この感情の名前は



片倉先生は時々、生徒のことを名字じゃなくて名前で呼ぶ。
それで上から咎められたことはないらしいし、生徒からの信頼も厚かったので特に誰も気にしていなかった。
むしろ、そんなところが生徒達には好感だった。

けど私は、名前を呼ばれる度いつもどきどきしていた。


初めて名前、と呼ばれた時、正直驚いた。今までは名前から取ったあだ名や名字で呼ばれてきていたため、名前で呼ばれることがなかった。

だから、自分の名前をあだ名なんかじゃなく、呼び捨てで呼ばれることが妙にむず痒くて、気恥ずかしかった。


私自身、この年齢になるまで彼氏などの類いはいたことはなかった。なにより男子と話すのは苦手だった。同学年の男子に話し掛けられても上手く話せた試しはない。
だから私は、先生に名前を呼ばれることが気恥ずかしいんだと思っていた。


けど、今になって気が付いた。


私は、先生に恋心を抱いていた。前にどこかで『教師とは、子供が初めて接する大人である』と聞いたことがあった。だとすると、私のこの想いはただの憧れなのかもしれない。
でも今の私は、それを憧れで片付けてしまえるほど大人ではない。


だからといって、その想いをぶつけるほどの勇気を持ち合わせているわけでもないし、なにより、今の先生と生徒という関係が心地よかった。

けど柔らかく笑って名前を呼ぶ、そんな時には、この関係を変えたいと思ってしまう。


そして今日もまた、いつもと変わらない一日が、終わる。






気が付けば時計は午後6時を指し、校舎は黒に染まっていた。冬は日が沈むのが早い。紅かった空はあっという間に暗い色へと変わっていた。

別段、なにがあったというわけではなかったけれど、なんとなく物思いに耽りたくて、この空き教室にいた。
この教室はビデオを見たりなど、移動教室の際使用する部屋で、用事がない限り人は来ない。だから私はこの教室で時々ぼーっとしに来ることがあった。


しかしそろそろ帰らないと、正門が閉められてしまいそうだ。机に出していた本とプリントを鞄へしまい、音が響かないようゆっくりと椅子を後ろに引いたところで教室の扉が勢いよく開いた。

私が椅子を引く音をかき消す勢いで教室の扉を開けていたのは、つい先ほどまで想いを馳せていた相手、片倉先生。


人がいたことに驚いてお互い、動きが止まった。が、先に動いたのは先生の方だった。



「こんなところでなにしてんだ名字」



動揺しているのがよくわかった。私も動揺で咄嗟に上手く声がでなかった。



「あ、え、えっ」

「落ち着け」

「先生こそ!な、なんでここにっ」

「俺か?俺は今日ここで数学の個別指導をしていたんだが、教材を置き忘れてな」



そう言いながら先生は教卓まで移動して中を覗き込み、そこから数学のテキストとプリントを取り出した。



「そ、そうなんです、か」

「ああ。それより、早く帰らねぇと正門閉まっちまうぞ」

「あ、はい、そうですね。帰ります」

「もう外は暗い。気を付けて帰れ」



片倉先生は教材を片手に教室の外へ出て行った。私は慌てて立ち上がり、鞄を肩に掛けて教室から出た。

先ほどの口ぶりからして、片倉先生は先に行ってしまったと思っていたけれど、廊下で待っていて、少しどきりとした。



「あの、すいません」

「なんで謝ってんだ」

「…待たせてしまったので」

「気にすんじゃねえよ。ほら、急げ」



喉でくつくつと笑い、私のスピードに合わせて歩きだす先生。それが嬉しくて、自然と頬が緩んだ。

けどあっという間に階段まで来てしまい、片倉先生とはここでさよならだ。
先生にはバレない程度にため息をついて、挨拶をしようと顔をあげた。



「先生、今日はこれで…」

「…そういえば名前」

「へ?」

「お前のノートの返却を忘れていた」

「あ…そういえばそうですね」



先日休んだ分の課題を、今日の授業で提出したことを思い出した。明日も先生の授業で課題もあったので、ノートがないとそれが出来なかった。



「少しここで待っていろ。すぐに戻る」



片倉先生は急いで職員室の方へと歩き出していった。私はというと、もう少しだけ先生と話せるんだと思うとなんだか嬉しかった。



少しして、片倉先生は戻ってきた。だけどさっきとは違い、上着を着て帰る準備も済ませていた。



「今日はもう用事もねえからこのまま俺も帰ろうと思ってな。折角だ、送っていく」

「…えっ」

「女の一人歩きはあぶねえ。なにより、お前は俺の大切な生徒だ」



片倉先生にとっては何気ないことなんだろう。だけど、私にとっては、一緒に帰れるという事実で頭が一杯だった。



「引き留めてたせいで正門は閉まっちまってるだろう。だから裏門の方で待ってる」

「は、はいっ!わかりました!」

「いい返事だな、名前は」



私の頭を軽く撫でてから、先生は教員用の靴箱の方へと向かっていった。私も先生を待たせないよう、急いで階段を降りて下駄箱へと走ったのだった。




この、私の想いは先生には伝わっていないし、伝えるつもりはない。

けどいつか、この教師と生徒の関係がなくなった時、勇気を出して伝えてみたい。




この感情の名前は
(憧れ?違う、これは恋)



(121204)



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -