄関先で彼と対峙した卯子は、めずらしい懐かしい来客に目を丸くしながらも、とりあえず上がって、とスリッパを取り出すところだった。昔はこんな気配りもできなかったし、どちらかと言えば「そんなお上品なもん履いてらんねーよ」というタイプだったから、よくこの食満には「ガサツ」だの「もっとおしとやかにしろ」だの言われたものだ。けれど、伊作と卯子の恋路を一番応援してくれたのもこの男であり、彼の存在がなければ二人の恋は成就しえなかった。食満は伊作の一番の親友で――

 いや だから

 今 彼は何を言った?

「え……?」

「伊作は死んだよ」

 もう一度、まったく同じ台詞を言った食満の声は、先程よりずっと細く苦しげだった。絞り出したとしか言いようのない声音だった。突然、目の前が白くなって、足が冗談のように力をなくした。へたり込んだ視界に映るのは、血が滲みそうなほど握られた食満の手だった。


 夢でもエイプリールフールでもなく、本当のことのようだった。その夜、半ば引きずられるようにして連れていかれたのは、白と黒の沈鬱とした鯨幕の張られた、どう見ても通夜の会場としか言いようのない場所だった。壇上には遺影が飾られており、卯子の愛しい人とそっくりな人がその中で笑っていた。学生の頃から見知っていた顔が次々と焼香の列に並び、卯子を見るたびに目頭を押さえるか、顔を逸らして足早に通り過ぎていった。

 食満に手を引かれながら卯子も焼香を済ませ、席へと戻った。彼女の席は、身内の席から次に棺に近い場所だった。どうしてだかわからなかった。あの人は伊作ではないから、伊作は死んでなどいないから、どうか私をここから降ろして、と、そう言うことができればどんなによかったか。


『治らない病を患っていたそうでな。近頃はずっと入院したままだったらしいが……、何日か前に容態が急変して、一昨日の晩に息を引き取った』

 そんなこと知らなかった。だって伊作は、いつだって元気に笑っていたのだ。どんなに不運な目に遭っても、どんなに痛い思いをしようと、健康そうに笑っていたのだ。病気に罹っている素振りを見せたことなど、ただの一度もなかったのだ。

『ああ……俺も知らなかった。それどころかアイツ、身内以外の人間には誰一人としてそのことを明かしちゃいなかった。お前でさえもな。俺も、急に連絡がとれなくなったから気になって実家の方にかけてみたんだ。そしたら――』

『馬鹿な奴だよ、ほんと。「みんなを悲しませたくないから」って、それで死んでから知らされたって悲しまないわけねーのに……。気付いたらいなくて、もう会えないなんて、そんなのなしだろ』

『学校の方は、もう半年くらい前に辞表出してたらしい。「一身上の都合で辞めます」――だってよ』

 そんなこと初めて聞いた。だって、最後に会ったあの日、伊作は卯子に「連休をもらったから」と言ったのに。だから「デートしよう」と、いつもなら言わない誘い文句を付けて。

 伊作は優しい人だった。優しくて、優しすぎて、そのせいで損をしてしまうような人だった。けれど、彼がそれを嘆いたり、疎んだりしている姿は見たことがなかった。彼のその優しさにつけ込んで貶める人間も確かにいたが、一度だって恨み言の一つも吐いたことがない。

 卯子は昔、伊作のことを教科書で読んだマザー・テレサみたいだと思ったことがある。自己犠牲を厭わず、他人のためにすべてを投げ打って助けようとする。伊作の姿は、まさに彼女のそれと酷似していた。しかし、そのことを本人に伝えると、伊作は困ったように頬を掻いて、「僕はそんなにすごい人間ではないよ」と言った。「僕は、僕のために人を助けるんだよ」と。

 今、あの言葉の意味を少しだけ理解したような気がした。伊作だって、きっと辛かったのだ。いくら自分を差し出すことを厭わなくても、死ぬことは誰だって怖い。卯子がそうであるように。だから隠した。大事にされて、いろんな人から心配されれば、己の末路を見据えざるをえなくなる。助からない我が身を自覚せざるをえなくなる。もう二度と会えなくなるのだと、覚悟せざるをえなくなる。伊作だって辛かったのだ。特に彼は、そういう時、相手が悲しそうな顔をするのが、とても嫌いだったから。

 ――誰かが辛い顔をすれば、僕も辛いから――

 はたしてそれは、自分のためと銘打ってよい感情であっただろうか。はっきりとしたことは言えない。だが、伊作らしいと言えば伊作らしい、彼ならではのわがままだった。

 考えれば考えるほど、伊作との様々なシーンが、あふれんばかりに蘇って卯子の網膜を焼いた。学校の話をしてくれなくなったこと、デートをしようと言った彼の顔、卯子を抱く時の縋るような腕、額にキスをする時の泣きそうな笑顔、ずっと一緒にいたいねと言った声。彼はどんな気持ちで、卯子の言葉に頷いたのだろう。記憶を辿れば辿るほど、彼の端々に別れの兆候を見ていたような気がするのに、卯子はそれをすっかり見逃していた。もし、彼の後ろに見える儚げな逃避に気付くことができていたなら、助けることはできなくとも、「大丈夫だよ」と抱き締めるくらいはできただろうに。まるで、怪我人を治療する時の伊作のように。


 遺影が涙でぼやけた。いつも見ていたはにかむような明るい笑みが、まるで泣いているみたいに歪んだ。鞭で体をめった打ちにされても、ナイフで皮膚を切り刻まれても、今ほど心が痛むことはないだろう。

 もっと話をすればよかった。もっと話を聞いてあげればよかった。もっと一緒に歩けばよかった。もっと名前を呼べばよかった。もっと手を繋げばよかった。もっと抱き合えばよかった。もっとキスをすればよかった。もっと隣で眠ればよかった。

 こんなことになるとわかっていれば、もっと彼にいろんなことをしてあげたのに。

 伊作が好きだと言ったから練習したオムライスも、まだ食べてもらっていない。恥ずかしいからと言って、一緒にお風呂に入ることも、結局しなかった。セックスの時上に乗るのも、伊作は一度望んだことがあったけれど、卯子は断固拒否した。テレビに夢中になって伊作の声に返事をせず、温厚な彼がめずらしく怒って口を利いてくれなくなったこともあった。あの時のことを、卯子はまだ謝っていない。自分が悪いのに何故か逆ギレして、最終的には伊作の方が謝ってきた。しかも、お詫びのしるしにかわいらしいピンクの小石が付いたネックレスまで持って。そういえば、あのネックレスのお礼もまだ言っていないのだった。いつもそうで、最後には伊作がその海のような寛大さで卯子を許してくれるから、彼女はその優しさに甘えているだけでよかった。

 思えば、自分は彼に何を与えただろう。彼に与えてもらっただけのものを、返すことができていたのだろうか。


 涙で前が見えなくなっても、卯子は顔を上げたままでいた。だらしのない姿は、あの人には見せたくないと思った。最後くらい、格好のよい女でいたいと思った。凛と背筋を伸ばし、真っ直ぐに彼の目を見る。いつかの自分に今の自分を重ねて、卯子は背骨に力を入れた。

 ねえ、今の私は、貴方が愛した私ですか。

 遺影に写る恋人の姿は、やはりいつもの優しい笑顔だった。




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