あかいろ
涙色電車

俺が初めて彼女を見た時、彼女は泣いていた。




それは俺が大学の講義を終えてから乗った電車の中でのことだった。
まだ帰宅ラッシュには少し早く、十分に空席がある車内。けどその彼女はあえて扉の近くに立ち、銀色のパイプを掴んで俯いていた。
耳にはイヤホンを差しており、そのコードはコートのポケットの中に伸びている。

その彼女の横顔がまるで明日にでも世界が終わるかのようにどんよりと暗かったので、ちょうど斜め向かいに座っていた俺は最初、彼女は気分でも悪いのかと思って声を掛けようかどうか悩んでいた。

そして不躾にもその顔を眺めていると、きらりと彼女の瞳に光るものが見えた。

え、と思っているとその瞬間そこから涙が零れ落ちる。
彼女はそれを拭うことも隠すこともせず、流れ落ちるままにしていた。

俺は急にいけないものを見ている気分になって、顔を逸らした。
けど妙にその横顔が脳に焼き付いていて、離れなくて。

俺はもう一度彼女を振り返った。
すると彼女はもう泣いてはいなかった。

俺が顔を逸らしていたのなんて、ほんの数秒の話だ。そのわずかな間に彼女は泣き止み、更に今まで泣いていたのが嘘のように平然とした顔で窓の外を眺めていた。
俺は驚いて、思わず彼女の顔を凝視してしまった。

するとさすがに視線に気づいたのか、彼女がこちらを振り返った。
あ、やべ。
そう俺は焦ったが、彼女は俺と目が合うと戸惑い気味にだけどにっこり笑って、ほんの軽くだが会釈をしてくれた。
思わず反射的に会釈を返す。そして彼女はすっとまた窓の外に視線を戻した。

…俺が、泣いてるとこ見てたって気づいてんのかな。
気になったけど、もちろん尋ねることなんかできなくて。
俺は彼女に倣って、窓の外に視線を向けた。西日がまぶしい。

それから彼女は俺が降りる駅の一駅前で降りていった。
その降りていく後ろ姿を見ても、俺の頭の中では、泣いていた時の綺麗な横顔がよぎっていた。


それから気がつけば、車内で彼女のことを探すようになる自分がいた。

彼女は俺の最寄り駅の次の駅で乗り、俺が降りる駅の一つ前の、K大の最寄駅で降りることがわかった。
彼女は見た目からして大学生。おそらくK大に通っていると見て間違いない。K大といえば有名な教育大学だ。へー教師志望なんだ、なんて考える俺はちょっとストーカー入ってたりするんだろうか。

朝はどうやら同じ電車を利用しているみたいだから、彼女を見かけることは多かった。
ただ帰りは、なかなか一緒になるようなことはなかった。ま、俺だって時間割の組み方で日によって乗る電車が違うんだから当たり前なんだけど。

一緒の電車に乗ってどうする気なのか、というのは実は何も考えてない。
お近づきになりたいとかそんな風に思ってるわけじゃない。
ただ俺はなんとなく、あの日の彼女の涙が忘れられないだけだった。

今日も俺は講義を終えて電車に乗る。
ラッシュ前のこの電車は、俺が彼女に初めて会ったあの時と同じ電車だ。
この電車に乗る時はいつも期待してしまう。次の駅のホームに彼女はいるだろうか、彼女はこの車両に乗るだろうか。

そんな希望は、今日初めて叶った。

あの日と同じ席に座っていた俺の斜め向かいに、あの日と同じように彼女は銀のパイプを握って立ったのだ。
耳にはイヤホンを差していて、そして彼女はやっぱり暗い顔をしていた。

そんな横顔を見ながら、俺はやっぱり彼女に声を掛けたくなった。
きっと彼女はもうすぐ、また泣き出すんだろうとなんとなく思った。

あの泣き顔は確かに綺麗だった。
でも女の泣き顔なんて、好んで見たいものじゃない。
彼女が泣く前にそれを止めたかった。

けどなんて声を掛けるんだ?今あんなに辛そうにしている彼女に「ねぇ君可愛いねお茶でもどう?」なんて言った日には俺自己嫌悪で死ねる。
あの日に考えたように「大丈夫ですか?具合悪いんですか?」とかにするか。それも鬱陶しいんだろうけどなぁ…

そんな風にうだうだ考えながらまた見過ぎたのか、彼女がこちらを振り返った。
その目はすでに涙で濡れていて、一寸後にそこから一粒二粒とそれが溢れ出した。

それを見た瞬間俺は思わず立ち上がり、気がつくと彼女に近づいてその涙を己の袖で拭っていた。

…な……何をしてんだ俺はあああ!!!

どうすることもできなくなった手を彼女の頬に当てたまま、俺は固まった。

おい。おいこら檜佐木修兵。
お前これは立派なセクハラだ。無意識とはいえセクハラだ。
決まりかけてた内定もこれでパーか?マジ何してんだお前ってやつは…

「ええっと……」

当然ながら少々ビビった様子できょとんとする彼女。
俺はもうこうなればやけくそだと彼女の耳からイヤホンを抜き取ると言った。

「泣くな!俺はあんたの笑った顔が見たい!」

ああ結局はそういうことだ。
俺は妙にその自分の言葉に納得した。

相手からすれば俺の行動も言葉も意味不明だろう。笑顔なんか見せてくれることもなく俺は不審者として警察に突き出されるんだ。
でも言いたいことを言い切った、その達成感は満ち足りてるからもう良しとしよう。

「…あ、あはは、お兄さん変な人ですね」

…笑った。
変な人とは言われてしまったが、彼女のそれは別に不快感を表すようなものじゃなかった。
むしろ…

「そういえばお兄さんには前にも一回見られちゃいましたっけ。大丈夫ですよ、私いつもいつも泣いてるわけじゃないです。心配してくれて、ありがとうございます」

むしろ何故か、ほんとに何故か、好感触?

「大学でちょっといろいろあっただけなんです…ほら、もう泣き止みました!私泣き虫だけど、泣き止むのも早いんです!知ってるでしょう?」

あの日のことを彼女も覚えていたらしい。
にっこり笑った顔はあの日よりずっときれいな笑顔で、俺はなんだかとても嬉しかった。

惚れたきっかけは、きっと泣き顔だった。
だけど今は、この笑顔が一番愛おしいと思う。



(あのさ、俺檜佐木修兵っていうんだけど)
(はい、)
(君の名前…聞いてもいいかな…)
(え?あ、えっと、夢野ユメといいます、どうも)
(いつもこの電車?)
(あ、月曜と水曜は―――…)


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