平山幸雄という名を呼ばれなくなったのはいつの頃からだったろうか、とツモって来た牌を確認しながら平山は薄く息をはいた。

 「赤木しげる」を名乗り始めたころか。いや、そもそもそれ以前から名を呼ばれることなどそうあったろうか。結局不要であった牌を河に流しながら、平山はぼんやりとそんなことを考えていた。なんだか今日は勝負に集中出来ていない。今まで特に気にもしなかったことが、先ほどから目の前の牌のことを押し流すように頭に入り込んで来ている。

 どうせリーチしているのだからこれぐらいのよそ事考えたって罰は当たるまい。もやがかかったような頭のまま、再び牌をツモる。


「……ツモ」


 牌を倒す時も、特に感動も喜びも無かった。平山幸雄、という名前がひたすらグルグルと回り続けている。原因はなんだ。


「メンタンピン……裏ドラひとつ、満貫」


 書類か何かでも読むように平山が告げると、卓を囲んでいた他の3人は悔しさとも諦めとも取れるため息を吐いた。約束は半荘10回の勝負。これがその10回目のオーラスだった。ガシャリと手牌を崩してそのまましばらくぼうっとしていると、タンタン、と二度肩を叩かれた。


「よくやった、アカギ」
「……ありがとうございます」


 卓を睨み付けたままねぎらいの言葉に会釈を返すと、安岡が自分の後ろで煙草を消すのがわかった。叩かれた場所が熱い。

 ……ああ、この人のせいか、とサングラスを手で押しつけながら平山は薄く息を吐く。


「アカギ、お前大丈夫か」
「……大丈夫です」


 何か異変を感じたのか、安岡は平山の顔を覗き込むようにしながら声をかける。なるべく表情を見られぬようにと、サングラスの位置を直すふりをしながら平山は手で顔を隠した。先程から、安岡が呼ぶアカギという名が異常に不快だった。頭が重い。掛け金云々のことか、相手側の頭と話す安岡をぼんやり眺めながら平山はとにかく早く帰って布団にもぐりたいと顔から手を外した。

 気が付かなかったが、もしかしたら体調が悪いのかもしれない。もしそうなら本当に早く帰らねばならない、と平山は額に薄く滲んだ汗を拭う。


「アカギ、帰るぞ」
「はい」


 話しおわったらしい安岡に声をかけられ、焦った気持ちもあったのか平山は必要以上に慌てて椅子から立ち上がる。同時に、もやがかかっていた世界がぐるりと反転した。

 目の前が白い。体の力が抜けていく。アカギ、おいアカギ、と何度も「自分の名」を呼ぶ安岡の声を聞いて、安岡さんがここまで慌てるのも珍しいなとどこか他人のことのように考えを巡らせながら、平山は意識を手放した。







 次に平山が目を覚ましたのは見知らぬ部屋の布団の上だった。捨てそびれたらしいゴミが、袋に詰められ部屋の隅にいくつも置いてある。

 部屋の様子をよく確認しようと起き上がると、着ているシャツが全身汗に濡れていることに気が付いた。気を失っている間にジャケットは脱がされたらしく、近くの壁に掛けてある。サングラスも枕元に置いてあった。


「なんだ平山、起きたか」
「や、安岡さん……」


 本格的に自分の場所について悩み始めた時、ぎいと古い玄関が開いて呆れ顔の安岡が入って来た。なにやら手に鍋を持っている。平山が呆然としていると、乱暴に靴を脱ぎ捨てて安岡は畳に上がってきた。


「ぶっ倒れやがって。体調悪いならはやく言え、面倒なことになんだろう」
「ええと、俺は」
「風邪と、疲労だとよ」


 鍋を畳に直に置くと、寝ていたせいで何束か前髪が掛かっている平山の額に安岡は手をやった。武骨な指が妙にひんやりと感じる。あの妙な考えも体調の悪さから来たのだろうか。そんなことを考えていたら安岡の手が額から離れ、ふいに去った冷たさに先程まで安岡が自分に触れていたということに今更気がついて平山は顔を赤く染めた。


「下がってんじゃねえか。丈夫な体してやがる」
「ええと、ここは」
「俺の家だよ。お前の家なんぞ知らねえからな。汚いからって文句言うなよ」
「連れてきてくれたんですか」
「悪いかよ」
「いえ……ありがとう、ございます……」


 平山が礼を言うと、安岡は無愛想にため息をつく。面倒臭がっているというより、礼を言われるのに慣れていないように見える、と平山は思った。


「ギャンブラーが資本の体大切にしないでどうすんだ、平山」
「はあ……」


 すみません、と一瞬顔を伏せた後、安岡の語尾に気がついて平山は勢いよく顔をあげる。


「な、なんだよ」
「いや、今、平山って」
「ああ?ふたりしかいねえんだから平山でいいだろ」


 そう言われたらそれまでだが、安岡は完全に自分を「赤木しげる」の代わりだと思っているに違いないと考えていた平山はあまりに自然に呼ばれた自分の名に少なからず動揺していた。そこの食堂で粥作ってもらったからと持ってきた鍋の説明をしている安岡にありがとうございますと会釈をする間も、自分の名を呼ぶ安岡の声が耳から離れない。

 そういえば出会ってしばらくは、安岡がずっと自分のことを「平山」と呼んでいたことを平山は思い出した。赤木しげるを演じるようになってからはふたりきりになる機会も無くなってしまったから、だいぶ記憶が薄れていたけれども。


「安岡さん」
「なんだ」
「……ありがとうございます」
「そう思うなら、麻雀で返してくれよ」


 周囲から見たら、俺の喜びなんて小さなものに見えるのだろう、と平山は鍋を手に取りながら思った。中に入っていた蓮華で粥を掬う。そんな小さなことで喜べるのだから俺も相当この人に惚れてるな、とも思う。

 粥を口に入れる。外から運ばれた粥はちょうどいい暖かさだった。


「しっかり頼むぜ、平山」
「はい」


 俺は赤木しげるではないのだ。





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