「あれ」

いつもより大分遅れて放送室のドアノブをひねると、見事に鍵がかかっていた。みょうじがいない、訳ではない。その証拠にドアの向こうからギターの音が微弱ながら聞こえてきている。
鍵かけるなって言ったのはあいつなのに、どうしたってんだ。
俺は手に持っていた缶を脇に抱えて、うすっぺらい鞄の中をごそごそとあさった。指先に冷たいものが触れる。
あった。前に銀八に借りたきり返してなかったんだよな。
鈍く光る鍵はいとも簡単に、目の前のドアを開けてくれた。

それでも、俺の目に飛び込んできたのはいつもと違う光景だった。
日光にすけて茶色く見える髪がみょうじの肩甲骨辺りまでたれている。
こちらに背をむけたみょうじの姿は、俺たちが初めて会った日に戻ってきてしまったかのようだった。

「みょうじ」

「今曲作ってるの。声かけないで」

言葉とは裏腹にその手は全く動いていない。頑として振り向かない背中に俺は若干苛立っていた。
いつもならこんなことはない。あいつは、俺が来た時びっくりしたようにこっちを見るんだ。

「何怒ってんでィ」

まっさらな楽譜の横に手をついてみょうじの顔を覗き込む。瞬きするたびに意外に長い睫毛が伴って動いた。
そういえば、こんな至近距離でこいつを見たのは初めてかもしれない。

「怒ってない」

ほとんど唇の動きだけでみょうじがそう言ったのが分かった。嘘つけ、と俺は答える。
こんなに近くに居ても視線を全く合わせようとしないから、俺も少しむきになっていた。

「怒ってるかどうかぐらい見れば分からァ。伊達に毎日に会ってる訳じゃねえぜ」

「じゃあ、もう会わなくていい」

今度ははっきりとした声だった。みょうじはすがりつくようにギターを抱えている。作曲中という言い訳をする気は最早無いらしい。勿論、俺もさせる気は無い。

「やなこった。俺が好きで来てるんでィ」

するとみょうじは突然俯いてしまった。心なしか頬が赤い気がする。俺は無言で眉をひそめた。全くもって意味が分からない。

「あたしじゃなくて彼女に会いに行けばいいのに」

言ってからしまった、という表情でみょうじがこちらを見た。
何だ、そういうことか。やっとこっち見たなコノヤロー。
俺は思わずニヤリとした。

「さっき、俺が告白されたの見てたんだろ?」

「…だったら、何」

すねたようにみょうじが楽譜に視線を落とした。頬が一段と赤くなっている。
分かりやすい奴。
俺は楽しくなって更に顔を覗きこんだ。

「何でィ、やきもちか? 可愛いとこあんじゃねーか。俺が誰かと付き合うのが嫌だったんですかィ?」

「――帰るっ」

ガタリ、みょうじが勢いよく立ち上がった。俺は慌てて倒れそうになる椅子を支えた。みょうじはこちらを見ようともしないで、さっさとギターをしまっている。
まずい。からかいすぎた。さっきとは明らかに怒り方が違う。
どう声をかけたものかと考えながら前髪をつかんだ。みょうじはもう帰り支度を終えてしまっている。俺は意を決して口を開いた。

「みょうじ」

「…何」

ドアノブに手をかけた状態で足が止まる。俺は言葉を噛み締めるようにして言った。
多分今一番伝えなきゃならないことを。

「俺、誰とも付き合ってねえから」

きゅうっ、と小さな手がドアノブを握り締めたのが分かった。ほとんど視線だけでみょうじが振り返る。

「うるさい」

無機質な音でドアが閉まった。俺はさっきまでみょうじが座っていた椅子に腰を下ろした。温もりがまだ残っている。人の尻の温もりというのも妙なものだ。
あー、と俺は天井に声を垂れ流した。頭の中で警報が鳴っていた。うるさい、と言った瞬間のみょうじの赤い顔が目に焼き付いて離れない。

「やべえ、ちょーかわいい」


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脳が厄介な菌に侵された模様です

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