「あ、んた……」


 呟くと同時に、手からこぼした軍手が曲げた膝を滑って地面へと落ちた。体がだるくて拾う気にもなれない。ただ呆けたように男の顔を眺めていると、それが急に近づいてきて俺は情けなくもびくりと体をこわばらせた。


「ほら、落ちたぜ」


 男の目的は落とした軍手だったようで、それをコンクリートの上から拾い上げると俺の右手に握らせた。どうも、と小さな声で礼を返すと、男は人好きしそうなにっこりとした笑みを浮かべる。傷だらけの見た目からは想像もできないな、とぼんやりそんなことを思った。


「こんなとこで寝てたら風邪ひくぞ」
「……ほっといてくれ」
「ここ、俺の家の前なんだ。ここで寝られちゃあ、俺も迷惑するだろ」


 しゃがみこんで、俺の顔を覗き込むように男は言う。あまり人にじろじろと見られるのは好きじゃない。だるい腕に顔を埋めながら、少ししたら帰るから、と小さくこぼすと男はため息をついたようだった。しょうがないと妥協するため息だろうと思いきや、次の瞬間体が急に上へと引っ張り上げられた。収まりかけていた吐き気がまたこみあげてくる。


「気持ち悪いか?我慢しろよ、もしあれなら吐いてもいいいけど」
「何を……」
「ん?運ぼうと思って」


 俺のアパートまで。そう言った後、男はよいしょと声をあげると手慣れた様子で俺を背負いこんだ。抵抗しようにも、一度座り込んだせいか手足が言うことを聞かない。もうどうにでもなりやがれ、と黙って背中の上でゆられていると、男は満足げに鼻を鳴らした。


「別に変なとこじゃねえからよ、そんな綺麗なとこってわけでもないけど、我慢してくれな」


 男はそう言ったっきり黙ってしまった。こちらも口を開くと吐きそうだったから、それはありがたかったのだが。男はどうも俺より体温が高いらしい。前面に感じる熱は酔いが回っている俺には辛いものだったが、どうすることもできずただ揺られていると急に眠気が襲ってきた。どこに連れて行かれるのかわからないまま眠るのは危険だとは思ったけれども、人間、案外眠気には勝てないものらしい。意識を手放すのが、なんとなくわかった。







 朝の日差しが窓から容赦なく差し込んできて、俺は重い瞼をあげた。頭が鐘をたたくように痛い。しっかり二日酔いになったらしい体をかろうじて起こす。なんとか散らばった昨日の記憶を手繰り寄せ、6畳ほどの畳の上にご丁寧に敷かれた布団を見下ろすとだんだん状況が飲みこめてきた。そうだ、昨日は道路で休んでいたら変な男に担がれて、どこかに連れて行かれたのだった。どうやら運ばれた先がこの布団の上らしい。

 こった肩を鳴らしていると、突然後ろからあの声が飛んできた。


「早いな……もう起きたのか、酔っ払い」
「なっ……」


 振り向いてみれば、昨日と同じ服を着たあの傷だらけの男が立ち上がって伸びをしているところだった。大きくあくびをひとつすると、ゆっくりとこちらへ寄ってくる。明るくなってみると、夜よりもさらに顔の傷がくっきりと見えて、だらしなく首筋をかいている男にはことさらミスマッチに思えた。


「覚えてるか?昨日のこと」
「一応……っていうか、一晩いたのか、ここに」
「まあ、面倒くさかったから」
「面倒って……」
「さて、覚えてんなら、説明は少しでいいな」


 そう言って男は自分で確認する様に指を折りながら、あー、と音をはさんで説明を始めた。ここが男の住むアパートの空き部屋であること、俺が座り込んでいた場所からそう離れた場所ではないこと。あといくつか細かい事も言っていたが、男自身も曖昧らしくまあいいやと適当に言葉を区切った。


「夕方くらいまでならいていいらしいから」
「あの……俺、金無いんスけど」


 半ば睨みつけるようにそう言うと、男は気にした様子も無くカラカラと笑って、金はいらねえよと言った。本当によく笑う男だ。一晩泊って金がいらないなど怪しいと思ったが、まあいいかと思ったのは俺が金を持っていないからか、それともこの男の笑顔にまるめこまれたからか。傷だらけのおよそカタギの人間には見えない顔と快活に笑う顔はどうもうまく頭の中で合致しない。二日酔いの頭で考えるもんではない、ということだけははっきりとわかった。


「アンタ、名前は?」
「え」
「いつまでもアンタ、じゃ不便だろ」


 そう言って男はまた満面の笑みを浮かべた。知らない人間に名前を教えるという危険性は今までで散々承知してきていたつもりだったが、この笑顔をむけられると、どうも逆らえないと言うか、隠しごとをしてはいけない気分になる。昨日あったばかりだというのに。


「……伊藤、カイジ」
「カイジか。俺は天貴史。天でいいぜ、皆そう呼ぶから」
「そのわりには、アンタは俺を名前で呼ぶんだな」
「あら、気に障った?」
「いや、そういうわけじゃあ」


 弁解しようと肩をすくめたところで、俺の右側でガチャリと音がして玄関が開いたのが分かった。風が吹き込んでくる。酔いのさめない頭には気持ちのいい風だ。扉の向こうから俺と同じくらいの年の男が顔を出して、天さん、そろそろ時間ですけど、と声をかけた。ああ、と天もそれに応じる。


「んじゃ、俺はこれで出かけるから。多分、今日中は戻って来ないと思うからさ、適当によくなったら出て行ってくれりゃいいよ」
「……どうも」


 軽く俺に手を振って、天は扉の向こうに消えた。大学生の男が俺に会釈をして扉を閉める。風が再び遮断された。

 誰もいなくなった部屋で、俺は深いため息をついた。息がなんとなく酒臭い気がする。コミュニケーションは苦手だし、ひとと二人きりと言う空間も好きじゃない。そのわりには、天というあの男とは普通に会話が出来た気がする。相手が、俺と同じように傷だらけだから、だろうか。


「……考えてもしゃあねぇか」


 今日中には戻らないと言っていた。もう天に会うこともないだろう。顔をあわせない相手のことを考えたって仕方がない。

 時計はないが、日の高さから見てまだ昼前だろうか。体が軽くなるまでもう少し寝ていよう、と俺は白いシーツをかぶった。

 もう会うことの無いだろう男の顔が、頭の隅で妙にちらついた。





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