+1


―――ちーくん。


耳元で甘く囁いてきたのは俺が好きな鈴の声じゃない。
ましてや他の女の声でもない。
低く、からかうような響きをした男の声だ。
ついさっきまでは“千裕くん”と呼んでいたはずだ。
不意のことに驚きをそのまま顔に出すと、男は屈託のない笑顔を妖艶に歪める。

「アタリ?」

俺の動揺を見透かすようにその男は首を傾げ俺に顔を近づけてきた。

「ちーくん、ほら。口、開けて」

指が俺の唇を滑り、ほんの少し開かせる。

「―――智紀さ…」

我に返ったときには遅く、重なった唇から舌が入り込んできていた。
熱く絡みつく舌に、俺はとんでもない男に捕まってしまったんじゃないのかと気づいた。




―one night―





バーのドアベルが静かに響いて何気なくカウンターにいた俺は視線を走らせた。
スーツ姿の男が一人店内に入ってくる。
薄暗い照明の中で、その男は異様に目立って見えた。
20代半ばか後半か。爽やかそうな雰囲気をした顔立ちの整った男。
まだ大学生の俺が社会人の男の地位を推し量ることなんてできないけど、それでもその男は普通のサラリーマンと違うのはわかった。
オーラっていうと大げさかもしれない。
でも華やかで知的な空気をまとってカウンターへと歩いてくる姿を無意識のうちに目で追っていた。
その男が俺が座る席の間一つ空けて立ち止まりカウンターに手を置く。
常連らしい男はマスターとバーテンに声をかけて―――俺を見た。

「こんばんわ」
「……こんばんわ」
「隣いい?」
「え? はぁ」

俺が見すぎていたせいなのか、声かけられたうえにまさかの相席。
正直戸惑いながらジントニックを飲む。
高いスツールのイスに座った男はバーテンに

「とりあえずビール」

と声をかけて背広の内ポケットから煙草を取り出した。
片手で一本取り出して口に咥えて火をつける。
流れるような動作は様になりすぎていてまた目で追ってしまう。

「吸う?」

煙草を差し出されて、結構ですと首を振った。
俺、なにしてるんだ?
こんなにじろじろ見てたら不審者だろ。
グラスに視線を落として表面に薄く浮かぶ水滴を眺める。
たまには一人で飲もうとふらり立ち寄ったバー。
初めて入ったこの店を選んだ理由はとくにない。
ただ静かな場所で一人で酒を飲んで――感傷に浸るのもたまにはいいかなと、それだけだった。

「俺、邪魔?」

顔を上げたら頬づえをついた男が口元に笑みを浮かべて俺を見つめてる。
邪魔と言ったら正直邪魔で。
それでも実際目についたってことは多少興味があるってことだろうから、そうでもないとも言える。

「いえ……」

無愛想にするのもなんだから、愛想笑い程度の笑みを浮かべる。

「そう? よかった。俺も一人で飲みたくて来たんだけど、やっぱり人恋しくなって隣に座らせてもらいました」

……少し変わった人なのか?
気さくといっていいのか、屈託なく話しかけてくる態度はでも嫌な感じはない。
自分の空気に巻き込むのがうまそうな人だな、っていう印象を受けた。
ジントニックを飲んで、たまにはこういう出会いもいいかと会話を続けることにした。

「俺も一人で来たんですけど、俺でよければ話相手になりますよ」
「本当? 悪いね、気を使わせたみたいで」
「いいえ」

素直に嬉しそうに笑顔を向けられて俺もつられて笑顔になる。
それが俺と―――片瀬智紀さんとの出会いだった。




 next
1/105

TOP][しおりを挟む]