「森田、飯まだだったろ」


 銀二がそう言ったのは夜も11時を過ぎたころだった。それほど高価ではない腕時計で時間を確認してから、森田はええ、まあと曖昧に言葉を返す。


「どこか外に食い行くか」
「いいですけど、今やってる飯屋なんてここらにそうありますかね」


 座っていた椅子から腰をあげて襟を正しつつ、森田は内心銀二の提案に驚いていた。確かにお互い仕事から帰ってきたばかりで飯を食う暇も無かったが、こんな時間に銀二から食事の誘いがあるとは思わなかったのだ。同棲しはじめて2週間ほどたったが、二人きりでどこかへ食べに行くというのは初めてだ。廊下への扉を開きながら森田が当てはあるのかと聞くと、銀二はいや、と首を振る。


「勧めの店とかないのか」
「え、でも俺のよく行くところなんてそこらへんにあるような場所ですけど」
「構わねえ」


 お前の好きなところに行ってくれ、という銀二の言葉を受けて考えた結果、森田は少し歩いたところにある安くてうまいと評判の居酒屋ののれんをくぐることにした。森田が銀二たちに出会う前、ただの素寒貧だったころからよく通っている店である。

 敷居をまたぐと、煙草の臭いやら総菜の匂いやら、雑多な香りが鼻孔をくすぐった。そっと銀二の顔を窺うが嫌な顔をしている様子は無いので森田は安心して中に足を踏み入れる。店内を見渡せばテーブル席もカウンター席も割と遅い時間だと言うのにほとんど埋まっていて、森田は頭をかきながらカウンターの中の見知った顔に声をかけた。


「おっちゃん、テーブル席あいてる?」
「なんだ、今日は一人じゃねえのかい。隅でよけりゃあいてるよ」
「どうも」


 客はサラリーマンが多く、若い者から年配の者まで愚痴や他愛ない話を肴に楽しそうに呑んでいる。森田はここのそんな雰囲気も好きだった。店主の言ったとおりに壁際までくると確かに二人掛けのテーブルがひとつ空いていて、森田と銀二はどっかりと腰を下ろした。


「すみません、こういうところしか知らなくて」
「いいところじゃねえか」


 若い店員にとりあえずビールといくつか料理を頼み、森田は頬をかきながら苦笑する。目の前の人はどうもこの場所では浮いている気がした。もっと上品な場所を知っておくべきだったか。そんな森田の考えなどお見通しとでも言うように銀二はニヤリと口の端を引き上げた。


「似合わねえか、俺にこういう場所は」
「え、いや、まあ……はは……」
「一度行ったはずだがな、初めて会ったその日に」
「ありゃあ、居酒屋というより小料理屋だったでしょう」


 早くも運ばれてきた瓶ビールの王冠に栓抜きをあてがいながら、森田は悩むように低く唸った。ポン、と気味の良い音がして蓋が開くと、瓶を傾けてそれぞれのコップに注ぐ。なみなみと注がれたビールを少し口に含んで銀二は小さく笑った。


「俺だって居酒屋ぐらい行くんだぜ。最近は行けてねえけどな」
「そりゃ意外だなあ」
「お前はまだ俺のことをそんな知ってるわけじゃねえのさ」


 そう言ってビールを三分の一ほど喉に流し込む銀二に、森田は寂しそうに肩をすくめた。出会って日がそう深いわけでもない。それでも面と向かって自分を知らぬと言われるとどうにも寂しかった。そんな感情を押し隠すようにコップの側面に付いた水滴を指でぬぐう森田を見ながら、コップを一度テーブルに置いた銀二はおかしそうにひじをつく。


「俺だってお前のこと全部わかってるわけじゃねえだろ」
「でも調べたんでしょ、俺の事、いろいろ」
「身の上はな。だがお前の趣味やら好きなモンやらは知らねえよ。事実お前の行き付けの店だって知らなかったろう」
「……そういやそうか」
「んなもんはな、これから知って行きゃいいんだよ」


 そう銀二が結んですぐ、店員が頼んでいた料理を持ってきた。串カツやら、いわしの煮付けやら、森田がこの店でよく食べる品がテーブルに並ぶ。ゆっくりしていって、と笑う顔なじみの店員に森田はもう一本ビールを持ってきてくれるよう頼んで、さて食べるかと料理に目をやった。


「で、どれが勧めだ、森田」
「ええっ」
「知っていくんだろ、お互い」


 そう銀二にクックッと笑われて、森田は少し悩んだ後困ったような笑いを返した。


「全部」
「ざっくりしてんなぁ」
「好きなもの適当に頼んじゃったから。銀さんがおいしいって言ったものが勧めでいいや」
「丸投げじゃねえか」
「んなこたぁないですよ、俺も、銀さんの好きなもの知らなきゃなりませんからね」
「そら随分な屁理屈だ」


 言いながらも、並んだ料理のうち目にとまった煮物に箸を伸ばす。銀二が小さくうまいと漏らすと、森田が嬉しそうに歯を見せたのがわかった。自分も魚に箸をつけながら、本当に全部おいしいですから、と言う。


「今度は、銀さんお勧めの場所連れてってくださいよ」
「腰抜かすんじゃねえぞ」


 箸をくわえながら、そらどういう意味で、と森田は苦笑した。





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -