小柳リンは忍のくせに一切忍ばず俺に付き纏い、あまつさえ事ある毎に堂々と自分勝手な要求をしてくる、他に類のないイカレ女だ。
要求一つとっても種類は豊富で、やれ宿題を手伝えだ、やれ家に入れろだ言ってくるのはまだいい方。
今日の要求は、何やらラッピングが施された淡いピンク色の箱を突きつけてきた上での「私の目の前でこれ食べて」である。
今にも雪が降り出しそうな寒空の中、一体何を言うのやら。俺はさっさと家に帰ってコタツに入ってみかんが食いたい。
大体こいつから何かを受け取るなんて危険すぎる。自殺行為だ。何を仕込んでやがるかわかったもんじゃない。下手すりゃ命に関わる。
「好きな人の命とるわけないじゃん」
「いいや、お前は俺を殺した後で剥製にして家に飾りだしたっておかしくない」
「猟奇的すぎる」
絶対食べたくない俺と絶対食べさせたいリンで両者譲らない戦いが始まった。
箱の中身が何かは知らないが、わざわざ『目の前で』食べろと言ってくるのも怪しすぎる。命をとるまではさすがにないにしても、変な薬か何かを盛っている可能性は十二分にある。
「いいじゃん!食べてよ!せっかくがんばって作ったんだから!」
「手作り……?やっぱりな、毒でも仕込んだか?」
「なんでそうなるの!」
「俺は騙されねぇ」
「ああーもう!そんな疑い深いところもかっこいい!」
怒ってんだかときめいてんだかわからない。
苛立ちか興奮かわからない地団駄を踏むリンだったが、そのうち「わかった」と箱をそこらへんに置いたかと思うと妙な提案をしてきた。
「ゲームしよう。私が勝ったら言うこと聞いて」
「はあ?誰が乗るか、そんな話。俺にメリットがねぇ」
「もしシカマルが勝ったら、もう今後一生シカマルに抱きつかないし好きって言わないし近づかないし視界に入らない」
「!」
その箱の中身は、そこまでのものを賭けるほどのものってことか?
ますます怪しさしかないが、俺が勝った時のメリットはそれなら確かに大きい。
寒い上にめんどくせーことこの上ないが、勝ちさえすれば、もう今後一生このイカレ女に振り回されなくて済むってことだ。かつての穏やかで退屈だった日常を取り戻せる。
このチャンスを逃す手はないだろう。
「乗った」
「じゃあゲームの内容は……鬼ごっこなんてどう?」
「……お前、自分の得意分野で勝負しようとしてるだろ」
「だってどう考えたって私が賭けてるものが大きすぎるんだもん。組手しようとかかけっこしようとか言ってないだけ大分譲歩した方だと思うけど」
「それもそうか。まぁいいぜ、じゃあそれで」
情けない話だが、単純な身体能力や格闘術で言えば実力はリンの方が上だ。組手や徒競走での俺の勝算は低い。
その上で、自分の身体能力のハンデを取りつつも、俺が話に乗ってきやすいようにとその他複合的な要素を組み合わせたゲームとしての鬼ごっこという提案は、リンにしてはよく考えていると思う。
しかしそれでもまだ、リンの奴は鬼ごっこを徒競走の延長ぐらいにしか考えてないだろう。
そうでなければ俺相手に鬼ごっこなんて提案するものか。
鬼ごっこに必要なのは知略と策略。
さっきはあたかもリンの方が有利であるかのようなフリをしたが、そうではない。
本当に鬼ごっこが得意なのは、俺の方だ。
じゃんけんの結果、鬼はリンになった。
制限時間中に俺を捕まえればリンの勝ち、逃げ切れば俺の勝ちといういたってシンプルなルールだ。
「まぁせいぜいたくさん走っておくれよ。運動後のデザートはきっとさぞ美味しいだろうから」
リンは余裕綽々で腕まくりをする。
すんげームカつくがここはあえて放置して調子に乗らせておこう。吠え面かかせてやるのが楽しみだ。
そして俺が走り出し、それから10のカウントの後にリンが動き出した。
かくれんぼではないからカウントは短い。けれど物陰に隠れながら走ったおかげでリンか一直線で追いついてくるようなこともなかった。
鬼ごっこと称してしまえば子どもの遊びだが、ゲームの性質自体はアカデミーの演習とほとんど変わりない。忍ぶ者と追う者、どちらが優れているかの優劣を競っているのだから。
このままひと所に隠れてやり過ごすのも一つの手ではあるが、隠れるのに適した場所というのは逃げるのに適さない場所と紙一重だ。
これがかくれんぼならそれで構わないが、鬼ごっこならあまり良策とは言えない。
だけど俺はあえて隠れた。
白い息が漏れないように、なるべく呼吸を抑える。
これで逃げ切れるならそれでよし。見つかったとしても、俺には二手目がある。
むしろ二手目に賭けているところはある。残念なことにリンは俺に対する嗅覚がやたら効く。おそらくどこに隠れたところで……
「シカマルみーっけ!」
その声が聞こえたのが先だったか、それまで俺がいた場所にリンのかかと落としがぶち込まれたのが先だったか、わからないが攻撃はなんとかギリギリ避けた。
立ち上る砂煙の中でリンがムッと頬を膨らませている。
「獲ったと思ったんだけどなー」
「鬼は相手にタッチすればいいだけのはずだが、なんでかかと落としが降ってきたんだ」
「足の方がリーチが長いから。それとも足でタッチはだめだった?」
「いや……まぁ、そういうルールは決めてなかったな」
余裕ぶっこいてた割に油断はないみたいだ。
それが仮にも好きだなんだと言っている相手にすることかとは思うが、イカレ女に言ったところで常識的な返答なんてないんだろう。
「まぁでも、この距離ならもう終わったも同然ーーー」
「いや、もう一回最初からだ」
「あ」
俺とリンの影が繋がった。
歩き出そうとしたリンの足がぴたりと止まって、苦い表情を見せる。
影真似の術成功だ。
「術使っていいなんて言ってない!」
「使ったらダメだなんてことも言ってない」
「きぃ〜〜〜〜!」
あとはこのまま突っ立ってるだけで時間切れで俺の勝ち……と、言いたいところだが。
時間はまだ残り10分弱もある。リン相手に術をかけ続けるのはおそらくもたない。
だから最初から、だ。
「じゃあな!」
術をかけたまま、それまで向かい合っていたリンに背を向けて、俺はまた走り出した。
背後からは文句を叫びつつ俺から遠ざかるリンの足音が聞こえる。ざまぁみろ。
しばらくはリンが通る進路も想定して、お互いどこにもぶつかることがないように走ったが、ある程度距離をとった後には何も気にせずとにかく影が伸びるギリギリの距離まで走った。俺が走り続けている分、今頃リンはひたすらどこぞの壁にでも押し付けられていることだろう。
糸のように細く伸ばした影にもそのうち限界が来る。俺は再び適当なところに姿を隠して、リンに繋げた影を切った。術の解かれた影は一瞬で戻ってくる。これを追ってくるなんてことは不可能だ。
さて、残り5分、このまま逃げ切れればいいが……
そう息を潜めていた俺の目の前を、リンが凄まじい速さで走り抜けた。
「!?」
驚きに目を剥く俺の心情なんて露知らず、さらにリンは「あ!行き過ぎた!」と俺の視界の範囲内まで戻ってくる始末。
ばかな!
術を解いてまだ1分も経ってないだろ!ここまで迷いなく走って来たとしか考えられない。何か気づかないうちにマーキングでもされたか?何かをつけられた?におい?なんだ?何を目印に追ってきた?
きょろきょろと当たりを見回すリンの動きを目に留めながら、服を鼻に押し付けて匂いを嗅いだ。特に何も匂わない。
足元に影が見えた。俺のではない、別の影だ。
咄嗟に印を結んでその影と自分の影を繋いだ。頭上を振り返ると、身動きの取れなくなったリンが文字通り降ってくる。
今の今まで確実にリンのことは視界に捉えていたはずなのに、いつの間に上を取られた?
結論を導き出す前に、俺と繋がったリンは地面に落ちて、水たまりになった。
ーーー水分身だ。
そしてその水たまりを踏み抜いて、今度は真正面からリンの足が顔面に向かって伸びてきた。
寸前で躱したものの、靴の先がわずかにこめかみを掠めた。
「ああーっくそ!」
影を掴まれないようにだろうか、リンはその一撃の後にすぐに後ろに引いた。
「つい顔狙っちゃった!胴にすればよかった!」
「ついで顔面狙うなよ。こえーわ」
リンを侮っていた俺の、思考の先にあいつはいた。あいつがあの水分身を三体も四体も作れるような忍であったなら、おそらくもっとあっさり決着は着いただろう。
これが徒競走の延長などではないと、リンは知っていたのだ。
「……なんで俺の居場所がわかった?」
「え?普通に辿って来ただけだけど」
事も無げにリンはそう言う。
それはもちろん理屈上は可能だ。俺とリンは同じ動きをして逆方向に進んだ。その動きをトレースすれば俺の居場所に辿り着く。
だけどそんなの、リンなんかにできるもんか。いや、リンでなくてもだ。俺ならできるかもしれないが、それでも瞬時にその方法を選べるかと聞かれれば怪しい。
それがあの、ペーパーテストはロクに点が取れないどころか、まともな言葉使いや四則演算すらあやしい、体を動かすことしか芸がないような奴にできるはずがないだろ。
「途中から壁にぶつかっただろ。そんなんでどうやって道を辿る?」
「そりゃあ壁にめり込みながらもずっと必死で自分の足の動きを見てたんだよ。後はとにかく見て覚えた通りに真似して動いただけ」
何かタネがあるに違いないと思ったのに、リンはそれを明かす気がないみたいだった。
足の動きを見て覚えるってなんだよ、まだ素直に体の動かし方を覚えたって言われる方がしっくりくるってのに。
何しろこれは俺がリンを舐めてかかった結果だ。どんなタネかは知らないが、リンの方が一枚上手だった。
「最終的に見つけられたのはシカマルの匂いを辿ったからだけど」
「きも」
一体何がそんなに臭うというのか。俺はまた自分の腕を鼻に押付けた。自分では気づかない生活臭ってやつか?……あ、鹿?鹿か?
「あ!おしゃべりで時間稼ぎしようったってそうはいかないから!」
リンはそう言うと、また水分身らしきものを一体作った。
「ふっふっふ、分身がタッチするのはダメなんてルールは決めてないよね。好きな方に影真似かけていいよ、残った方でタッチするから!」
さっきから変だと思っていたが、やっぱり。リンは靴の先が俺に触れたことに気づいていていない。俺はあの時点で自分が負けたと思ったが、リンの中でゲームはまだ続いているみたいだ。
同時に走り込んでくる二人のリンを見ながら、俺は考えた。
気づいていないなら、こっちも黙っていればいい。
影真似は一人までしかかけられないと都合よく勘違いしているリンを、水分身と同時に掴まえてしまって、あとは時間が経つのをただ待てば、俺が逆転勝利を収めることになる。実に簡単な話だ。
それで俺はこいつから解放される。
あやしいもんは食わなくて済むし、こんなゲームには二度と付き合わなくて済むし、それから……
『もう今後一生シカマルに抱きつかないし好きって言わないし近づかないし、視界に入らない』
望んで受けたゲームのはずなのに、今になってリンの言葉が嫌に重く響いた。
あの言葉は本気だっただろうか。しれっと明日には「そんなこと言ったっけ」なんて図々しい顔をして、また今までと同じように過ごすんじゃないか。
だけど俺は、リンが嘘をつくのを聞いたことがない。
結局俺は、手も足も動かせなかった。
自分の中で誰に聞かせる訳でもない言い訳をする。
ーーーあのな、いくらなんでも『視界に入らない』は、言い過ぎだろ。
そこまでしろって言った覚えはねーよ。
ただただ突っ立つ俺を不思議そうに見て、リンは「どうかした?」と労るようなそぶりを見せながら肩に手を置いてきた。
「タッチ」
「……もうとっくにされてら」
「え?」
こめかみに残っているであろう擦り傷を見せてやれば、リンは「早く言ってよ」と少し怒った。
言わない選択肢だってあったんだ。
……俺が正直者だったことに感謝しろよ。
制限時間を告げるアラームが鳴り響いた。
俺はハァと真っ白な息を吐き出す。
罰ゲームの時間だ。
適当に移動して座ったベンチで、リンが先程の箱をもう一度差し出してきた。
負けたからにはもちろん指示には従う。意を決してラッピングのリボンを解いた。致死量の毒でないことをひたすら祈る。
中身は見た目に鮮やかなオレンジに、チョコレートがかかった菓子だった。
薄く切られたオレンジの半分ほどをチョコレートが覆っていて、オレンジもチョコもなんともつやつやと輝いている。普通に美味そうだ。
「めしあがれっ」
一体これがなんだって言うんだ。なぜそこまでこれを食べさせたいのか。
疑問は尽きなかったがここで質問攻めにするのは往生際が悪いと思い、黙ってそのチョコがけオレンジを一つ頬張った。
とにかく甘い。チョコは言わずもがなオレンジも甘い。けれど徐々にオレンジの皮のほろ苦さが後を追いかけてきて、咀嚼して飲み込んだ頃には次をまた食べたくなっていた。
「どう?」
「うまい」
素直に答えて、自分の欲に素直になって、もうどうにでもなれの気持ちで二口目を食べた。うん、うまい。ここにコタツがあれば最高なんだが。
「よかった〜」とリンはそんな俺をにこにこと見つめている。
「一体なんなんだ、これ」
「オランジェットっていうお菓子なんだって。いのに教えてもらったの」
「いや、そうじゃなくて……」
「毒も薬も仕込んでないよ」
「本当にただの菓子なのか?意味わかんねー……なんでそんなもんのために」
「好きな人にバレンタインチョコが渡せないなんて、乙女にはそれだけで致命傷だからだよ」
「ばれんたいん……?」
まるでバレンタインを知らない人間のような発音になってしまった。
知らないわけじゃない。女が好きな男にチョコを渡す日だ。モテない俺にはずっと関係なかった日だ。
それが、今日か。
そういえば今日一日ナルトとキバがずっとソワソワしていたような気がする。そして帰り際には落ち込んで肩を落としていたような気もする。
これが、そうか。おそらくあいつらが誰からも貰えなかった、バレンタインチョコというやつか。
「本気でわかってなかったの?ずっと照れ隠しでもしてるのかと思ってた」
「ますますわかんねー……これだけのために、お前はあれだけのもんを賭けたのか」
「もちろん、勝つ自信があったからね」
「は……」
そりゃ、自信がない勝負なんてふっかけてこないだろうけど。
待てよ。
もしかしてこいつ、俺が迷うことを想定して、わざとあんな大袈裟なことを言ったんじゃ。
「お前……」
「ふふ、食べてもらえてよかった」
さっきまで人の顔面目掛けて渾身の蹴りを繰り出してきていたとは思えない、とびきりやわらかで甘ったるい笑顔で、リンは俺を見つめていた。
……まぁいい、リンなんかにそこまでのことが考えられるはずもない、ていうことにしといてやる。
結局ここに帰結しなければお互いが不幸になるゲームだったんだ。なんて無駄な時間を過ごしたんだろう。
だけど運動の後のデザートは格段にうまい。
これは本当だ。
「ていうか、なんでわざわざ目の前で食べろなんて」
「だって感想はすぐ聞きたいじゃん」
「そういうところが疑わしく見えるんだ」
「ええー……だって持って帰って食べてくれる保証もないし」
「……食うよ。初めてもらったバレンタインチョコだし」
「!……ありがとう」
「なんでだよ、礼を言うのは俺の方だろ」
「ん」
「ありがとな」
「えへへ、どういたしまして!」
こいつといると俺の日常は穏やかさとも退屈とも無縁になるけれど、たまにはこういうのも悪くない。
そんな風に思わせてくるところが、こいつのよろしくないところだ。
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