「あ、おかえりなさい銀さん」
「おう」
ホテルに銀二が戻って来たのは夜の7時を過ぎた頃だった。森田が朝からひとり銀二を待っていたこのスイートルームは、難しくはないが仲間を総動員することになった今回のヤマの拠点として数日前から借りているものだ。
結構な時間缶詰め状態だったはずの森田は待ち疲れた様子も無く銀二に明るい声をかけると、自らの担当は特に問題もなく終わったことを報告した。銀二は満足げににやりと笑ってうなずく。
「にしても銀さん、思ったより遅かったですね」
遅くても夕方には戻って来るものだと思ってましたよ、と森田は銀二にコーヒーを淹れてやりながら尋ねた。全体的に見れば大掛かりだが個々は難しい仕事ではないのだ。銀二が手間取るとは思えなかった。
「相手側に往生際の悪い奴がいてな」
銀二は皮張りのソファーに腰を下ろしながら、いつの間にか火をつけていた煙草をふかした。そいつの説き伏せに少々時間がかかったらしい。時間がかかった分、相手は多大な恥と不名誉を被ったことだろう、とコーヒーのカップを銀二の前に置きながら森田はそっと苦笑した。
「安田さんたちはまだ帰ってないです」
「あいつらはこの件の処理やらで今ごろ辺り走り回ってる頃だろ」
「ああ、なるほど……」
相手がコーヒーを手に取るのを見て、さて自分のぶんも淹れるかと銀二のそばを離れようとした瞬間、森田はバランスを崩しそうになって小さくワッと声を出した。見れば右腕を銀二に掴まれている。
森田が驚きで固まっていると、銀二はコーヒーを一口飲んでから森田を自分のほうに引き寄せた。自らの息が森田の肌を撫でるほど近く、首筋に顔を寄せる。目を閉じてスンと鼻を鳴らすと、銀二はそのままの体勢で尋ねた。
「……森田、なんかつけてんのか?」
「え?いえ、別に」
「そうか」
森田の答えを聞いて銀二は腕を離したが、その顔は少し不機嫌そうである。
「甘い臭いがする」
「え?」
「お前いつも香水なんかつけねぇだろう、いつもと違う臭いがする」
「……あ、向こうの人たちの香水が移ったのかも」
気が付かなかったな、と体勢を立て直した森田は自らの服をスンスン嗅ぐ。所謂金持ちたちのパーティーへ入り込んでの仕事だったため、参加している女性の中には香水がキツいのも何人かいたのだ。確かターゲットの近くにいた女もドギツイのをつけていた。長時間ターゲットと共にいたし、傍らの女のスキンシップもなんか激しかったから移ったんでしょうかね、と森田は曖昧に笑んだ。
「……あのなあ」
少しの思案の後銀二は煙草を灰皿に押しつけると、言おうとした言葉の代わりに小さくため息を吐いて森田の背中を軽く叩いた。
「……シャワー浴びて臭い落としてこい。臭くてかなわねえ」
「は、はい」
森田がバタバタと風呂場に走って行くのを見ながら、銀二は再びため息をつく。女のスキンシップが激しかったって、どう考えても「そういう気」があったからに決まってんだろうが。じゃなきゃあんなに自分の臭い相手につけるかよ、と銀二はコーヒーを手に取る。考えればわかりそうなもんだが、そんなことを「恋人」に伝えているのを見れば森田が色恋関係にひどく疎いのは明白だった。
――そういうこともこれから教えてやらねぇとな。
銀二は意地悪そうに笑う。先ほど森田を責めなかったのは優しさか、それとも別の感情か。
コーヒーを一気に煽ると、銀二は自ら電話を手に取った。
「おう、平井だ。いつもの香水頼むぜ。……いや、いいんだよ、俺がつけるんじゃねえんだ」
その香水は数日前に頼まれたばかりですがどうかなさいましたか、という店員の質問に笑いながら答え、ホテルの名前と今日中に配達するよう伝えて銀二は電話を切った。再び煙草に火をつける。
――簡単に匂いなんかつけさせてたまるかよ
何も知らないでシャワーを浴びている森田は、届いた香水を見てどう思うだろうか。銀二はひとりクックッと笑い、煙草の煙を吐いた。
香りシリーズ1