一人じゃ前に進めないんです。だから背中を押してくれませんか?










「嫌なのだよ」






間髪入れずに言い返した。飛び出た茶色い目が俺を睨む。ぱらぱらと、黒子はめだかの泳ぐ水槽にエサを投げ入れながら、けちですね、と非常にふてぶてしくそう言った。浮かぶ黄土色の粉末を求めて、魚たちが水面へと押し寄せる。ぱくぱくぱく、何とも小さな口が開いて、閉じて、また開いて。





「あげすぎじゃないのか?」

「だって、明日は土曜ですから。今日のうちにたくさんあげておかないと」





お腹が減って死んでしまいます。


ぱらぱらと降り続ける粉が、徐々に水面上の支配を増して広がっていく。それくらいじゃめだかは死なないぞとか、エサをあげすぎると水槽を濁らせる羽目になるぞとか、その結果もしかしたらめだかが死ぬんじゃないかとか、そんなお節介なことを教えてやった方がよかったのかもしれないけれど、だけど俺が何か言ってもどうせこいつは聞かないだろうし、そもそも俺は別にこのクラスの生物委員でもないし、まぁいいかと放っておくことにした。誰もいない廊下は、当たり前だが真っ暗だった。





「大体、足がちゃんと機能しているのに進めないだなんてことはありえない。右足を出して、次に左足を出す。たったそれだけなのだよ」

「実は足が折れてるんです。複雑骨折」

「だったら今すぐ病院へ行け」

「冗談が通じない男はモテないですよ」






余計なお世話だ、と思ったが口にしなかった。

先ほど自販機で買ったばかりのおしるこをのどに流し込む。どろり、と手に掴む缶は温かいのに、のどの奥を流れる液体はひどく冷たくて、もち入りを買わなければよかったと気がついたのもちょうどこの時だった。黒子はいつの間にか水槽を離れていて、めだかは相変わらず口を開いて、閉じて、閉じて。





「こんな狭いところにいたんじゃ、息苦しいと思いません?」






いくつかの言葉を並べて俺を見た黒子の表情が意味するものは、人間でいう『喜怒哀楽』のどれにも当てはまらないように見えた。その点では魚に似ている、と思う。しかしながら黒子テツヤという人間の取り扱い説明書をもっていない俺には、あいにくその感情を読みとることはできない。興味も、ない。





「そのめだかはおそらく養殖だ。どうせ元から外の世界なんて知らないのだよ」

「夢がないですね」

「別に、それが事実だからな」





埋め尽くす、白。黒子の机の上を支配しているのはたくさんの紙たちで、進路希望調査と、退部届。何枚も何枚も。それらは黒子にとっては同じ意味に過ぎないのかもしれなくて、どちらも名前以外は真っ白だった。行きたい高校、行きたい大学、なりたい職業、辞めたい理由。その全てが真っ白で、確か進路調査の方は提出期限が昨日までだったはずだが、やっぱり明日もこいつの机には真っ白な紙が広がっていることだろう。

緑間くん。

こちらに向かって広げられた細い腕。すいすい泳ぐめだか。海水でも生きられる淡水魚と陸でしか生きられない黒子とでは、果たしてどちらの方が生存率が高いのか。





「そんな目で見ないでくださいよ」

「…何のつもりだ?」

「甘やかしてあげようかと、思って」





まただ。またこいつは喜怒哀楽のどれでもない顔を作る。両手を広げて俺を迎え入れようとする黒子は、見るに堪えないほど脆かった。気がついているのだろうか。手足のないめだかは誰も抱きしめられやしないということに。





「今なら頭を撫でるサービスつきです」

「いらん」

「かわいくないですね。でも、そう言うと思ってました」





不毛だ、と思う。


ぱしゃんっ、乱暴に腕を突っ込んだせいで中途半端に捲り上げられた袖がじんわりと色濃く染まっていく。泳ぎ回るめだかを追いかけて、水草をかきわけて、小石を転がして、ぱしゃんぱしゃん。

めだかの心臓は透明だった。ちがう、皮膚が薄いから中身が透けて見えるような気がしているだけだ。一方それに比べて黒子の身体は透明だと思った。透明で、真っ赤な心臓が丸見えで、片手で簡単に握りつぶせるくらいの。






「僕も、抱きしめられたくないです。それよりもですね、緑間くん」






まるで小さな子供にでも話しかけているかのような、細い首をゆっくりと締め上げるかのような、場にそぐわない優しい声が教室に響く。生ぬるい、風。今夜は三日月だったのかと、この時になって初めて気がついた。真っ白な制服と真っ黒な背景が作り出したコントラストに目を細めると、しゅるり、緩められたネクタイが首輪のように思えた。


例えば、だ。こいつはタイプY、縁日で手に入れた金魚を池に放してやって、それでひとつの命を救ったのだと勝手に小さな自己満足に走るタイプだ。

仕方ないから、濡れた手を前に差し出した。







あ り が と う



同情とか愛情とか、そんな優しい感情でなかったことだけは確かだった。








ただ、俺は黒子のことが嫌いではなかったし、おそらくあいつも俺のことを嫌いではなかったのだ。互いに好きだったのだと思う、少なくとも床の上で動かなくなっためだかよりは。


ずっとずっと、だ。


黒子が宙に抱きつく直前、窓の向こう側へと飲みかけの缶を投げ入れた。視界から消えていく細い身体。星。三日月。跳ねる水滴。風。聞こえない泣き声。飲み残された真っ暗な液体が、夜間を泳ぐ。カランコロン。ぐちゃり。さようなら。













たぶんあいつは、池に放した金魚が生きてはいけないということを知っていた。まぁここで死んでいるのはめだかだから、その話は別に関係がないのかもしれなかったけれども。




















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背中を押す、という言葉からイメージするものは何でしょうか

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