最近、私はどうにもツイていないらしい。
よく物を失くすは、仕事先は目がまわるくらい忙しいは、好きな映画監督は引退しちゃうわ、挙句の果てに彼氏は親友に寝取られるはでもう最悪。
特に最後のが。
脳裏に、私が二人を呼び出して事の真偽を問い詰めた時の親友の顔が浮かぶ。
『悪いとは思ってたけど、彼のこと好きなの!お願い彼と別れてください』
『時間はかかるかもしれないけど、ナマエには私達のこと認めて欲しい』
何を言ってるんだコイツは。
私は自分の耳を疑った。
もう結婚してもおかしくないくらいの年月付き合ってた私達の間に割って入ったのはあんたなのに、認めろって何?
もしかして、まだ私達親友のままでいられるとか本気で思ってんの?
だから、あの後キレてその親友の顔に水をぶっかけてやったことを、私はけして後悔していない。
むしろよくやったと思ってる。
しかし、それでも私の怒りはおさまらなかったし、涙も止まらなかった。
なによりも、あの時彼氏が何も言ってくれなかったうえに目を合わせてもくれず、しかもよりによって私から彼氏を奪った相手が親友だったことが、悔しくてたまらなかった。
たった一日で彼氏も親友も失うなんて、小説とかでよくある話が、まさか自分の身に起こるなんて思ってもみなかった。
私は仕事を辞めた。
何もしたくなくて、ずっと家に引きこもった。
今の時代、通販を利用すればなんの問題なかった。
『帰ってらっしゃいよ』
でも、久しぶりに電話してきてくれた母の言葉で目が覚めた。
あれから二ヶ月ほど経って、彼氏と親友の顔も思い出さなくなった頃、私もこのままじゃダメだと思っていた矢先のことだった。
だから、私は今夜行バスに乗っているのだ。
引き出しの奥にしまっていた実家の鍵を握りしめながら、ここでのこと全部忘れてやろうとして。
「(なのに…)」
夜行バスで帰ることを母にメールしようと、携帯のパスコードを解除していた時だった。
「 動かないでください。今からバスを乗っ取ります 」
そんな男の声が耳に入った。
聞こえた方向からして通路をはさんで隣の席に座っている人だろう。
言葉の内容を不審に思って横を見ると、まだ少年の顔つきをしている男が、なぜかその場に立っていた。
その顔には何の表情も浮かんでおらず、私はなぜか身震いしてしまった。
今は秋も中旬。
車内は暖房がきいていて暖かく、身震いする理由などないというのに…。
「き、君っ…」
その時、少年の前にいる運転手の様子がおかしいことに気がついた。
顔が青褪めており、ハンドルを操作する手がカタカタと小刻みに震えている。
そして、運転中だというのに視線を絶えず背後に向けていた。
その視線を辿るように顔を動かぜば、少年の影で見えなかった、運転手が背中に突きつけられている何かが分かった。分かってしまった。
「えっ…!」
思わず声がこぼれる。
慌てて口元を手で押さえたが、少年が一瞬こちらに視線を寄越したのが見えて、体が震えた。
それは包丁だった。
現実とは思えない光景に、驚きと恐怖と後何かがあって、私は目を見開いたまま動けなくなる。
"バスジャック"
そんな言葉が頭に浮かんだ。
なに、これ……?
恐怖のせいで喉に何かが引っかかっているような感覚がして、声が出ない。
その時、バスが本来止まるべき停留所を通り越した。
それと同時にこのバスに乗っている客が困惑気味にどよめく。
三連休を利用してか客の数は多く、そのどよめきは思ったより大きかった。
「マイク貸してください」
運転手が下手に身動きできずどうしようか焦っているなか、少年がそう言った。
その一挙一動から私が目を離せないまま、どうゆうことだと声をあげる後ろの乗客達に目を向けることなく少年はマイクを口に近づける。
《お前らの行き先地獄に変わったから》
少年はそう言い、包丁の切っ先を運転手に向けたまま通路まで出ると、一瞬私を見た。
わけのわからないアナウンスにどよめいていた客も、少年が持っているものを見ると皆一様に口を閉じ、その場に沈黙が広がる。
緊張でいっきに空気が張り詰めた。
私は無意識に唾を飲み込み、指一本動かせないまま恐怖に震える。
「(…なんで?今なんでこっち見たの……?)」
その疑問が、私の恐怖を加速させる。そして、私に冷静さを失わせた。
この時、私は予期していたのかもしれない。
自分がもう、助からない事をーー……
「(……警察!警察に通報しなきゃ…)」
それはこの車内で誰もが一度は考えたことだった。
しかし、どう見ても常軌を逸している犯人の前でそんな行動は危険すぎるといった考えから、誰も行動に移そうとはしていなかった。
それが私と彼らの命運を分けることとなる。
少年が運転手に目を向けている隙に、私は後ろ手に携帯を探った。
暖房もあいまって緊張で汗をかく。
脈打つ速度がいつもより早いため、胸に痛みを感じるほどに心臓がバクバクと鼓動をたて、耳の横で鳴っているのではないかと錯覚するほど煩く感じた。
マナーモードにしていた携帯はいつもと変わらずコートのポケットの中にあり、そのプラスチックのような感触に知らず知らず息を吐く。
見つかっ…その時、私は突然頬に衝撃を感じた。
殴られたのだと、目の前で拳をかたく握りしめ興奮したように荒い息を吐く少年を呆然と見上げて気づく。
「何してんのあんた……」
体が動かない。
答えようにも頭が真っ白で、私は恐怖から流れる涙を堪えるようブルブル震える唇を引き締めながら、首を振る。
逆上している少年の態度が恐くて、勝手に流れる涙が止まらない。
「何してたんだよあんたァァ!!」
それからはスローモーションのようだった。
周りから音という音が消え、少年が包丁を振り下ろし、その刃先が吸い込まれるように私の谷間に深々と突き刺される様が目にうつる。
そして、躊躇いなくその凶器を抜いた少年はその表情を動かすことなく、窓に沿って滑るように崩れ落ちた私の視界から消える。
その代わりに、赤い血飛沫が視界に飛び散った。
まるでプールの底に沈んでいるかのように現実が遠くて、私は喉元からせり上がってくる血を吐き出す。
目が霞み、息がだんだんとしづらくなり、意識が朦朧とする。音は相変わらず戻ってこない。
「(…死ぬのかな……私……)」
胸の不快な熱に、そう確信すると、私はふと、本当にふと、少年が持っている包丁に気付いた時、私が抱いた感情は驚きと恐怖とあと何だったんだろう…そう思った。
そして気付いた。
それは……" 期待 "。
この生ぬるい世界で、苦しみを感じざるおえない人生への終止符を打てるかもしれないという歓びの感情…。
「(……なんだ…そうか……)」
私は段々重たくなっていた瞼をおろす。
初めてあじわった爽快感のようなものと共に、最後の涙がこぼれ落ちた。
平凡な人生を歩んできたと思う私の、最初で最後の非凡な瞬間。
(それはあまりにも残酷で…)
(自分にはありえない事だと思ってた。)
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