「私は吸血鬼(ヴァンパイア)」
烏の濡れ羽色の長い髪をたなびかせてそう宣言した少女に、眼鏡の少年・ヒデノリが抱いた感想は(え……なにこの人)だった。
元はと言えば、彼は普通に家路についているところだった。なんの変哲もない道を、めずらしく一人でぶらぶらと歩いているところだった。その途中、いつも通る河原でふと足を止めてしまったことは、彼にとっては不運な出来事だった。
彼は橋の下に、少女が一人いるのを見つけた。セーラー服を来た小柄な少女だ。こちらに背を向けてしゃがみ込んでいる。腰まである長い黒髪が特徴的だった。ヒデノリはなんの思惑もなく、その後ろ姿に近付いた。これも軽率な判断だった。たんに、(あんなとこに座ってなにしてんだ?)と、興味というにも薄い反射のようなもので近寄ったに過ぎなかったのだが、それが間違いだった。5メートル後方くらいに来たあたりで、ヒデノリは彼女の様子がおかしいことに気付いた。胸に手を当て、肩を上下させている。さらに距離を詰めれば、妙に荒い息づかいも耳に入った。
(おいおい、具合悪くなって動けないとかじゃないのか)
彼は慌てて彼女の傍に走り寄った。さらなる過ちの上乗せだった。
「ちょっと君、大丈夫? 体調悪いの?」
肩に手をかけて尋ねると、少女はゆらりと振り返った。大きなつり目は細められ、眉毛が中心に寄って眉間に皺を刻んでいる。
「見つかってしまいましたか……」
「え?」
少女の言葉に、ヒデノリは純粋な返答を返した。
「そう、貴方の思っているとおり……私は人間じゃない」
(え、なに、待って。なんの話?)
ヒデノリの困惑の無表情にもかまわず、少女はなにかを決心するように目を閉じた。キュッと唇を引き締め、意志の強そうな瞳で彼を見る。
「私は吸血鬼(ヴァンパイア)」
確固とした口調で宣言された。時が止まった。
(え……なにこの人)
ヒデノリのドン引きも無理からぬことだった。
(ヤバいヤバい、なんか変なのに声かけちまった。なんだこの人……え!? 吸血鬼とか言った? 自分のこと。なに言ってんの? この人なに言ってんの?)
彼女の肩に手を置いたまま、彼女の真剣な目と見つめ合ったまま、ヒデノリは考えた。
(これは新手のギャグかなんかなのか? この人、そんなことを誰かに言うためにこんなとこ座り込んでずっと待ってたってのか? 正気の沙汰じゃねぇな……やっぱこの人ヤバい人だ。なんかヤバいアレだ。ついでに言うと吸血鬼と書いて「ヴァンパイア」と読むところもなんかイラッとする。このうえ「血を吸わせてくれ」とか言い出す前にこの空間から抜け出さねぇと――)
ヒデノリと少女、互いに身じろぎもしない。先ほどの体勢のまま、少女は彼の反応を待ち、ヒデノリは状況把握に尽力し続けている。
(しかしどうやって抜け出す……!? もしこれがこの人の渾身のギャグだった場合、どうやってそれをスルーすればいいんだ!? いや仮にギャグだったなら、こんだけツッコミに間が空いた時点で失敗しているんだが、ならばどうやってそれを修復すればいい? というか修復しなきゃいけないのか? 俺はこの人とは初対面だし、なんの関係もないっていうのに! ――いやいや、だがここで俺がそのお相手に選ばれたなら、せめてうまい逃げ方を模索するくらいのことはしてやらなきゃな)
何故かそこまで行き着くと、ヒデノリは軽く俯いた。彼の眼鏡が夕日に反射して、その瞳を見えにくくした。
(ハッ……!)
彼はひらめいた。現状をうまく打破、または回避する良い方法を。
(そうだ……ギャグ方面が失敗したなら、これをマジな方面にシフトチェンジするんだ。相手だってあんなファンタジーなことを言うくらいなんだから、ある程度の覚悟くらいあるだろう。いや、あってくれ)
よし、とヒデノリは決心した。くい、と中指で眼鏡を押し上げる。
「当然だ。この勇者、ヒーデロットの目はごまかせない」
(やらかしたあああああ)
ヒデノリは胸の内で絶叫した。
(なに! 俺はなにを言ってるの! 勇者ってなに! “ヒーデロット”ってなに!! くそぉ、せめてエクソシストにすりゃあよかった)
歯軋りをこらえながら、チラリと目線を上げる。完全にはずしたなと、諦めを抱きながら。
「フフッ……さすがね、ヒーデロット」
(嘘だろノッてきたよ)
苦しそうな表情をしつつも、少女は目を輝かせていた。
(まさかこっちが正解だったのか? ツッコミ待ちじゃなかったってこと? いやいやだからと言って俺にそういうの求められても困ります。速やかに退却させてくれ)
ヒデノリは彼女の肩から手を離した。そうして立ち上がり、夕日をバックに、目の前の少女を見下ろした。
「しかしずいぶん弱っているみたいじゃないか、吸血鬼(ヴァンパイア)。そんなお前は張り合いがないな」
(もう嫌! 俺はなにを言ってるの!? もうやめさせて! これ以上続けられない!)
「くっ……!」
(お前も「くっ……!」じゃねぇよ! つっこめ!)
悔しげな声を漏らした少女は、胸に当てた手を握り締めた。慢性化した謎空気を打ち砕く方法が、いまだヒデノリには思い付かない。
(フッ……いいさ、こうなったらこのままのノリでいってやる。このノリを貫き通したまま颯爽と退却させてもらうぜ!)
そう決めると、ヒデノリ改めヒーデロットは再び眼鏡のブリッジに中指を添えた。キラリンと眼鏡のレンズが光った。
「そんなお前を倒したところで意味はない。今日のところは見逃してやる」
そう告げると、ヒーデロットはくるりと踵を返した。彼の背中に勇者のマントが付いていたなら、バサリと音を立てて翻ったことだろう。
見知らぬ少女改め吸血鬼(ヴァンパイア)に背を向け、ヒーデロットは歩き出した。
(もういいだろう。満足しただろ、ここまですれば。君もアホなことしてないで、早くおうちに帰りなさい)
そんな台詞を心の中だけで言ってやる。後方で吸血鬼(ヴァンパイア)が「あっ」と声を漏らし、待ってくれというふうに手を伸ばすのが、見なくともわかった。そのまま彼女は伸ばした手で口元を覆い、
ゲロゲロゲロゲロ……
盛大に吐きだした。
「ほんとに具合悪かっただけかよ!」
ヒデノリは、うずくまる少女に叫んだ。
結局彼はこの日、貧血を起こして座り込んでいたのに通りすがりの人間に妙なボーイミーツガールを要求する奇怪な少女を、病院までおぶって行く羽目になった。
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