閉店間際のそのバーには、並んで座るふたりの男と、カウンターの中でグラスを拭いているマスター以外誰もいなかった。ぼんやりとしたオレンジの明かりが、客の派手なスーツをより浮き立たせて見せている。しばらくは、どちらとも口を開かずただ酒をあおるだけ。グラスを動かすたびにその中で動く氷の音と、遠くで鳴る車のクラクションの音だけが静かに店内に響いていた。

 やがて沈黙に耐えかねるように、緑色のスーツの男、森田鉄雄が自分のグラスを睨みつけながら口を開いた。

「偶然ですね、銀さん」
「こんだけお膳立てしといて、そこまで白々しい挨拶もねえだろ」
「……そうですね」

 よくここまで根回しが出来るようになったもんだ、と森田の隣で平井銀二は笑いながらグラスの中身を喉に流し込んだ。突然舞いこんで来た儲け話、どこからともなくたれこまれる聞き知らぬ名の海外企業の情報。今思い返せばその全てが作り話だったのだろう。「打ち合わせがしたいから」という名目で呼びだされたバーに銀二がひとり来てみれば、待っていたのは企業の重鎮でも、政治家の先生でも無く、かつて袂を分かった筈の相棒だった。

 正直言ってきな臭い話だと銀二ははなから疑ってかかっていた。ただその疑いを持ったまま結局話を進め、相手の指定通りひとりのこのこバーに来たのは、もしかしたらこの話にその相棒の若造が関わっているかも、という希望が心の奥にあったからかもしれない。

「俺の作戦なんか、バレてるだろうと思いました」
「まあ、完璧とは言えねえがな」
「……だから、来てくれるとも、思わなかったんですが」

 そう言って森田は情けなく苦笑する。完璧とは言えずとも、金や人材、頭脳を総動員しただろうこの大がかりな『作戦』を立てた男の顔には見えねえな、と銀二は思った。久しぶりに会ってもそういうところは変わらない。相変わらず、悪党と言うには爪が甘い。

「銀さん」

 森田がもうほとんど残っていない酒をちびりと口に含んで呟いた。

「俺、あの世界から離れてみて、改めて危うい世界だったと実感したんです」
「そう思うのが、正常だろうな」
「まるでいつも薄い氷の上に立っていて、一歩踏み出したら崩れるかもしれない、みたいな境遇だったんだなって」

 そこまでまるでひとり言のように呟いていた森田は、意を決したように隣の元相棒に顔を向けた。銀二は視線だけを森田の方によこす。バーに来て初めて、二人の眼があった。あの頃と全く変わらない。お互い、心中でそうつぶやいた。

「でも、安全なところで平和に暮らしていても、銀さんたちの世界には戻れないのだと言い聞かせても、どうしても忘れられなかったんです。悪党たちが住む世界のことも、気のいい共犯者たちのことも」

 一旦森田はそこで言葉を区切った。視線を逸らしそうになるのをこらえて、冷静ながら真っ直ぐに向けられる目に必死で噛みつく。

「銀さんのことも、です」
「……」

 銀二は何も言わなかった。食らいついてくる森田の視線を自分からはずし、空になったグラスを振った。カランカランと小さくなった氷が鳴る。マスターがそれに呼応してウィスキーを注ぐと、何かを察したように中身のたっぷり入った瓶を残して、またふたりから離れた所へとおさまった。

「……だから、ギャンブルをしたんですよ」

 お構いなしに森田は話を続ける。ギャンブル、という言葉に反応して、銀二は再び森田の方へ眼を向けた。

「……ギャンブル?」
「銀さんがひとりでここに来れば俺の勝ち、来なかったり、誰かを連れてきたら俺の負け」
「そりゃあ、随分と分の悪い博打だな」
「でも来てくれたじゃないですか」

 そう言って森田は再び苦笑する。『来てくれた』ということは俺がこの計画の主犯を見透かすだろうことも計算済みだったか、と銀二は小さく肩をすくめた。

 森田の本質は何も変わらない。ただ、成長はした。悪党が巣食う沼にひとりで足を踏み入れられるほどに。銀二は酒をあおって、そして呟いた。

「……なんで戻ってくる?」

 森田はその言葉にあからさまに傷ついた顔をした。それを隠すように、今度は自分から目をそむけた。銀二はなおも続ける。

「俺達が薄氷の上に立ってんのがわかってんだったら、お前ひとりでこっちに戻ってくりゃいい。若さもある。ひらめきもある。俺達の元に戻ってくるより、よっぽど厚い氷が張れるんじゃねえのか」

 そこまで言ってしまって、銀二は心中でため息をついた。戻ってきてほしい気持ちはある。また森田と仕事をしたいという気持ちもある。しかしそれを素直に伝えるには自分はこの世界でひねくれすぎてしまったし、またあの世界で生きたいと思うだけなら、俺のそばでも無くていいだろうと言うのは本音でもあった。

 夜景が浮かぶ窓の外を眺めながらウィスキーを舐めていると、しばらく静かだった銀二の隣から氷の音がした。思わず目をそちらに向けると、先程までうつむいていた森田がグラスを強く握って銀二の方を見ているのだった。ためらうように息を吐き出した後、森田は言った。

「好きなんです、今でも」

 森田は今にも泣きだしそうだった。俺はこんな女々しい男だったろうか、と森田は心の隅でそんな事を考えていた。

「袂を分かってからも、ずっと好きでした」
「森田」
「こんな不純な気持ちで銀さんの隣に戻りたいなんて言ったら、失望させてしまうと、思ったんですが」
「森田」
「……好きです」

 森田はそれきり黙ってしまった。またしばらく沈黙が続いた。どちらとも酒を飲むことすらしなかった。窓の外で、パトカーのサイレンが鳴いていた。

「森田よ」
「……はい」

 ふたたび先程の突き放すような言葉が返ってくることを覚悟して、森田はしぼりだすように小さく返事をした。

「安田がいつか言ってた女の話、覚えてるか?」
「ええと……『女は最後のシノギになる』ってやつですか?」
「そうだ」

 思いがけない問いに、森田は戸惑いながら答える。

「一応、だいたいは」
「俺達の関係は、男女のそれとはまた別だろう」
「……そうですね」
「一方が破滅したら、もう一方もきっと道連れだ」
「わかってます」
「何も後ろ盾なんかありゃしねえ。戻ってくれば、さっきお前が言っていたよりも、ずっと薄い氷の上に立つことになる」

 その言葉に森田は再び銀二の顔を見た。今度は銀二が視線を返してくることはなかったが、それでも森田はその横顔から目を離すことが出来なかった。

「気を抜けば、足元なんかすぐ崩れちまうぜ」
「銀さん」
「……それでも、戻ってくるか?」

 そこで、やっと銀二は視線を森田にやった。目だけでなく、顔を森田に向ける。目じりににじむ涙を乱暴に袖口で拭って、森田は唇を噛みながら笑った。

「銀さんの隣に、戻ってもいいですか」
「……ああ」

 随分と遠い回り道だった。こんな危うい世界に戻ってくるなど、割れそうな氷の上に立つことなど、はたから見たら、とてつもなく馬鹿らしいことに違いない、と銀二は思った。けれど、正直に気持ちを伝えてきた森田に答えてやらぬことも、また馬鹿らしいことだとも思う。銀二は肩をすくめ、小さく笑んだ。

「戻ってこい、森田」






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