「離してよ」

「いやだ」

 ぐっ、と込められる力は、なるほど確かに離す気などさらさらないらしいことをミカに訴えた。つかまれた腕は、引いても揺らしても彼の手を振り払うことができず、彼女は苛立ちと不満を瞳に込めて相手を睨んだ。


「なんなの、一体。どうしたの」

 訳を尋ねても、孫平(まごへい)はあっさりとは口を開かない。わかっていることで、口で伝えられないからこそ、彼はこうして力ずくで引き止めるのだ。感情を露わにするのは、飼っている不気味なペットに対してだけで、孫平はいつもミカに素直な言葉はよこさない。意地を張ってばかりの少年は、ロマンチストなわりに、人間を相手にした際はそれを少しも発揮できないでいた。

 ミカはじっと孫平に焦点を合わせたまま、彼の考えを読み取ろうと目を凝らす。しかし、孫平の方はどんどんと視線を下に落としてしまって、口ほどに物を言うそれを窺うことは叶わなかった。そのわりに、彼の無骨な手はしっかりとミカの手をつかんだまま離さないのだから、おかしな話だ。


「言いたいことがあるならハッキリ言ってよ」

 とりあえず、訊いてみる。基本的に、ミカは愛想の悪い娘ではない。いつもはニコニコと笑顔を浮かべて、人を翻弄するような軽口を叩く悪戯っ子だが、感じの悪いことはない。だが、相手が相手であれば、それは適用されないのだ。つっけんどんに突っかかって、刺々しい物言いで人の神経を逆撫でするような相手には、彼女だって愛想を振りまかない。正直にムッとして見せたり、キツいことを言ったりする。それでも、口汚く罵って手を叩き落とさないのは、彼女がそれなりに優しく、無防備であるからだった。


 孫平は完全に俯いてしまって、もはや瞳どころか顔もよく見えない。反省しているような躊躇っているような、はたまた自分自身戸惑っているような、そんな気配だけは感じるのだけど。返答は、相も変わらずない。

 どうしたらいいのやら。ミカの方も困って、目線を握られた腕に向けた。自分の手首を簡単に一周してしまう長い指は、常ならば毒蛇のジュンコや毒虫や毒トカゲたちを愛でているはずだ。彼らに接するのと同じくらい、優しく、愛情深く接してくれるなら、ミカだってこんなにツンケンした態度を取らないのに。……いや、しかしあんなあけすけな愛を向けられるのは、少々気持ち悪いかもしれない。孫平は、可愛いペットたちをいっそ過保護すぎるくらいに愛でて大切にしている姿が、一番しっくりくる。

 第一、孫平とミカの間に愛を語らうような関係は存在しなかった。ただ、時々顔を合わせたら話をして、孫平が余計なことを言ってミカが怒る。それくらいの知り合いでしかない。それは今も同じで、つい先ほどにもそんなやりとりをしたばかりだ。偶然顔を合わせて、孫平の歯に衣着せない失礼な対応に、ミカがぷんぷんと効果音でも付きそうな憤慨ぶりで「もう知らないっ」と背を向けた。そこを、孫平に捕まえられたのだ。


「……悪かったよ」

 とりとめのない思考に頭を任せていると、孫平が久方ぶりに口を開いた。完全に自分の世界に入っていたミカは、ハッとして面を上げた。

 いまだ俯いたままの孫平は、そう言ってまた口を噤んだ。めずらしく素直に発された謝罪の言葉に、ミカは目を瞬かせた。


「ねえ、孫平。それは何に対する『悪かった』?」

 気持ち、声のトーンを優しくして、ミカは尋ねる。

「せっかく挨拶した私に『暇なのか』って言ったこと? 今日はペットと一緒じゃないの、と訊いた私に『関係ないだろう』と言ったこと?」

 ゆっくりゆっくりと、考えられる事柄を上げていく。言葉の足りない彼には、こうやって自分の思考を整理させてあげることが重要なのだ。一つ一つを口にして、そこに付随する意味を読み解いて聞かせ、言葉を引き出す。まるで母親が子どもにするようなそれを、ミカは孫平に行っていた。孫平の方も、子ども扱いするなと怒るのが常だが、こうやって静かに彼女の言葉に耳を傾けている時もある。それは大体、孫平にとってとても大切な内容であった時で、誤解があってはいけないと思うから、彼女が自分を諭すのに口を挟まない。気の利いた相槌を打つよりも、黙って頷いていた方が、余計なことを言わないですむと知っているからだ。

 だから彼がミカによこすのは、「どっちも」という素っ気ない一言だけだった。


 ミカは“やれやれ”という風にため息を吐いて、つかまれていない方の手を孫平に伸ばした。それほど背丈の変わらない少年の頭に、その手を乗せる。撫でるのではなく、あやすようにポンポンと軽く叩くと、これには孫平が「子ども扱いをするな」と顔を歪めた。

「子どもじゃない。年上のくせに」

 そんな彼に、ミカはやはり甘くない台詞を返す。だが、その声音には、先ほどまでのような険はなかった。呆れたような素振りは多大に滲ませていたが、面持ちはずいぶんと機嫌を取り戻していた。

 こういう時、ミカはまるで大きな弟ができたような気分になる。素直でなくて、ひねくれていて、人間よりもかわいいペットたちを大事にするような常識はずれの少年に、なんとも仕方がない気分になるのだ。どうしたって、彼が今すぐに反抗期を終えた素直な男の子になることはないのだとわかっているから、自分の方が折れてやらなければいけないのだと思っている。それは、土井先生や山田先生が一年は組の生徒たちに向ける対応と少し似ていた。私が相手を引っ張ってやらなければいけないのだと自分に言い聞かせ、多少の怒りには目を瞑って相手を許す。ミカは、孫平に対してはそういった風に行動しようと心がけていたし、また、そんな自分にひっそりと陶酔してもいた。簡単に言ってしまえば、ミカもお姉さんぶりたい年頃であったのだ。

 孫平は、ミカがそうやって自分を子どもに仕立てあげようとすることが、なんとももどかしてならなかった。孫平はミカに頼りたいわけでも、かわいがられたいわけでもなかったからである。一人の男として意識して、特別視して、好きだと言ってほしい。自分だけに、その愛らしい顔で笑いかけてほしい。願望は口にすることも、態度として表に出されることもなく、裏腹な言葉で怒らせてばかりいる。

 さっきだって、怒らせるつもりはなかったのだ。しかし、ミカを前にすると、どうしても第一声には憎まれ口が突いて出てしまう。でも、せっかくの彼女との時間を失うのは嫌で、こうやって無理矢理つなぎ止めている始末だ。心と体はちぐはぐで、孫平はいつも隠れて頭を抱えていた。それでも、ミカが最終的にはこうやって優しいから、いくら反省してもまた同じことを繰り返してしまうのだ。


 いい加減に、この堂々巡りをやめたい。男なんだと意識してほしい。弟でも先輩でも知り合いでもなく、一人の男として見てほしい。

 ──目の前で、背伸びをしながら自分の頭を撫でている細い体を引き寄せて、この腕の中に閉じ込めてしまえば、少しは彼女もわかるだろうか。そんなことを考えながら、孫平はとりあえずつかんだままだったミカの手を引いた。

 ミカの体が動く。孫平に向かって倒れてくる。後のことは、彼女の柔らかとあたたかさを感じてから考えよう。




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