これだけは高峯 翠の名誉のために言っておくが、いつだって彼に悪気はないのである。
高峯は基本的に素直な少年だ。普段いかに嫌だ鬱だと後ろ向きなことを言っていても、それは皮肉っているわけではない。穿っているわけでもない。本当に心からそう思って言っているのである。なので、彼の言葉にたいてい嘘はなく、だからこそ今あんずは複雑な気分になっているのである。
「それで、その時そのゆるキャラがこっちを見て手を振ってくれたんですけど、これがまたすげーかわいかったんです。なんていうか、媚びてないかんじで、自然体っていうのかな? まさにゆるキャラの風格っていうか。その日は朝早くから守沢先輩にたたき起こされて死にたい気分だったんですけど、あのゆるキャラのおかげでもうちょっと生きてみようって思えたんですよ。ほんと、ゆるキャラって最高です」
高峯 翠は恍惚といったふうに目を閉じた。彼の目の前に立つあんずは、高峯の息継ぎの間をぬってこっくりと頷く。そうでもしないと相槌すらうてないのだ。まさにマシンガントークで、返答を想定しているのかすら怪しい。ただ聞いてほしいだけかもしれない。
高峯は先ほどからこの調子で、いまだ楽しそうに愛するゆるキャラの話をしている。彼がこんなふうに楽しそうにすることはとても……とてもとても稀で、まして「生きててよかった」なんて言葉はゆるキャラのこと以外ではついぞ聞いたことがない。
それでも、ときおり流星隊のライブでこんな顔をすることはある。アイドルなんてだるい、練習はしんどい、家で寝ていたいと、普段はやる気のない高峯だが、彼も立派な流星グリーンなのだ。アイドルとして少しずつ芽を出し、いなくなっていく三年生の背中を見て自身のあり方を考えてもいる。とても喜ばしいことだと思う。初めて会った時に比べると、高峯はかなり成長した。「鬱だ死にたい」という口癖はあいかわらずだが、それでもやはり変わっているのだ。
そんな姿を見ることはプロデューサーの本懐であり、本望である。プロデュースを離れたあんず個人としても、いつも憂鬱そうな顔をしている高峯がニコニコ笑っているのはうれしいことだった。――うれしいはずだった。なのに、
どうして、私は寂しいんだろう。
うっとりとした高峯のゆるキャラトークを浴びながら、あんずは静かに考える。
「……あんずさん? どうしました?」
あんずの目がどこか遠いところにいってしまったのを察したか、高峯が長身を屈めて覗き込んできた。あんずはじいっと、高峯の顔を見つめる。綺麗な顔だ。「顔だけはいい」とは、彼が今まで周囲から向けられていた評価らしいが、確かに彼の顔面偏差値の高さは折り紙付きである。一年生らしいあどけなさも残しつつ、大人へ踏み込んだ精悍さもある。やや垂れ気味の瞳は、ライブではきりりとつり上がるが、ゆるキャラの話をする時は柔らかくとろける。
あんずの視線に耐えられなくなったのか、高峯は照れたように体を離した。わかりやすく頬を染めてもじもじする。こういうところはとてもかわいらしい。
どこかで聞いたことがある。
“相手を「かわいい」と思ったら、すでに恋に落ちているのである”
私は高峯くんに恋をしているのかな。最近あんずの思考を奪ってやまない議題だった。
けれど「かわいい」という気持ちだけならあんずはそこらここらで抱いていた。一年生の子たちはもちろん、同学年の鳴上、それこそ先輩である仁兎なずなにも抱いている。ならば、これは恋ではなく、単純に人として彼をかわいらしいと思っているのではないか。
――でも、だったらどうして私は寂しいんだろう。
高峯が二歩後ろに下がったのを見て、あんずも同じく二歩後ろに下がった。高峯はキョトンと首を傾げる。
「あんずさん……? どうかしました? あっ、もしかして俺の話つまんなかったッスか。あんずさんなんでも聞いてくれるから調子に乗ったかも……」
一変して、彼はしょんぼりと俯いた。いくぶん発育が良すぎる体を縮めて、目を伏せている。慌ててあんずは手を伸ばし、高峯の頭をよしよしと撫でた。つま先立ちをしてようやく届く高さにある顔が、驚いたように瞬きを繰り返す。高峯に言わせると、あんずは少し会話や動作のテンポがずれているらしい。だから、たまに突拍子がないように見えてびっくりしてしまうそうだ。けれど、それはあんず本人にはよくわからない。今はただごめんねという気持ちを込めて、彼の頭を撫でるばかりだ。
――つまらなかった。そう、つまらなかった。あんずを前にしてゆるキャラの話ばかりする高峯が、あまり見れない笑顔で違うところを見ている高峯が、彼女はとてもつまらなかった。高峯がゆるキャラを愛しているのは知っている。それはもう、嫌というほど染み付いている。キャプテン・喜怒哀楽の着ぐるみを着て浜辺をデートした。ゆるキャラの限定グッズを買いにいきたいのでレッスンを休ませてくれと直談判されたこともあった。
ゆるキャラがいかに高峯の支えになっているかはわかっている。それは趣味であり生き甲斐であり、あたたかく見守るべき不可侵領域だ。あんずだってもし「アイドルのプロデュースなんかやめろ」と言われたら断固拒否するだろう。そういうものは他人が否定していいものではない。だから、あんずが高峯に「ゆるキャラばっかり見ないで」なんて言うことはできない。
いつからかはわからない。着ぐるみを着てくださいと懇願されるのがつらくなったのは。ゆるキャラグッズのためにレッスンを休ませてくださいと言われるのに歯噛みするようになったのは。ゆるキャラの話をする時の笑顔から目を逸らすようになったのは。
私“自身”には興味がないの?
私のプロデュースはやっぱりゆるキャラに負けてしまうようなものなの?
着ぐるみを抱えて迫ってくる時のような瞳で見られたかった。好きなキャラクターを呼ぶ時のような声で名前を呼ばれたかった。
本当は、あんずも認めたくはなかった。自分はプロデューサーだ。たくさんのアイドルを輝かせるのが使命だ。たった一人に心を傾けてはいけない。一人を特別に思ってはいけない。恋なんてしてはいけない。そう己を戒めていたのに。
「あんずさん」
ごく近いところで声がした。ハッと我に返ると、高峯の顔が目と鼻の先にあった。高峯の口が開閉するのが目の前で見える。深い水面のような瞳に射すくめられて、あんずはほんの一瞬息を止めた。
「あんずさん、前から思ってたんスけど、警戒心なさすぎじゃないですか? 守沢先輩とか明星先輩に抱き締められたりしても平気そうだし……? 自称吸血鬼の人に膝枕とかしてるし……? それで、俺にこんなくっついたりして――」
襲われても知らないですよ。
聞き間違いでなければ、高峯は確かにそう言った。
「いいよ」
考える間もなく、ポロッと言葉が漏れた。普段あんなに考えて悩んで会話においてけぼりにされている彼女とは思えないほど、ポロリと、滑るように、その一言は出た。
ひゅっと息を飲む音が聞こえた。強い力で腰が引き寄せられ、瞬きもしないうちに高峯に唇を塞がれていた。まごうことなく、それはキスだった。
高峯がゆっくりと体を離す。まつげが触れ合う位置で目が合った。真剣な目だった。その熱さに火傷してしまいそうなほど、ギラギラと燃える目だった。着ぐるみを抱えて迫ってくる時とも違う。ステージに立っている時とも違う。
なんだろう、これは。見たことがない。
考えている間に、高峯がグッとあんずの後頭部を引き寄せた。やや乱暴に二度目のキスがやってくる。触れているというより、押し付けられているかんじだった。
けれど、
あんずの胸は震えていた。足も震えていた。恐怖や動揺ではなかった。純然たる喜びにうち震えていたのだ。
そっと、あんずは高峯の背中に手を回した。息継ぎの合間に、高峯が「知らねーから」と呟く。どうなっても知らないぞということだろうか。それならば望むところだった。口下手なあんずは、目を閉じることでそれに応じた。
あれはきっと、ゆるキャラに向けられることはない目だ。ライブ会場で客席に向けられるものとも違う。熱くて、怖くて、けれど胸の奥をつかまれるような、あれは……
――あれは、そう。
男の欲望の目だった。
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