伊卯←綾



 卯の花が満開を迎え、もうそろそろ見頃を終えようかという五月。四年い組の綾部 喜八郎と、くノ一教室の卯子は、特に会話することもなく、忍たま長屋の縁側へ腰かけていた。

「卯子さん、残念だけど今日は伊作先輩はいないよ。保健委員会の顧問の新野先生と一緒に、薬草取りに出かけてる」

「知ってますよ。さっき聞きましたから」

「そう」

 わざわざくのたまの掟を破って忍たま長屋まで忍び込んできたのに残念だね――とは、以前口に出してしこたま噛みつかれたのでもう言わない。

 綾部は手中の踏み鋤に視線を戻すと、手入れを再開した。卯子はジッと押し黙ったまま、立ち上がるでも話を振るでもなく、ただ空を見上げていた。

「一日会えないくらいでそんなに落ち込まなくても」

 手元の愛しいふみ子から目を逸らさないまま、綾部は言った。手入れ用の布でよく磨かれたふみ子は、先ほどの穴掘りで付いた土を綺麗に落とされ、元の姿を取り戻していた。一人満足して「うんうん」と頷き、大切に隣に立てかける。ふと、反対側を見ると、卯子が空に向かって手を伸ばしていた。

「綾部先輩にはわからないでしょ」

「へ?」

 きょとりと、綾部は瞬きをする。

「一日会わないだけで忘れられるかもしれないとか、でも毎日会いに来てたら鬱陶しいって思われるかもしれないとか、そういうのわかんないでしょ」

 まるでなにかをつかむように、卯子はギュッと拳を握った。平素からあまり愛らしいとも言えない彼女の双眼が、憎々しげに細まる。綾部が憎くてそんな顔をするわけでないのは、彼にもわかっていた。卯子は、収拾のつかない己の感情に、辟易としているのだ。

「わかるよ」

 手入れ用の布をたたみながら、綾部は言った。卯子が、勢いよくこちらを向いたのが、視界の端に映った。

「えっ、マジすか。綾部先輩も恋してんの? えっ、誰? あたしの知ってる人?」

 興味津々というふうに身を乗り出してくる卯子に、綾部は何も答えなかった。ただ、土にまみれた白い布を、丁寧に丁寧にたたみ直していた。



 夏になり、伊作と卯子の関係にほんの少しの変化が訪れた。それまでなんの思惑もなく卯子に接していた伊作が、卯子の想いに気付いたのだ。卯子も否定せず、きちんとそれを伊作へ伝えた。自分を慕ってくれる少女からの突然の告白に伊作は戸惑ったが、悪い気はしないようだった。そこから、二人の距離は縮まった。

「なんか綾部先輩には悪いことしたな」

 忍たま長屋の縁側、綾部の隣に座り、卯子は言った。五月のあの日と同じように、彼女は忍たま長屋へ忍び込み、伊作に会いに来ていた。今はもう、あの時のような穏やかな気候ではなく、蝉がそこかしこで命の大合唱をし、太陽は地球を焼き、綾部はだらしなく装束の前を寛げ、やはりあの時と同じく愛用道具の手入れをしていた。変わったのは、踏み鋤のふみ子から手鋤のてっ子になったことくらいだ。

「なにが?」

 グラグラと沸くような熱気だが、ここは大きな木陰になっていて、強い日差しからは守られている。しかし、それによって外界との遮断感が顕著になるのか、妙に意識がぼんやりと揺れた。普段からつかみどころのない顔が、さらに怠惰を引き連れて気怠い様を表している。卯子の距離が近すぎることも、原因の一つかもしれない。彼女の方はわりとハッキリしていて、前髪を耳にかける程度だ。

「いや……なんか、ほら。あたしこないだまで伊作先輩のことで悩んでて、綾部先輩にいろいろ当たったりしてたじゃないッスか」

「うーん、そうだっけ」

 適当に答えた綾部を、卯子がジロリと睨む。綾部はてっ子の手入れに余念がない。

 はあ、と軽い溜め息が聞こえ、

「でもあたし、感謝してるんです」

 いつもの溌剌とした彼女からは想像もできない密やかな声音が、綾部の耳をくすぐった。

「くのたまの友達にも、相談できる相手いなかったから。偶然とはいえ綾部先輩に知られて、でも先輩は笑ったり言いふらしたりしなかった。いつもどうでもよさそうに話を聞いて、でもいつだってちゃんと頷いてくれた。あたしが八つ当たりじみた癇癪言っても怒ったりしなかった。それは、あたしをすごく救ったよ。それだけであたし、すごく救われてたんだ」

 卯子はそこで一度言葉を切り、

「綾部先輩。あたし、伊作先輩と恋仲になったよ」

 綾部はしばし、作業の手を止めた。一回だけ瞼を閉じ、開く。目だけをチラリと卯子の方にやると、卯子はおとなしく座ったまま、それ以上なにか言おうとはしなかった。ほんの少し、頭(こうべ)が垂れたのが、自分自身わかった。

「よかったね」

 そう言うのがやっとだった。卯子がうれしそうに微笑んだのが気配でわかって、綾部はまたゆっくりと、てっ子を磨く手を動かし始めた。



 水際に、小さな小舟が一艘泊まっている。向こう岸は、はてしなく遠いようにも、手が届くほど近いようにも見えた。だが、川を越えるには、この船を使って渡るしかない。

 綾部は振り返った。ここにいる人間は三人、けれど船は二人乗りだ。自分以外の二人は、この船が二人乗りだということ知っている。知らないのは、綾部も向こう側へ行きたがっているということだった。そして綾部は、それを二人に伝えるつもりはない。

 ――どうぞ行きなさい、お先に行きなさい。

 綾部は笑って言った。二人のうちの一人、善法寺 伊作は、「ありがとう」とはにかむと、ゆっくりと船に足を乗せた。それを見届け、もう一人の方、卯子にも促す。

 ――さあ、卯子さんも乗って。

 すると、卯子は不安そうに綾部を見上げ、こう言うのだ。

 ――綾部先輩は?

 何を言うか。これは二人乗りなのだ。三人も乗せることはできない。それに、僕の気持ちは重すぎて、きっと船はすぐに沈んでしまうだろう。

 それでも、卯子のそんな気遣いを、綾部はとてもうれしく思った。薄れかけていた想いが顔を出して、慌てて首を振る。

 ――いいんだ、僕は後から行くから。君は先に行って。

 そう言って、綾部は柔らかく微笑んだ。


 綾部は願っている。君と好きな人が、百年続きますようにと。

 君が笑うためなら、僕の気持ちなど蓋をして、一生日の目を見ることがなくてもいいのだ。だから、知らなくてもいい。待たなくてもいい。どうか、僕のことは忘れて、君は君の好きな人と幸せになっておくれ。

 たぶん、これから君たちは、たくさんの荒波や強風にみまわれることだろう。時にはすべてを投げ出して、水の中へ潜りたくなったりもするかもしれない。だが、迷ってはいけない。そんな時には、僕の我慢を思い出しておくれ。今、僕が君を彼の元へ送り出すのは、そのためなのだから。君たちの行く末にどんな困難が待ちかまえていようと、二人ならきっと乗り越えることができる。愛し合う二人の前には、少しの波くらい、たいしたことはないはずだ。

 さあ、そろそろお行き。川の流れは穏やかだが、いつ気が変わるか知れない。波風が立つ前に行ってしまわなければ。

 綾部は、卯子の背にそっと手を添えた。卯子が船の方を見る。綾部もそちらへ視線をやると、彼女が愛してやまない、不運でとびきり優しい青年が、満面の笑みで手を振っている。

 ほら、あんなにいい人を待たせちゃいけない。

 微笑みながら卯子を見つめ、綾部はその行き先を指し示した。

 他人の恋の背中を押すのに、これほど穏やかな気持ちになれることもあるものだと、綾部 喜八郎は他人事のように感心した。おまけにそれが、自分の好きな女の子と別の男との仲なのだから、はたから見れば綾部はひどく奇特な者として映るだろう。

 だが、綾部はけして不幸ではなかったし、こうすることが一番最良であると心から思っていた。自らの恋が人知れず閉幕したことに対する切なさは確かにあったが、それを上回る晴れ晴れとした気持ちで、綾部は卯子の背中をポンと叩いた。

「さあ、行っておいで」




▽ハナミズキ/一青窈



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