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揺らめき




じんわりと、熱が広がる。
向こうの吐息が意識せずとも聞こえてしまうくらいに、静けさを帯びた空間。ああ、もしかしたら、この鼓動さえも聞こえてしまっているかもしれない。それはいけない。それは、そればかりは、恥ずかしくてたまらない。
「眠れませんか」闇の中にそんな声が聞こえる。瞼を開き、隣の温もりに意識をやって、溜め息をつく。分かりきった答えを、しかし彼女はなんという事のないように言ってのけるのだから、なんとも始末に負えない。

「そう思うのなら、出ていってくれるとありがたいのだがのう」
「それは出来ませんね。私は楊ゼンの命を受けている訳ですから」
「わしよりも楊ゼンの方が大事か」
「さあ、どうでしょう」

あの女装趣味の仙人め。と内心で愚痴を吐く。相変わらず隣の女は無表情で本を読んでおり(この暗闇で果たして内容を理解できているのか)、馬鹿正直な奴だと呆れざるをえない。彼女は昔からこういう人間だったのだから、今更それを改善する事もないのだろう。三つ子の魂百まで、というじゃないか。
周の地で軍師として働く太公望は、度々執務から逃げ出す事がある。この間も誰に何も言わず抜け出しては彼の大好物である桃を食っていたそうで。仕事も選り好みし、優秀ではあるのだがあまりに自由奔放な彼に頭を痛めた楊ゼンが提案したのが、太公望の苦手とする妹弟子である道士、名前を彼につかせる事であった。
効果はてきめん、四六時中後ろをついてくる名前に、太公望はほとほと参っているようだ。生真面目で融通のきかない少女はそんな彼の気苦労を知ってか知らずか、今も同じように、彼の部屋の隅で夜を過ごしているのだった。何も夜まで共に過ごさなくても、と楊ゼンは困ったように言うが、その言葉に仕事ですからと静かな声で返した名前は、ある意味馬鹿である。
「のう」なんとなく黙っているのは苦痛だった。特に用もないのに声をかけてしまうが、そんな彼の心中など察する事もなく名前ははいと抑揚のない返答をする。ぱたん、と本を閉じる音が聞こえた。

「おぬしは、わしの為に時間が潰されるのを嫌とは思わんのか」
「構いません。私は貴方とは違い、特にしなければならない事などありませんので」

「つまりこれは適材適所という訳です」続けて彼女はそう言った。それは、つまり、暗に私は役立たずである、とそう自白しているようなものではないか、と思う。
まあ、気持ちも分からなくはない。こうみえても彼女はあの宝貝人間と同じく、血の気が多いというか、頭脳派とは対極の位置に存在するのである。そんな彼女がこの時期に役に立つかどうかと聞かれれば、答えは否であって。
「しかしそれは詰まらなくないか」彼には彼女の心の中など知る事も出来ないのだけれど。

「詰まる詰まらないの問題ではありません。これは仕事です」
「そう言われるとわしとしても答えようがないのだが……相変わらず楽しくなさそうな生き方をしておるのう」

大凡感情を持つ人間のそれではないな、と思う。いや、失礼な事ではあるが、そう考えるのはごく自然のように思える。
だから太公望は名前の事が苦手であった。嫌いな訳ではない。寧ろ彼女に抱く感情は心地の良いものであったが、しかし、それにしてもだ。
「そろそろ」寝たらどうですか。と、そう彼女の言うのに、意識を揺り動かされる。ああ、そうだ。今は夜中だったのだ。明日も同じように頭の労働をしなくてはならない。少しでも脳を休ませておかないと、ああ、周公旦に何を言われるか。
けれど、素直に横になれるような心中でもない。目をふっと細めて、隣の彼女へと顔を向ける。

「おぬしは寝ないのか」
「貴方もご存じでしょう、私はそれほど休養を必要としません。貴方が眠りに落ちた後の一時間でも十分です」
「それはまた、体に悪そうな……。まあ良い、それでは」

書類の乱雑とした机に体重を預け、目を瞬かせる名前へと身を乗り出す。椅子に体を預ける彼女へと視線を落とし、にやりと笑う。

「わしと遊ばんか」
「あら」

健康的な肌に触れると、目の前の女は少しくすぐったそうに身をよじる。

「随分と色の籠った視線ですが」
「そうだのう。何しろそういった事だから」
「お歳の割にお若い事をなさるのですね」

その物言いにカチンとくる、が、まあ確かに、まだ50にもいかない名前からしたら、太公望は年寄りなのだろう。仙道であるから姿こそ変わらぬものの。
「それで?」先を促すように呟いた。

「ええ、折角のお誘い、申し訳ないのですが、私はそう簡単に殿方に身を委ねる事の出来るような性格でもありませんし」
「まあ、それもそうだ」

分かってはいたのだが、断られると少しだけ残念に思う。まあ、彼も彼女も冗談の範疇だったのだから、そこまでダメージはないのだが。くつくつと笑って、頬にやっていた手をそっと離す。
ああ、馬鹿をやっている時間でもない。そろそろ横にならなくては支障が出る。
寝台に体を預ける。と、自然に彼女の方へと視線がいく。

「……それでは、お休み。おぬしもいい加減に休息を取るのだぞ」
「ええ、言われずとも。…………ああ、太公望」

久々に名を呼ばれたような気がする、と彼は思う。

「私は先ほど、ここにいる事を仕事だからという理由で片付けましたが、それ以外にも勿論理由はあります」
「……ほう?」
「信用し信頼し、大切に思う方と共に過ごせるのであれば、どんな口実があろうと構いはしませんでしょう?そういう事です」

暗がりの中で彼女が微笑んだ。言葉の意味を理解すると同時に、少しだけ頬が赤くなる。
してやったり、とでも思っているのだろうか。すべてを知ったような顔をして名前は再び本を開く。ああ、なんとも意地が悪い。そんな事を言われては、気が昂ぶって眠れなくなるかもしれないではないか。
夜も更けてゆく。いっそこのまま朝日が昇るのを待つのも悪くはないか、などとそんな事を思いつつ、暗い部屋で二人時を過ごしていくのだ。



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