1 いまという名の過去@


「あー、くっそ」
金曜の夜。雑踏。今にも雨が降り出しそうな蒸し暑い空気。
スクランブル交差点をため息混じりに歩いていたらぎゃあぎゃあ騒いでいる男と肩がぶつかってよろけた。
相手はそのまま連れと笑いながら通り過ぎて、俺のかけていた眼鏡が落ちた。
弾かれたようにアスファルトに落下していった眼鏡。
無機質に落ちていくそれを、あ、と目で追って、そしてそのまままた別の誰かの足が弾くのを見た。
信号は青だからみんな歩いているわけで。
イコール早く眼鏡を保護しないとヤバイってわけだ。
ほんの1メートルほど先に飛ばされた眼鏡を追いかけて腰をかがめ手を伸ばす。
あと少し、というところで俺の眼鏡がつぶれた。
喧騒の中で眼鏡が踏み壊される音なんて小さなものだ。
でも俺の耳にははっきりと聞こえた。壊れる音が。
「―――あ」
俺が呆然と呟いた声と重なるように聞こえた声も。
眼鏡が踏みつぶされた衝撃に固まっていると、その壊れた眼鏡を拾う手。
視線を上げたら眼鏡をかけたスーツ姿の男が困ったように俺を見た。
「すみません。足元見ていなかったから。一旦向こうへ渡りましょう」
俺がとくに行くあてもなく向かっていた先へと男は指をさし歩き出した。
もしかして眼鏡弁償してくれるんだろうか。
そりゃそうか。この人が踏んだんだしな。
7月上旬の蒸し暑い夜だというのに背広を着た男は暑さなんて感じてないようだ。
俺と違って染めてない黒髪は綺麗に整えられていて、俺の眼鏡のことでも考えてるのか難しい顔をしている。
歳は30代前半くらいかな。
もうすぐ二十歳の俺にはなんとなくしか男の年齢は測れない。
青信号は点滅し始めていて横断歩道を渡りきったときには赤に変わっていた。
どこかで鳴ってるクラクション。車が走り出して一層喧騒が深まる。
男はもう閉店している店先で立ち止まって俺を振り向いた。
「この眼鏡ですが……」
向かい合ってよく見ると若そうな印象を受けた。
真面目そうな優しそうな男。
明らかに自分より若いだろう俺に敬語使って申し訳なさそうに頭をさげてくる。
「弁償を―――」
「5000円でいいです。それ5000円で買ったやつだから」
安い眼鏡を買ったのは二カ月前だ。
本当は裸眼でも生活はできるくらいだったけど、つい1時間前まで付き合っていたヤツが『親父に割引券もらった。眼鏡安く作れるらしいから作れば』とかいう意味わからない理由で作った眼鏡。
アイツ眼鏡フェチだったらしい。
俺を気に入ったのもたまたま俺がダチの眼鏡遊びでかけてたの見てかっこいいと思ったからとかいう安易な理由だったらしいし。
男で眼鏡フェチってなんだよ、ってまぁ……男も女も関係ないか。
「つーか……弁償いいです。もういらないやつなんで」
俺も男。つい1時間前俺を振ったアイツも男。
女に興味が持てないと気付いた思春期。
ようやくアイツで二人目の彼氏だったのに。
同性同士でって普通の状況ではなかなか見つけられねぇってのに。
「いやでも……」
「そのかわり」
ただその分、同種に出会ったらすぐわかる。
同族ってのはピンとくるもんだ。
だから。
「俺、さっき振られたんです。よかったら話聞いてもらえません?」
俺の目の前にいるこの男が、俺と同じだと直感した。

それは、単なる気まぐれだった。
特に意味なんてない。
振られたあとに俺と同じ性質をもつだろう男に会った。
偶然で、めったにないこと。
だから―――たまにはいいか、なんて思っただけだ。

意味なんて、ない。
なかったはずだ。

***

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