夕暮れ時の落とし物
私には到底届かない存在であろう方、それは凶王と呼ばれるお方でございます。私は大坂城で最近務め始めたしがない女中。凶王様、三成様は私のような者とは生きる場所が違います故、お話をすることどころか、お顔を拝見することすら殆どありません。
しかし私は、三成様のことをお慕い申しておるのです。横恋慕であるのは承知しております。だから私は遠くから、極希にお見かけする程度で十分なのです。
「名前も物好きよね」
「そうかなぁ…」
ということを私より少し先輩で女中仲間の紅さんと三成様のお話をしておりました。
「三成様って気に食わないことがあればすぐに斬首するとか聞いたことあるのよ?何より怖いじゃない」
「うーん…」
「それに、名前は三成様とお話ししたことがないからそんなこと言えるのよ。私、食事をお持ちしたことがあったのだけど、膳を投げ付けられたのよ」
「それは危ないなあ…」
とは言ってみますが、やはりこの恋慕は薄れません。なにより、私にはそのようなことが想像付かないのです。
「だから、私には名前の気持ちがわからないよ」
他の女中の方も皆同じような反応を示したのだから、紅さんがそういうのもわかっておりました。
しかし、皆にこのような反応をされますと、流石に私も悲しくなってくるものです。
「…そういえば名前さ、話したこともないのに、なんで三成様をお慕いしてるの?」
「え?」
「一目惚れとか?」
「そう…なのかなぁ…」
「三成様ってお綺麗な顔なさってるものね。お食事を取ってくださらないから、顔色が優れませんけど」
「そうだね」
「ああそうだ、食事といえば、そろそろ夕餉の時間ね。支度をしなければ」
そこで紅さんは、またあとでと言い残していなくなってしまいました。ちなみに本日の私の仕事は洗濯でしたが、全て終えてしまったので暇です。
やることがなくなってしまった私は、仕方なく整えられたお庭を歩いてみることにしました。
「…人、全然いないなぁ」
黄昏時だからでしょうか、普段は人がよく通るお庭に人影はなく、静寂が辺りを覆い尽くしております。
「一目惚れとか、そんなのじゃないんだよね…ホントは」
なんとなく、先程の紅さんとの会話を思い出しました。あの時は一目惚れと言っていましたが、本当は違います。
…まだ、秀吉様が御健在だった頃に、私は三成様とお話をしたことがありました。当時の私は、町で働いておりました。そんなある日、家に帰る途中でうっかり、持っていた物を落としてしまったのです。すると何処かから帰ってこられていた三成様が拾ってくださったのです。
ただただ無言で、最後に吐き捨てるように「落とすな」と仰有られました。
その時はまだ、三成様は秀吉様の元に来たばかりで、町の者も三成様のことはよくご存知ありませんでした。ですので、彼が誰だったのかはわからなかったのです。
暫くしてから、その方がどなただったのかがわかり、そしてこうしてお顔を拝見することが出来た。それが嬉しかったのです。
そうしているうちに、いつの間にか三成様をお慕いするようになっていました。
「そういえば、三成様に初めてお会いした時もこんな黄昏時だったな…」
「私がなんだ女」
「ひっ!」
唐突に背後から不機嫌そうな声が聞こえて参りました。大慌てでそちらを向きますと、たった今想っておりました三成様がおられたのです。私は咄嗟に地面に膝をつきました。
「み、三成様がおられることに気付けず申し訳ございませんでしたっ」
「……」
「今すぐこの場から去ります故」
「…貴様、私とどこかで会ったことがあるか」
その問いかけに、私はどうお答えすべきか迷いました。しかし、私はあの事がどうしても忘れられずにいました。それを伝えるべきなのか、と。
「どうなんだと聞いている」
「あ、ありますっ」
凄みに負けて言ってしまいました。
「どこだ」
「え、あ…それは、こちらで私が働き始めて…」
「……」
沈黙になられたと言うことは違うのでしょう。なにより、先程から背筋が凍るような視線が痛いのです。
「……私が町で働いていた頃、落としてしまった物を拾っていただいたことがございます」
「……」
「…あ、あの時は本当にありがとうございましたっ!」
三成様が覚えてらっしゃらないことは覚悟の上です。ですが、また感謝の言葉を伝えることが出来たのですから、それで私は満足です。
「覚えがないな」
「…はい」
「だが、」
「?」
「……なんでもない」
三成様はなにかを言いかけたようですが、口をつぐんでしまいました。そのまま三成様は、何を言うでもなく何処かへと消えていかれました。一体なんだったのでしょうか?
ですが、私は三成様からお声をかけてくださられただけで幸せでした。
(そんなことは記憶にない。だが、自分に向けられた感謝の言葉と、その時の顔は覚えていた)
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とりあえず三成が好きなんだと言う話。
(120516)