よみもの



風になりたい






 私立セルティア学園は創立二百年の歴史を誇る、初等部から大学部までの一貫校である。

 その学園の、高等部の校舎内。

 ドタドタドタドタと、今日も廊下には賑やかな足音が響き渡る。

「ん〜、来たみたいねぇ」

 だんだんと近づいてくるその足音を聞きながら、ピンクブロンドの巻き毛の養護教諭、ローズマリーは楽しげに呟いた。

 キャスター付きの椅子を引き、入り口の方へくるりと回転したところで。

「リディルー!」

 ピシャーン、と引き戸が思い切り開けられて、男子生徒が勢いよく飛び込んできた。

 燃えるような赤い髪と深海色の瞳を持つ、見るからに元気そうな生徒だ。

「先生! リディルは!」

「お静かに、フェイレイくん」

 ローズマリーはぷっくりとした艶のある唇に人差し指を当て、フェイレイに微笑みかけた。

 妖艶な笑みを浮かべる彼女は、第二ボタンまで開いた白いシャツから見事な美しい胸の谷間を覗かせ、短いタイトスカートから伸びるスラリと長い足を組んで、無駄に色気を振りまいていた。

 まさに襲ってくれと言わんばかりの恰好ではあるが、彼女は一度も襲われたことはない。

 何故ならば。


「あ、すみません、先生」

 言いながら、フェイレイは薬品の匂いがする保健室に足を踏み入れた。

 瞬間、慌てすぎたために足を引っ掛け。

「うおっと」

 そのまま、ローズマリーの豊かな胸に顔を突っ込んだ。


 うわー、なんて素敵なハプニング。


 と、大抵の男子は思うのかもしれない。

 しかし、フェイレイをはじめとするこの学園の男子生徒は、そんなことは微塵も思わない。

 思うのは。

 あ、俺、死んだ。

 ……だ。


「何さらしとんじゃ、このクソガキがぁああああ!!」

 
 しあわせな柔らかマシュマロを堪能する間もなく、頭上から怒声が響いた。

 ローズマリーはフェイレイの腹に膝蹴りを食らわせると、左頬に鉄拳を、脳天にかかと下ろしを喰らわせた。

 どどーん、と激しい音を立て、保健室の床に体をめり込ませるフェイレイ。

 その様子を上から見下ろし、ふん、と鼻を鳴らした後。

 ローズマリーはパッと両手で胸を隠し、体をしならせた。

「もぉ〜、駄目ですわよ! この体はダーリンだけのものなのですから〜!」

 甘ったるく響く声に、先程の怒声はこの身体のどこから出たのだろうかと、疑問に思わざるを得ない。

 フェイレイは床にめり込んだ体をピクピクさせながら、「すみません」と謝った。


 ──無駄に悩殺的な美女はこういう人なので。

 今まで一度も襲われたことはないのだった。



 気を取り直し、鼻に絆創膏を貼ってもらい、ベッドを囲むクリーム色のカーテンをそっと開ける。

 白いベッドには、フェイレイの幼馴染であるリディルが眠っていた。
 
 覗き込んだ寝顔は血が通っているとは到底思えないほど、雪のように真っ白だった。整った顔立ちも相まって、まさに人形ののように横たわる少女に少しだけ眉を顰め、そっとベッドの傍らにある丸椅子に腰掛けた。するとリディルの長い睫がピクリと震えた。

「あ、ごめん、起こした?」

 フェイレイが声をかけると、リディルはゆっくりと瞼を開いた。

「……凄い、物音がした」

「あはは、そこで起きたんだね。ごめん」

 フェイレイは笑いながら謝る。

「平気?」

「うん」

 リディルは頷いてベッドから起き上がる。倒れたのが体育の時間だったため、長袖の藍の運動着のままだった。

「今日マラソンだったのに走ったんだって? なんでまた」

 重度の貧血持ちのリディルは、激しい運動は止められていた。大抵体育は見学だったはずなのに。

 リディルはチラ、とフェイをレイ見た後、少し俯いた。

「……走ってみたかったの」

「なんで?」

「……フェイみたいに、風みたいに、速く」

「俺みたいに?」

 フェイレイは首を傾げる。

 そうして、思い出す。

 リディルは小さい頃から運動を止められていて、自分の足で走ったことなどないのだということを。

「うーん、そっか」

 フェイはしばらく腕組みをして考えていたが、パッと顔を上げた。

「リディル、もう何ともない? まだ寝てる?」

「ううん、もう平気」

「じゃあ着替えておいでよ。昇降口で待ってる」

「うん」

 言われた通り、ゆっくりとベッドから下りると、ローズマリーに礼を言ってから教室に戻り、着替えて昇降口にやってきた。

 すると、外でフェイレイが自転車に跨って待っていた。

「リディル、ここ、乗って」

 と、後輪軸についたステップを指差した。

 リディルは戸惑いつつもカバンをフェイレイに渡し、ステップに足をかけ、フェイレイの肩に手を置いた。

「いい? ちゃんと掴まっててよ」

「うん」

 自転車はリディルを気遣うようにゆっくりと発進し、誰もいない校庭へと入っていった。

「スピード上げるぞ〜!」

 ぐん、とスピードが上がると、身体が後ろに持っていかれそうになり、慌ててフェイレイの肩を強く掴んだ。

 初めは少し怖かったものの、慣れてくると周りの景色に目をやれるようになった。

 校庭をぐるりと一周する景色は、いつものんびりと走っていたリディルが見ていたものより、ずっと足早に通り過ぎていく。

 肌に強く体当たりしてくる風の中を掻き分けて、突き進んでいくような感覚だった。

「どう〜? 風になったみたい〜?」

 少しだけ振り返り、フェイレイが訊く。

「……うん」

 リディルは微笑んだ。そして後ろからフェイレイに抱きつく。

「ありがとう」


(だいすき)







「青春だなぁ」

 その様子を見ていた用務員のランス(フェイレイ父)が、微笑ましく思いながら呟いた。

 後日、その報告を受けた学園長アリア(フェイレイ母)に、

「校内で自転車を乗り回すとは何事かー!」

 ……と、怒られるのだけれど。






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