乱ユキ(→)鉢
シャワーで昨晩の汗を流し、さっぱりとした気持ちで風呂場を出る。1DKの狭い部屋は、短い廊下を少し歩けばすぐに自室へと繋がる。裸足の足が床を踏むペタペタという音を聞き、乾いたタオルで髪の雫を拭き取りながらそこへ出ると、火照った体を生ぬるい風が撫でた。
正面の窓が開け放たれている。空が明るい。今日は好天だ。白い日差しに照らされるように、一人の男がそこに座っている。
「流れる雲さえ季節の色だね。もう夏がくるよ」
恋人である乱太郎は、ユキに優しく笑いかけ、言った。ユキはその明るい笑顔に、貧血にも似た目眩を感じ、マニキュアを塗った指を額に翳した。まるで太陽が眩しいと言わんばかりに、目の下に影を作る。今年の男は、若いと思う。
乱太郎とは今年から付き合い始めた。ユキにしてはひどくめずらしい、純粋で穏やかな青年だった。ユキを大切にするし、彼女のわがままや癇癪も「うんうん」と頷きながら柔らかく宥める。まるで、冬の枯れ木に花を付ける春のようだ。
彼をこうして部屋に招くようになっていくらか経つが、その甘さは変わらない。情事もいつも丁寧で、乱暴なまねなどされたことがなかった。俗に言う、“いい人”なのだ。
だからユキは困り果てる。捨てようと切磋琢磨する“悪い男”の思い出が脳裏をちらついて、足元がふらつく。乱太郎が善人であればあるほど、あの男との差が浮き彫りになって、余計に忘れ難くするのだ。去年まで付き合っていた、ろくでもない男のことを。
あいつを忘れるために、ユキは乱太郎と付き合い始めた。それは、乱太郎の方も承知の上だ。彼はどこまでも善良なのである。言ってしまえば身代わり。イミテーションの恋人。
ユキは頭を抱えた。己のしていることが最低な仕打ちだということは理解していた。しかし、目を開いて再び見据えた姿を見れば、やはりたどり着く思考は同じになる。
声が違う、年が違う、夢が違う、ほくろが違う。
そして、いつものように心の中だけで「ごめんね」と呟くのだ。「またあの男と比べていたわ」と。
乱太郎のことだって、ユキは間違いなく好きだった。ドロドロに腐りきったユキの心を、どこまでも清らかな御心で包む彼に、間違いなく傷は癒されていた。それがユキの良心を痛ませる最たる理由であったとしても。
なのに、いつまで経っても去年の影が振り切れない。残り香のように、あの嫌みな笑みがまとわり続ける。
「はい」
唐突に目の前に差し出されたものを見て、ユキはハッと我に返った。白い背景に、鮮やかな緑で「牛乳」と書かれたそれは、なるほど確かに牛乳だった。目をぱちくりと瞬きながら、ユキはその向こうの乱太郎を見る。
「いや、喉乾いてるかと思って。まあ、ユキちゃんのものなんだけど」
そう言って、乱太郎はへらりと苦笑した。
「そう」とだけ言って、ユキは乱太郎の気遣いを受け取った。こういう時「ありがとう」と微笑むことすらできないのが、自身の悪い癖だ。感謝の意を表す代わりに、ユキはその牛乳をぐいとあおった。喉を鳴らして飲み干す。『ありがとう、ちょうど飲み物がほしいと思っていたの、助かったわ』と、言葉でなく態度で示す。確かに喉は乾いていた。牛乳は、あっという間に空になった。
こういうところも、違うのだなと思う。あの男にこんな気遣いはできなかった。喉が乾いたと訴えても、そのそばで煙草に火を着けるような奴だった。
そしてまた、ユキの中に呪文のようなものが流れてくる。
癖が違う、汗が違う、愛が違う、利き腕が違う。
なにもかもが違うのだ。別の人間なのだから当然であるが、こうもかぶるところがないと、逆に際立ってしまう。ちょっとした仕草にすら、縛られている自分を自覚してしまう。雁字搦めだ。おそらく、目の前の優しい彼氏も、雁字搦めにされているのだと思う。どちらも、しているのはまぎれもなくユキなのだけれど。
陽が当たれば影が違う、色が違う、光が変わる。
ユキは、乱太郎の首に腕を回した。縋り付くように力を込めると、その手は慈しむようにユキの髪を撫でた。鳥肌が立つような安心感に、彼女はポロポロと涙を零した。
「ごめんね」とユキは言った。「いいんだよ」と乱太郎は囁いた。
ごめんね、今年の人。たぶん、私は去年の人を忘れることはできない。この優しい腕も、健やかな魂も、自分にはもったいなさすぎるのだ。この体に染み付いた汚れは、きっとミルクの白さくらいでは落とすことができない。白が黒に染まることは容易くとも、黒が白に浄化されることは不可能なのだ。
胸の内でもう一度「ごめんね」を言う。イミテーションの恋人たちは、いつまでもそうやって不毛な堂々巡りを繰り返していた。
▽イミテイション・ゴールド/山口百恵