女の子だから、「かわいいね」や「綺麗だね」と言われるのは、悪い気はしないものである。大概の場合はお世辞や社交辞令であるが、それでも、わかっていても気分がよくなってしまうのが女というものだ。特に、特別な変化があった時。たとえば、新しい簪を買った時だとか、お気に入りの着物を着た時だとか、いつもより念入りに髪をとかした時だとか。そういう時に、誰かしらが「かわいいね」と言ってくれたら、その日は万事がうまくいくようなふわふわした気持ちになる。気付いてもらえたことがうれしくて、本当に自分がかわいくなったような錯覚をする。錯覚だろうとなんだろうと、それが乙女というものには大事なものなのだ。
だが、しかし──。
「猪々子ちゃんはかわいいよね」
この尾浜 勘右衛門(おはま かんえもん)という男に関してだけは、猪々子はなぜか素直に喜べない。穏やかに笑みを浮かべて、挨拶でもするように言葉を投げてきた勘右衛門に、猪々子は渋い顔を作った。
「尾浜先輩は会うたびそう言いますね」
「え? だって会うたび思うんだからしょうがないだろ?」
「うさんくさいことこの上ないです」
心外だなぁ、と勘右衛門は首を傾げる。しかしながら、別段ショックを受けたようにも見えない。表情はいつもと変わらず穏やかで、少しばかりキョトンとしているくらいだ。余計に、その言葉を疑わずにはいられない。
「昨日だって会ったじゃないですか。変わったところなんてありませんよ」
「変わったところがなくとも、かわいいんだよ」
……ああ言えばこう言う。今まで何回したかわからないようなやりとりは、やはり今日も進展がない。猪々子がなんと諭そうが、勘右衛門は彼女に「かわいい」と言うことをやめはしないのだ。最近では、「かわいい」と言うことが出会い頭の挨拶のようになってきている。最初は照れて「ありがとうございます」と俯いていた猪々子も次第に慣れてきて、今ではどうやったらこの「かわいい」を止められるかを日々考えている始末だ。
どれだけ迷惑そうな顔をしても、鬱陶しそうに睨みを利かせても、彼には効果がない。いつものほほんとした平和そうな顔をして、飽きもせずに猪々子に賞賛の言葉を贈り続ける。猪々子も、真の意味では嫌がっていないから(先に述べたとおり彼女は女の子なのである)、あまりキツいことを言って対抗したりはしない。それも、勘右衛門の「かわいい」を止められない原因の一つかもしれなかった。そんなこんなで、このやりとりは延々と繰り返されている。
「それで、今日はなんのご用ですか?」
諦めて、話題の転換を試みると、勘右衛門は浮かべた笑みを一寸も動かさずに「猪々子ちゃんに会いに来た」と答えた。これもお約束だ。彼がくのたま長屋に忍び込むのに、他の理由を述べたことはない。いつも「猪々子ちゃんに会いに来た」と照れもせずに言うのだ。ここまで来るのだってそう楽なことではないだろうに、本当にそれだけのために足を運んでいるのだとしたら、彼は相当に阿呆な人である。暇人と言ってもいいかもしれない。けれど、やはり悪い気はしないので、猪々子は不満そうに唇を尖らせるに留めた。その表情がうれしさを隠すために作ったものだということも、きっと勘右衛門はお見通しなのだろう。
──猪々子にはよくわからない。勘右衛門がこうして自分に会いに来るわけも、顔を見るたび「かわいい」と言うわけも。こうであったらいいな、という希望はあるが、期待はしない。いや、しないように努めている。彼女が彼に向けている感情は俗に言う“特別”なもので、勘右衛門の行動から、彼にも同じ感情が芽生えているのではないかと思うことは多いが、ここまで来て逆に何もなかったとしたら、彼女の落胆はそれこそしんべヱの胃の面積くらい大きくなってしまう。自らを防衛するためにも、猪々子は期待しすぎない心境を貫くのに精一杯だ。
だからなのだろう。勘右衛門の「かわいい」を素直に喜べないのは。好きな人にお世辞や社交辞令でかわいいと言われても、ちっともうれしくない。どうせ言われるなら、本気で、心から、言われたい。面倒なことだが、これもいわゆる乙女心というものだ。勘右衛門の言葉を嘘だと罵るつもりは毛頭ないが、真剣に言っているとは露ほども思わない。彼はひかえめで、しっかりとした良き先輩だが、いかんせん天然で本音が見えない。恋の盲目さとは時として想う相手にもかかってしまうもので、猪々子には彼の考えることがちっともわからなかった。
「先輩の考えることって、わかんない……」
「ん?」
「え、……あ」
などと思考していると、思っていたことが知らず口を突いてしまった。不思議そうに首を傾げる勘右衛門に、猪々子は口ごもる。
「俺の考えてることって?」
「いや、あの……」
視線を逸らすが、彼の方はじっと疑問の眼差しをこちらに向けている。そんな気配をひしひしと感じて、猪々子は仕方なく口を開いた。
「尾浜先輩は、どうして私にかわいいって言うんです?」
「それは猪々子ちゃんがかわいいから──」
「だから! お世辞にしても毎日毎日言うのはどうしてか、って訊いてるんです!」
真面目に尋ねているのに、やはり変わらない返答をよこしてくる勘右衛門に、つい猪々子の語調が乱れた。ハッとして口を押さえる。そろりと見上げると、勘右衛門はやはりキョトンとした顔をしていた。
「お世辞?」
「そ、そうです」
「あー……」
間延びした語尾で、勘右衛門は言葉を切った。何事かを思案するように斜め上に視線を向け、「お世辞だと思われてたのかー……」と独り言のように呟いた。
今度は猪々子がキョトンとする番で、押し黙ったまま熟考しているらしい勘右衛門に首を傾げた。口を開こうかと考えを巡らせたところで、急に勘右衛門の手が彼女の手を握った。
突然のことで、猪々子は飛び上がらんばかりに驚いた。とっさに振りほどこうとするが、男の力で握られた手はビクともしなかった。
「猪々子ちゃん」
そのまま、勘右衛門がスッと顔を寄せる。慌てて体を引くが、いかんせん手を握られているので、たいして距離を開けることはできなかった。
「俺はお世辞やおべっかで、君にかわいいと言っていたわけではないよ」
「え?」
「本当に君をかわいいと思っているから、言うんだ。信じられないなら、証明するまでだけど」
言うが早いか、ぐっと距離を詰めてきた勘右衛門に、猪々子はビクリと肩を揺らした。息がかかるほど近くに彼の顔があって、喉が締まる。いつもとは違う、真剣な、熱を持ったような眼差しに、彼女の中の何かが震えた。
「俺は猪々子ちゃんのことが好きだから、着飾っている君も、そうじゃない君も、全部ひっくるめてかわいいと思っているんだよ」
一瞬、風がふわりと巻き上がった。勘右衛門の髪と猪々子の髪が、風に煽られて舞う。ほんのわずか、場が沈黙する。彼の瞳をじっと見ていたら、そこに嘘偽りは微塵も潜んでいなくて、知らぬ間に涙が滲んだ。
「本当に……?」
「本当だよ。だから、」
──君を抱きしめることを、許してくれる?
勘右衛門が言い終わらないうちに、猪々子は彼の胸へと、その身を預けていた。込み上げる狂おしいほどの情愛に、猪々子も彼への想いを高々と叫んだ。
← →
[戻る]