おあつらえたような夜だった。私は沈み込んでベッドに転がり、家には父も母もおらず、真っ暗な夜空にはやけに赤々しい三日月が登っていた。化け物たちが目を覚ましかねない、禍々しい夜空だった。そんな状況だったから、窓辺にいつの間にか見知らぬ男が立っていても――私は悲鳴を上げた。
「おいおい、近所迷惑じゃないかい」
ベランダに立つ男は、軽い調子で網戸を開けて部屋に侵入してくる。
「あっ、ひっ……」
驚きと恐怖で、私の口からはそんな声が漏れた。
男の体がすべて部屋の中に入ってしまった。すると、途端に彼は浮かべていた薄ら笑いをフッと消し、
「ん……? あ、いけないいけない、土足だった。人様の家に上がるのにさすがにそれはね」
くるりと踵を返してベランダへと戻る。履いていた革靴を一足ずつぬいで丁寧に窓際に並べると、再びこちらを向き直り、「おじゃまします」深々とお辞儀をした。展開についていけない。男は引きつる私をよそに、今度は靴下で床の上を歩いた。
「ごめんね? 生まれが日本じゃないもんでさ。しかも夜分に女の子の部屋に侵入なんて、モロ不審者だよね?」
そうとしか言えないので、私は声も出せない。逃げなければと思うのに、体は震えるばかりで動かない。男は眉を下げたような笑みのまま、ベッドのわきに立った。
「しかもこれじゃあ変質者か痴漢か強姦魔だよなぁ、シチュエーション的に。まあ、怪しまれずに邂逅できるなんて思ってなかったけど」
うーんと男は天を仰ぐ。私はズルズルと布団の上を尻で後ずさり、せめてもの無意味な距離をかせいだ。
「たぶんまったく信用してもらえないと思うけどいちおう言っておくね? 僕は変質者でも痴漢でもなけりゃあ強姦魔でもないし、ましてや強盗や殺人鬼でもない。不審者――ではあるんだろうけど、まあ、そういう類の犯罪者ではないんだ」
その口調の軽さが逆にとても恐ろしい。呼吸がうまくできずに、鼻からひゅーひゅーと奇妙な音が出た。自分の顔面から血が下がっていくのを如実に感じる。
「うーん、デスヨネ。だから安心しろってのが無理な話……あ! じゃあ、これは?」
ポンと手を打ち、彼は私の目の前で姿を変えた。――そう、
・・・・・
姿を変えたのだ。ついさっきまで線の細い美青年だった人は、ほんの一瞬さあっと煙に包まれたかと思うと、そこにちょこんと立っていたのは年端もいかない幼い子どもだった。
「どうだい? これなら愛らしさもあいまって、すこし気分も和らぐんじゃない?」
突如現れた少年は、ぷにぷにとしたほっぺたを綻ばせて笑って見せた。舌っ足らずな声音が言葉を紡ぐ。見間違いではない。彼は私の目の前で、“青年から少年へ”と姿を変えたのだ。
「あんた、なに……」
非現実さが精神を落ち着けることを初めて知った。私は眼前の光景を夢かなにかかと思うことで、ようやくまともに口を開いた。
「しがない吸血鬼の端くれです。ヴァンパイアですよ、美しいお嬢さん」
幼稚園児くらいのその少年は、恭しくお辞儀した。――と、頭を上げる時には先ほどの青年の姿になり、
「どうかこの私に、あなたの血を分けてはくださいませんか?」
私は再度沈黙した。かける言葉が見つからなかった。
「……あ、今『こいつやっぱヤバい』って思っただろう?」
吸血鬼を名乗る男が笑顔を引きつらせる。背中はもう壁と密着していたけれど、この男との距離をさらにとりたくて私は身じろぎした。
「傷つくなぁ、その反応……」
いささか男の空気が暗くなる。とほほ、と言いかねないその表情は、効果音をつけるならば「しょんぼり」だった。
「いやぁ、気持ちはわかるんだがね。話を進めないといつまでも進展しないだろうから正直に言ってみたんだけれど」
男はじっと私の顔を見ると、肩を竦めてため息を吐いた。
「やっぱり信用できないか。わかった、また明日にしよう。昔のお話でも、『相手に自分の愛を確認してもらうために千夜通い続ける』なんてものがあったものね。初対面じゃあ、軽薄だと思われても仕方がない。僕もきちんと誠意を見せるよ」
なにを言っているんだかわからなかったが、私が了承も否定もせぬうちに、男は最初に入ってきたベランダへと出た。置いてあった靴を履き、振り返る。
「じゃあまた明日。おやすみ、お嬢さん」
そう言って、ひょいとベランダを乗り越えて、彼は視界から消えた。
「えっ!?」
落ちた!?
慌てて立ち上がり、ベランダへと出る。手すりをつかんで下を覗くが、「いない……」そこにはアスファルトの道があるだけで、血まみれの死体も、華麗にスタントを決める男もいなかった。まるで煙のように消えてしまった。
・
(なんだったんだろう、あれ……)
次の日、学校にいても、昨夜の青年のことが忘れられなかった。本当になんだったのだろう。確かに、わかりやすい犯罪者とは違うようだった。危害を加えたり殺したりすることもなく、ただ妙な台詞を言い残し、帰っていった。彼が犯罪者なら、顔を見た相手を無傷で逃がしたりはしそうにないし、「また明日来る」などとのんきに言ったりもしないだろう。――という心理を逆手にとられているのかもしれないが――気になるのは、目の前で見せられた青年から少年への変身。そして、忽然と消えてしまったこと。
(……まさかほんとに吸血鬼?)
いやいやないない、と私は頭を振る。そんなものが現実にいるはずがない。ファンタジーが過ぎる。あれは幻覚の類だろう。傷心で塞ぎ込んでいたから、自分に優しい言葉をかけるイケメンの幻覚でも見たのだ。ついでにちょっと眠っていて、夢うつつに吸血鬼の幻聴を聴いたのだ。それはそれで自分の精神が心配になるなと、私はちょっとヘコんだ。しかし、他の理由を考えるのは難しかった。違う理由を考えるならば、やはりあれは現実で、あの男は本人の言うとおり人外の類いなのだという結論に至ってしまう。それこそありえない。だからやはり、あれはただの幻覚だったのだ。私は自分自身にそう言い聞かせた。
「七瀬(ななせ)さん、大丈夫?」
すると、頭を抱えた私を覗き込む人物があった。クラスメートの女生徒だ。
「具合悪いの?」
「大丈夫だよ」と私は笑った。考えていた内容があまりに馬鹿馬鹿しかったので、それをごまかすようにニコニコと笑った。
「今日は佐野(さの)さんたちと一緒にいないし……喧嘩でも、した?」
彼女はすいっと視線を逸らした。その先、茶色い髪の女子と、短い黒髪の男子がいた。「佐野」と呼ばれた女生徒と、田口(たぐち)という男子生徒だ。二人はこちらに背を向けて会話している。私は「そんなんじゃないよ」と首を振った。
「だってカップルの邪魔したら悪いじゃん?」
「え! 佐野さんと田口くんって付き合ってたの?」
彼女は目をまん丸にして驚いた。私がしぃーっと人差し指を立てると、パッと口に手を当てる。やがてそれをソロソロとはずすと、
「でも、それは七瀬さんいずらいよね……いっつも三人でいたのに」
そう、私たちはぞくに言う仲良し三人組だった。席が近かったということで私が田口とよく話すようになり、そこに友人の佐野が加わった。女二人に男一人だったけれど、佐野と田口と私はとても仲がよくて、たいてい三人一緒にいた。気楽で、楽しかった。私は三人でいるのがとても好きだった。好き、だった。そう、過去形だ。そして私が田口を好きなことも、過去形にしていかなければならない。
微笑ませた口元に力を入れる。昨日さんざん泣いたのに、また涙が零れそうだった。
・
開いた口が塞がらなかった。私はまたしても幻覚を見たのだ。
「やあ、こんばんは、お嬢さん。ご機嫌いかがかな?」
昨夜の夢がまた現れた。昨夜と同じようにベランダから突然現れ、窓のすぐ外で靴をそろえ、網戸を開けて侵入してきた。昨夜と同じ、線の細い美青年だった。私はとっさに、自分の顔を平手で打った。
「うぐっ……」
痛い。
「だ、大丈夫? なにやってるの?」
痛い思いまでしたのに幻覚は消えず、夢も覚めない。私は半ば絶望的な気分で、男の頬に手を伸ばした。自分の口からギャッと声が出る。冷たい。体温が通っているとは思えない。けれど、確かに“それ”はそこにいた。すり抜けることもなく、この手に触れた。現実に存在した。
わなわなと手が震えた。そんな私を見て、男はにっこりと笑った。
「わかってくれたかい? そう、僕はちゃんとここにいるよ」
悲鳴も出なかった。口から排出されるべき二酸化炭素が喉元で引っかかっているかんじだった。
「昨日言ったとおり、僕は吸血鬼だ。信じることは容易ではないだろうが、これは本当だ。少なくとも僕にとってはね。そして僕は、君の血をもらうためにここへ来た。――ああ、そんなに身構えないでおくれ。なにも今すぐ、無理矢理、問答無用で奪おうなんて思ってはいないさ。それこそ犯罪者だ」
固まる私をよそに、彼は柔らかに微笑んでいる。
「僕は君を口説きに来たんだ。君が自分の意志で血をくれる気になるように。まずは名前を教えてくれないかい?」
恐怖から不安、そして最後には不信感へと変わった。私はキツく男を睨み付ける。
「おっと、名前を聞くのに自分が名乗らないのはマナー違反だね。悪かったよ。僕はアルフィン。どうぞよろしく」
気軽に自己紹介などされても、そんなことを言っている場合なのか。テンションが噛み合わずに、私はさらに目尻をつり上げる。
「君が怪しむのもわかるさ。……でも、名前を聞くだけでもだめ?」
それは、名乗らなければ今すぐ牙を立てるぞと、そういうことだろうか。
「七瀬 立樹(ななせ たつき)……」私は慎重に答える。
「へえ、タツキか!」
私の緊張をよそに、アルフィンと名乗った青年はパッと表情を輝かせる。
「字はどう書くんだい」
「樹が立つと書いて立樹」
「いい名前じゃないか。樹木はこの世界の命と深い繋がりを持っている。生命が芽吹く瞬間というかんじがするね。きっと立樹のご両親も立樹が生まれた時、そんな気分だったんだろう」
しみじみといったふうに、アルフィンは頷いた。なにを真剣に語っているのか。今、私の名前はそれほど重大なことだろうか。しかし、いつも「男みたいだ」とからかわれる名前をこれほど手放しで褒められたのは初めてで、悪い気はしなかった。すこしは話を聞いてやろうかなという気分になってくる。我ながらチョロい女だ。そんな心理を悟られたくなくて、私は拗ねたようにそっぽを向いた。
「ていうか『また明日』って本気で言ってたのね」
「もちろん」
「なんで私なの? あなた、日本の人じゃないでしょう。留学生?」
私はようやく、男の外見を落ち着いて眺めることができた。スラリと縦に伸びた長身。抜けるような薄い金髪に緑灰色の瞳。どう見てもアジア県内の人間ではない。海外雑誌から飛び出したモデルのようだ。いやぁ、と男は苦笑する。
「いろいろな所を転々としていてね。とりあえずしばらくは日本に腰を据えようと思ってるんだ。おもしろいことに、吸血鬼になってからは世界各国の言葉がわかるようになってね。だから君を口説くのにまごつくこともない」
「そうね……いささか回りすぎな気もするけどね」
だんだん構えているのが馬鹿らしくなってきた。
「でも、お生憎様。私はあなたに血を吸われるなんてごめんだよ」
「もちろん、すぐに気を許してくれるなんて思ってないさ。君が僕を受け入れてくれるまで待つよ」
(いや、そういうことではなく、待たれようがなにしようがそんなつもりはないって言ったんだけど)
しかし、私が口を開くより早く、彼は立ち上がった。
「吸血鬼の僕には時間がありあまるほどある。きっと君を落としてみせるよ」
するりと、アルフィンの指が私の髪をすくう。冴えない黒髪だ。彼の透き通るようなプラチナブロンドの前では、えらくみすぼらしい。そんな髪に、彼は静かに口付けた。私の時が止まった。
「それじゃあね、立樹。また明日。おやすみ」
爽やかに言い置いて、吸血鬼はまたも夜の闇の中に溶けていった。
(外人だから!? 外人だからなの!?)
アルフィンと名乗る男のしでかしたキザな挨拶のせいで、次の日も私は学校で頭を抱えていた。外人で美形な彼にはなんでもないことなのかもしれないが、こちらは生粋の日本人で交際経験すらないのだ。平静でいられるはずがない。
はあ、と嘆息しながら窓の外に目をやる。そうすると、うっかり見たくはないものを見てしまった。田口と佐野だ。私が仲良しグループの輪からはずれ、あの二人だけで行動するようになって、クラスメートたちも田口たちが交際していることに気付き始めたらしい。すこしずつ、二人の関係は公認のものになっていた。昨日の女の子のように、七瀬さんがかわいそうだという声もちらほらとはあったが、そんなことはない。私は今までだってずっとかわいそうだったのだ。そして、一昨日それがピークを迎え、ぷつりと切れた。一緒にいられないのは私のほうだった。
『ごめん……』
蘇る。
『ごめんな、七瀬……』
思い出したくもない声が。
『オレ、ほんとは――』
・
月光が彼の顔に淡い光を落とす。窓辺に座り、暗い空を見上げる青年は、えもいわれぬ美しさだった。浮き世離れどころか人間離れして見えた。白くなめらかな肌も、輝く金髪も、端正な横顔も、まるで月夜に遊ぶアンティークドールのようだ。同じ空間にいるはずなのに、私ときたら布団にもぐり、腫れたまぶたで最高にブサイクな顔をしている。
「やっぱりあなた、現実には思えないよ」
現実というのは、こんなふうにぐちゃぐちゃでドロドロで汚いものでしょう。なのに、この人からはそんな不純物がまったく見つけられない。いつだって綺麗で、作り物めいている。妬ましいという気持ちすら抱かせないほど、遠く見えた。
「そりゃあまあ、もう人間じゃないしね」
なんでもないことみたいに、アルフィンは言った。失言したことに気付いて、私は言葉を探す。
「アルフィンはもともと綺麗なの? それとも吸血鬼はみんな綺麗なのかしら。永遠の美しさ、とか言うくらいだし」
「うーん、というか……吸血鬼自体が美しい者にしか興味を持たないんだよ。綺麗な者からしか血を吸わない。だから自然と、仲間にされる吸血鬼も見目麗しい者ばかりがそろう」
私は上半身を起き上がらせた。
「それなら、なおさらどうして私なの? お世辞にも美しいなんて言えない顔なんだけど」
アルフィンは笑顔のまま「うーん」と唸った。
「ほら、人間だって『顔がよくても性格最悪じゃあねぇ』って言うだろう? 僕は内面重視派なんだよ」
そんな王子様スマイルで言われても。すると彼は、柔らかな視線で私を射抜いた。
「浮かない顔をしているな。なにかあったのかい?」
「そうね、さも当たり前のように深夜に女の子の部屋に侵入する吸血鬼のせいかしら」
「返す言葉もない――と言いたいところだが」
アルフィンはハハッと笑いを漏らすと、今度はにやりと唇を持ち上げた。
「君だって、僕が来ることをわかっているくせに、窓の鍵ひとつ閉めようとしないじゃないか」
「うっ……そ、それは、だって、吸血鬼相手に鍵なんか無意味なもんじゃない」
「吸血鬼だって家人の許しなしには侵入できないものだよ。だから霧になったり、催眠術を使ったりする吸血鬼がいるって話だけど。それに、最初の日こそ不在だったが、今は一階に降りればパパとママだっているだろう? 逃げるなり、変な男が来るからと警察を呼ぶなりできるじゃないか。それをせず、コソコソと僕と会っている君は、やっぱり僕を受け入れているんだよ。だから僕が部屋に入れるんだ」
図星を当てられて、私は口を噤んだ。アルフィンが焦った様子で、「ああ、ごめんごめん」と手を振った。
「意地悪だったね。申し訳ない。好奇心であれ、怖いもの見たさであれ、君が僕を許してくれるのはうれしいよ。助かってる」
「“助かってる”?」
なだめられた子どもみたいにぶすくれながら、私は聞き返した。
「そうさ。吸血鬼といえど、やっぱり誰とも口を利かないとなると感覚が麻痺しそうになる。僕はいつでも、自分が狂ってしまうことを恐れてる」
胸の真ん中がひやりとした。
「別に……話せばいいじゃない、他の人とも」
「だめだよ。これ以上、ここに未練を残していきたくはない。僕は寂しがりやなんだ」
「なんだかこれから死ぬ人みたいだよ」
彼は笑う。
「もう死んでるようなものだよ」
私はなにも返せない。彼がいつも軽口ばかりで核心的なことを言わないのは、その一言一言がどれも普通の人間には重すぎるからなのかもしれない。
「つまり私は、どうやったってあんたの未練にはならないわけだ」
言いながら、私は膝を抱えた。
「僕に未練たらたらになってほしかったのかい? いやぁ、諦めずに毎晩通った甲斐があったね」
「そうね。すこし話をしましょうか」
彼の顔が、笑みを浮かべたまま停止する。
「なら、先に僕の質問に答えてほしいな。その悲しい顔の理由は一体なんだい?」
私は男をジトリと睨め付けた。
「レディの傷心のわけを聞くなんて、紳士の風上にも置けないわね」
「僕は自分を紳士だと称したことはないよ。男はいつだって好きな女の子には意地悪をしてしまう生き物なのさ」
「……ったく、口が減らないんだから! お察しかとは思いますが、失恋したんですよ、失恋!」
やけになって私は言った。ぶつけるみたいに吐き出した台詞に、彼はまったく怯まずに目を伏せた。
「そうか……、辛かっただろう」
その声がやたらに優しくて、私は詰まりに詰まっていたなにかがボロリと綻ぶのを感じた。クラスメートに「かわいそう」という目を向けられても、好きな男の子が自分の友達と手を繋いでいるのを見ても、崩してはいけないと思っていた我慢の糸が、ふにゃりと緩んだ。なんの前振りもなく、涙が零れた。
「私だってずっと好きだった」
「うん」
「でも二人とも友達だったから。普通、この均衡を自分が壊しちゃいけないって思うものでしょ?」
「うん」
「でも、好きだったから。最近、田口と佐野、やけに仲が良くて、焦っちゃって。思わず口から『好き』って出てた」
「うん」
「そしたらさ、……ははは、笑っちゃう。あの人たち、とっくの昔から付き合ってたんだって。私と一緒に仲良しグループしながら、実際うちらは二人と一人だったわけよ」
「うん」
「意味わかんない……馬鹿にしてる」
涙が声帯をふさいで、最後は上擦った呻き声になった。
「ふざけんなふざけんな。私のこの無駄な心の傷どうしろって言うのよ。どうしたらいいのよ。わかんないよ」
彼がじっとこちらを見て頷くものだから、私は布団へ額を擦り付けた。こんな無様な姿を晒しながら、私は自分の中では何一つ終わっていないのだということに気付いた。当たり前だ。理性がそれを理解していても、心はそう簡単に受け入れるはずがない。私は本当は、あの瞬間に消えてなくなってしまいたかった。田口にフラれたあの瞬間、彼の口から佐野の話をされた瞬間、この世から消滅してしまいたかった。そして、私がいなくなってしまったことを嘆いて、一生の後悔として胸に刻んでほしかった。それくらい私は、悔しくて悲しくて恥ずかしかった。今、世界で一番、私が不幸だと思った。
それっきり、アルフィンは言葉を発さなくなり、部屋には私のすすり泣く声だけが響いた。嗚咽がおさまったくらいで、私は顔を上げた。
「ちょっと。ここは慰めるなりなんなりするとこじゃないの」
「いや、よけいなことを言うとまた怒らせるんじゃないかと思って黙ってた。今度は僕の番かな」
彼が姿勢を正して私と向かい合う。半身だけが月明かりに照らされて、非現実さがより増していた。緊張から、自分の脇がキュッと締まるのを感じる。
「僕はアルフィン。北欧のとある国で産まれた。多少裕福な家庭だったが、どうってことはない普通の一般家庭だ。父がいて母がいて、あとは祖母がいた。祖母は日本人だった。だから僕は、昔から日本には親しみを持っていて、いつか日本に行ってみたいと思っていた」
私はふと、外人の彼が日本の平安時代の物語を知っていたことを思い出した。
「でも、僕はまだ学生の身でお金もないので、いつか働くようになって金銭と時間の余裕ができたら、その時は日本へ遊びに行こう。そんなことをぼんやり考えているだけの、本当に普通で平凡な人間でしかなかった。父譲りで外見はよかったから女の子にはモテたけど、秀でているのはそのくらいだ。勉強もスポーツも特別できたわけじゃない。どこにでもいる、普通の大学生だった。つい一ヶ月前のことだ」
そこで、彼の声が変わったことに気付いた。柔らかく平坦だった声音に、じわりと黒いものが滲んだのだ。
「一ヶ月前、僕は生まれて初めて吸血鬼というものに出会った。そして血を吸われ、自らも吸血鬼の仲間入りを果たした。そこで僕の人間としての人生は終わった」
唐突に、冷たい恐怖が体を支配した。
「“終わった”……?」
「そう、終わったんだよ。その日から僕は人間ではなくなった。昼間に外に出ることができなくなった。普通の食事ができなくなった。牙が生えた。爪が伸びた。体の強度が異常なレベルにまで上がった。いつ死ねるのかわからなくなった。血を吸わなければ生きられなくなった」
冷ややかな溜め息が漏れる。
「僕は普通の暮らしができなくなった。とてもじゃないけれど、家族と一緒には暮らせないと思った。怖かった。なにもかも、変わってしまった。僕は逃げるように故郷を去った。家族も、友人も、恋人も、泣きながら捨ててきた。そしてここへ来た。昼間はこの近所にある廃屋の影に蹲り、夜は絶望を抱きながら闇に溶ける。今じゃそんな有り様だよ」
アルフィンが上向くように顔を傾ける。思い出をなぞっているのか。それにしては希薄な表情だ。
「吸血鬼の能力でコウモリに化けることができるようになって、その羽であらゆる場所を転々とした。その結果、日本へたどり着いた。こんなかたちで憧れの国へ来ることになってしまったが、それも運命かもしれない。死ぬ前に、したかったことの一つが達成できた。そう思えばいい」
「……あなた、死ぬの?」
私の問いに、彼は形ばかりの笑みをつくった。
吸血鬼は永遠の時を生きる――そういう言い伝えじゃないか。彼の見た目は健康そのもので、大きな怪我も見当たらないし、そうそう簡単に死ぬはずがないのでは――私はハッとした。何故だかこの時、私の脳は驚くほど冴えていた。
「自殺、するの?」
「…………」
「吸血鬼が死ぬといえば、たとえば十字架に心臓を貫かれたり、聖水で身を焼かれたり、銀の弾丸に撃ち抜かれたり……?」
「…………」
「ううん、もっとわかりやすい、根本的なとこからかな。人間だって、ご飯を食べなきゃ生きていけないもんね。ねえ、アルフィン。あなた……いつから血を吸ってないの?」
問いかける声が不明瞭に揺れていた。アルフィンの細い眉が寄る。
「血なんか、一度も吸ったことないよ」
「どうして……」
「どうして、か。ならば逆に訊こう。たとえば君が今、僕に血を吸われて吸血鬼の仲間入りを果たしたとする。じゃあ君は今日から人の血を飲んで暮らしてね、そんなことを言われて、君はそれをあっさり受け入れられるかい?」
私は答えなかった。否、答えられなかった。
「できないだろう? そう、普通そうなんだよ。血を飲むなんて、そんないかれた発想、したこともない。いきなりそんなこと言われたって、躊躇うに決まってるじゃないか。人間の首に噛み付いて血を吸う? 冗談じゃない。したくないよ、そんなこと。たとえどんなに喉が乾いても、どんなに空腹を感じても。僕はまだ、自分を吸血鬼だと認めたくはなかった」
彼はとうとう両手で頭を抱えた。
「やっと、やっと死ねるんだ。長かった。1ヶ月飲まず食わずでも生きられるなんて、自分の体ながら笑える丈夫さだよ」
「お腹……空いてないの?」
「もうわからない。ほら、お腹が空きすぎると逆に空腹に思わなくなることってあるだろ。あんなかんじさ。ひどい飢えは越えた。あとは死ぬのを待つだけだ」
アルフィンは笑った。力なく、けれど満足げな、やたらと病んだ気狂いのような笑顔だった。私はゾッとした。そして、どうしようもなく悲しくなった。可哀想でならなかった。
「最期を看取るのに君を選んだことに、本当はなんの理由もないんだ。僕はもう疲れ果てて、これ以上彷徨う気にはなれない。でも一人では死にたくない。そんな時、不用心にも窓を開けて吸血鬼の侵入を許す若い女の子がいたから、いたずら心が湧いただけ。その程度のただの気まぐれで、君は言ってみればはずれクジを引かされたんだ。僕の死に際の戯れに付き合わされているだけなのさ」
――たとえばあの夜、彼の視線が一軒隣の家に向いていたなら、私たちは永遠に出会うことはなかったのだろう。
「そんな込み入った事情を、話してくれるタイプだとは思わなかった」
「キミが隠さずに話してくれたから――っていうのは建て前で、本当は腹が立っただけなんだ。キミの不幸なんて僕の不幸に比べればどうってことないくせにって」
きっと、そうだろう。確かに、彼が受けた不幸に比べたら、私の小さな失恋など些末なものだろう。でも、私には私の人生があって不幸があって、私だってとても傷付いているのだ。そんな非現実的な物差しで計らないでほしい。今度はひどく腹が立った。とてもむしゃくしゃした。ボロボロの心が二つこの場にあって、どこにも光がなかった。だから、血迷った。
私は机の上のペン立てからカッターを抜き取った。カチカチと刃を出す。それを指に当てたあたりで、アルフィンがようやく顔色を変えた。一足、遅かった。カッターの刃は薄い皮膚を破り、私の人差し指から一筋の赤い血が流れた。間近で息を呑む音がする。グイと手がつかまれて、私の人差し指にアルフィンが食い付いた。まるで獲物を襲う獣のような獰猛さだった。やっぱり辛かったんじゃないの――そう内心で独り言ちながら、私はアルフィンの耳元へ唇を寄せた。
「いいよ、私の血、吸って」
今、彼の眼前には私の首筋がある。少量の血液を見せられただけでこの取り乱しようなのだから、おそらくこの誘惑に打ち勝つ術など彼は持っていないだろう。予想通り、彼の手が私の肩をつかみ、ベッドへと押し倒した。ギリギリと腕をつかむ力の強さと、馬乗りになった彼の瞳に真っ赤な狂気が浮かんだ瞬間、ああ、なんて馬鹿なことをしているんだろうと思った。
グワリと開いたアルフィンの口の中には、確かに牙が光っていた。
ガブリ、と彼が私の首へ噛み付いた。鋭い牙が皮膚を貫通し、その隙間から血液が奪われていく。自分の体内のものが強く啜られ、補うように心臓が強く脈打った。彼の服を強くつかんで、小さな悲鳴を上げる。背中が弓なりに反り、足が突っ張ってビクビクと震えた。それはおそらく、一種の絶頂であった。
「君は自分のしたことをわかっているの」
アルフィンの怒りはもっともだった。彼の体にもたれかかって、私は「わかってるよ」と答えた。謝ることはしなかった。
一気にかなりの血が失われて、体がひどくダルい。片腕をようよう持ち上げて、私は自分の手をジッと見た。特になんの変化もない。口の中も触ってみる。尖った牙が生えた様子もなく、あいかわらずの普通な歯並びだ。
「私、吸血鬼になったんじゃないのかしら」
「さあ。相手を吸血鬼にする方法なんて、僕は知らないから」アルフィンが投げやりに言った。
「そっか」
私は彼の肩へ頭を擦り寄せた。
「よかったのかい。一時の気の迷いで人間をやめて」
「今日は悪いことが重なったんだよ。イチヤノアヤマチってやつ? きっと私はこの日を一生後悔するんだろうね」
「自暴自棄になった女性は恐ろしいね」
なんのことなしに言った私に、アルフィンは深い溜め息を吐いた。
「でもそのおかげで、あなたは死なずにすんだんだから、いいと思っておこうよ。私も、一度知り合った相手を見殺しにするなんてやだから」
「そういう問題かな」
「プラス思考は大事だと思う」
私はアルフィンを見上げた。生気の感じられない青白い顔に、苦悶の表情が浮かんでいる。
「これからどうする?」目を見たまま、私は尋ねた。
「どうするって?」
「さすがにこんなことしといてなんの責任もとらないなんて言えないよ。アルフィンと一緒に行く」
「……なんだか僕のほうが娶られるみたいだ」
私はちょっと笑った。
「こういう時は女のほうが度胸があるって、よく言うもんね」
終わってしまえば、私は意外と落ち着いていた。もう取り返しがつかないことをわかっているからかもしれない。まさかこんな簡単に人生を棒に振ってしまうとは思わなかったけれど。貧血のせいか、それとも夜のせいか、頭がぼんやりしている。明日の朝になれば、このうっとりとした諦観も覆されて、私は今夜の自分をきつく責めるのだろうが、今はそれでかまわない。今は考えたくなかった。だから、目の前の唯一にだけ目を向けた。
「僕、京都に行ってみたいな」
「いいね。私も京都は行ったことない」
「日本人なのに?」
「意外とそういうものだよ」
「ゲイシャって本当にいるの?」
「どこにでもいるわけじゃないらしいよ。会いたいなら下調べして行かないとね」
「立樹」
アルフィンはキツく私を抱き締めた。その後の言葉は続かなかったけれど、「ごめん」や「ありがとう」や、いろいろなものが混ざった複雑なものなのだろうと察した。私も同じ気持ちだった。
目を閉じると、家族や友人――佐野や田口の顔が浮かんでしまう。それが怖くて私はしっかりと目を開けて、アルフィンの薄い金髪を眺めた。
そういえば、アルフィンは昼間に外出できないのに、どうやって京都の町を観光するのだろう。場違いな心配事が頭に浮かび、私は眉を寄せた。まだこんなふうに平和なことを考えられるのに、わずかばかり安堵する。うっかり涙が零れそうで、私はアルフィンの青い唇にそっとキスをした。
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